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    かけはし2020年10月19日号

自立した民衆的連帯の組織化へ


声明

第四インターナショナル執行ビューロー  2020年9月26日

ルカシェンコの独裁に対する
反対運動への全面的支持を!





(1)

 極めて残忍な弾圧(すでに一万二千人以上の逮捕者、数百人の負傷者、少なくとも四人の死者が出ている)にもかかわらず、ベラルーシ民衆の大衆的反乱は九週目に突入しており、社会的な拡大とともに首都ミンスク以外への地域にも拡がってきた。しかし、当面はゼネストへの発展には成功していない。八月九日の大統領選挙の結果が改ざんされて以来、EUとロシアの間に位置する九五〇万人のこの国では、毎週数十万人の平和的なデモ隊が、とりわけ女性たちが、次のことを要求してきた。

*ルカシェンコの退陣(彼は九月二三日、首都の中心部を封鎖した軍隊と警察の保護の下、最大限秘密にした中で大統領就任式をおこなった)。
*自由で公正な選挙。
*警察の暴力の終結と政治犯の釈放。

 民衆によるこの印象的な抵抗運動は、公式の選挙結果が発表された後で最初におこなわれたデモが政府によるテロに直面してから、その勢いを増した。しかし、その根源はもっと深いものだ。すなわち、五年以上にわたる、ウクライナ危機と対ロシア制裁、ルカシェンコ独裁政権のもとでの経済的・社会的悪化、労働法の分野での新自由主義的政策(労働協約を個別有期契約へと切り換えることを含む)、失業者への迫害、二〇一五年以降の賃金凍結、退職年齢の引き上げ、パンデミックに直面した中での労働者の尊厳の否定……。ベラルーシ民衆が立ち上がったのは、人々を使い捨ての商品のように扱い、人々を殴り、拷問し、コロナウイルスについて嘘をつく政権に反対してのことなのである。

(2)

 ルカシェンコは、民衆が民営化政策に反対する行動に参加していた一九九四年に、ポピュリスト的な言説で政権に就いたが、資本主義の復権を追求するために権威主義的政権を形成した。それは半周辺的資本主義の特異なシステムである。その中では基本的に、経済的・政治的権力は民間大資本に基礎を置くのではなく、ルカシェンコがその象徴である(ただし、所有者ではない)官僚的で家父長的な国家機構に基礎を置いている。国家資源の重要な部分を産業、農村部門、インフラ、国民を維持することに費やすことによって、この政権は民間資本の諸要素を役人に従属させ、(ロシアとは違って)格差の増大を制限したのである。
このようにして、経済的、行政的、政治的、文化イデオロギー的な方法で労働者を服従させ搾取しているのは、民間資本と結びついたノメンクラツーラ(国家官僚)なのだ。二〇一三年以降、このシステムは停滞期に入った。そして今日、それは多次元的な危機に突入している。

(3)

 一九九〇年代後半に宣言されたベラルーシ・ロシア連合国家は、その過去一〇年間において、ソ連崩壊以降の空間を再統合しようとする試みを代表するものだった。しかし最終的には、ベラルーシ政権の政治的自治を維持しつつ、経済的にはロシアに依存するという形態をとった。プーチンのロシアは、ソ連崩壊以降の空間の統合を、ロシア大資本を拡大する機会、旧ソ連企業が民営化において重要な役割を果たす機会としてしか理解していないことが明らかになった。ルカシェンコにとって、そのような統合は、資産に対する支配権の喪失を意味するだけでなく、ロシアの官僚や経営者には引き継がれていた政治的権力をも失うことを意味するものだった。
ルカシェンコのベラルーシにおける経済的・政治的モデルは、生き残るために欧州連合とロシアの間をいつも巧みに行き来しなければならなかった。このようにして、欧米はルカシェンコの権威主義に不満を持っていたにもかかわらず、彼がロシアからの独立を維持したいと願っていることやベラルーシにおけるロシア軍事基地の拡大に抵抗したことで、彼を評価したのである。こうしたベラルーシの中立的な立場によって、ミンスクは二〇一四年にロシア・ウクライナ・EU間の交渉の主要なプラットフォームとなることができたのだった。
もう一方で、プーチンにとっては、ルカシェンコはベラルーシをNATOに近づけさせないようにする指導者であり続けていたし、ベラルーシ経済の大部分をロシアに向けさせる方向性を維持していた。このように、ルカシェンコはロシアや欧米のどちらからも信頼を得られなかったが、同時にベラルーシの現在の立場を続けることを保証したために、ロシアや欧米を満足させたのである。
八月九日の大統領選挙後にベラルーシで始まった大衆的抗議行動は、主として内部的な理由によるものだった。ここ数カ月間、ルカシェンコはこの危機を自力で解決できず、公然とロシアに助けを求めた。ロシアの政治顧問と特別治安機関の代表者がベラルーシに到着し、プーチンはルカシェンコを助けるためにロシアの機動隊を派遣する意思を公然と表明した。さて、もしルカシェンコが政権に何とかとどまることができるとすれば、彼のロシアへの政治的依存は飛躍的に高まることになり、彼は国内ではきわめて不評を買うだろう。
最近のプーチン・ルカシェンコ会談の後、モスクワは現在のベラルーシの危機を、権威主義モデルの段階的な転換を上から押し進めるための方法として見ていることが明らかになった。それは、ロシアの大資本によって、ベラルーシの大規模国営企業の民営化を促進する目的で、外見上の修正(憲法改正)をおこなうという問題である。
EUは全体としては、このようなモデルを受け入れる準備ができているが、ベラルーシに明確な代替案を提示することができず、プーチンを挑発して東欧に新たな(政治的な、ひょっとすれば軍事的な)紛争を引き起こすことを恐れている。
結局のところ、抗議のために立ち上がったベラルーシの民衆だけが、ベラルーシの根本的な変革と民主化に関心を持っているのだ。

 

(4)

 二〇〇一年、二〇〇六年、二〇一〇年、二〇一五年の大統領「選挙」――その結果は常に野党によって争われてきた(グロドノ地域執行委員会委員長の最近の声明によれば、「得票数を数える方法」がないのだそうだ)――の後も、抗議行動がおこなわれたが、弾圧を受けた。二〇一七年には、政権が「寄生虫」だと非難した失業者に政令で税金を課そうとしたことから、新たな動員の高揚が始まった(訳注1)。ミンスクだけでなく、地方都市でも何千人ものデモ隊が「政令第三号にノー! ルカシェンコは出て行け!」と唱え、政権は税金の代わりに国からの補助金を削減せざるをえなくなった。これは、政権にとって最初の一歩後退であるように見えた。
新型コロナウイルスのパンデミックが始まったとき、ベラルーシには多くの先進国よりも優れた医療システムがあるにもかかわらず(人口千人当たりの医師数は、ユーロ圏では三・九人、北米では二・六人であるのに、ベラルーシは五・二人)、官僚システムは危機に適応することができなかった。政権はパンデミックを「精神病」と呼び、医療従事者に防護具や医療品を提供できず、救急車の不足に直面した。その一方で、ルカシェンコは最初の公式な死亡者(著名な俳優)のことを「頑張れなかった」「かわいそうな野郎」と冷笑的に呼んだ。
そして、パンデミックについて話す勇気のある介護者は弾圧された。民衆の自己組織化が始まったのはまさにそのときだった。「ByCovid19」キャンペーンは、無能力な国家に代わって、設備やボランティア労働者を提供し、各地域での調整ネットワークを立ち上げることができた。政権は、弾圧とボランティアとの連携の間で揺れ動いていた。「ByCovid19」キャンペーンのコーディネーターが言うように、ボランティアの自発性は「変化の必要性を浮き彫りにした」のだった。
ルカシェンコは、「彼らは投石器を持って私を追いかけてくるだろう」(二〇二〇年四月二六日)と恐れて、リベラル派の主な対立候補――ビクトル・ババリコ(ベルガズプロムバンクCEO)、ヴァレリー・ツェプカロ(元大使・副大臣・ベラルーシハイテクパーク管理者)、セルゲイ・ティハノフスキー(起業家・ブロガー・人気のYouTubeチャンネル「A Country to Live」の主催者)――が大統領選挙に立候補できないようにすることを決めた。彼は基本的に男性優位主義者であるため、「この重荷を背負うことができない」女性候補者は「倒れるだろう」と考え、何十万人もの署名を受け入れて、セルゲイの妻スベトラーナ・ティハノフスカヤの立候補を認めた。
この教員は、権力を目指していないと主張する「普通の女性」として、そのイメージは大多数の有権者のイメージと一致していた。そして、ツェプカロの妻とババリコの選挙運動マネージャーの支持を得て、全国の選挙前集会で何万人もの人々を集めることができた。そして、誰も彼女の公式スコア――得票率一〇・九%――を承認することはできなかった。
八月九日、一〇日、一一日におこなわれた最初の大衆的抗議集会をきわめて暴力的に弾圧したことによって、それ以上のことが起きてしまった。ベラルーシの社会学者アンドレイ・バルドマツキーが言ったように、「誰かがあなたの窓を撃てば、建物全体がそれを見ている」のだ。不正とテロに対して、抗議運動はすぐに拡大した。ルカシェンコはいまや、弾圧部隊のおかげで持ちこたえているに過ぎない。「銃剣の上に座り」ながら、人はいつまで君臨できるものだろうか?

(5)

 ルカシェンコ政権はテロで対応することで、デモ隊の集中を防ぐことを望んだ。実際には、ルカシェンコ政権は、抗議行動参加者に自宅前や建物の中庭、 郊外の村でデモするように強要した。そのことは抗議行動を増加させ、近隣関係を中心とした地域のさまざまな形態の自己組織化を後押しした。官僚システムが建物管理や社会サービスにおいて機能不全に陥っており、近隣住民は緊急の問題を自分たちの間で解決せざるをえないため、近隣住民の関係は非常に強くなっている。
ソーシャル・ネットワークとインターネット・チャンネル――若者に人気があり、政権がメディアを統制し検閲する国では主要な情報源となっている――の役割により、結果として地方の自然発生的な抗議活動の巨大なネットワークが現われたのである。
抗議行動には、中心となるものや独断的な指導部はなく、「流動的なリーダーシップ」があるだけだ。「指導者」として登場したある人物が弾圧されるとすぐに、地方レベルで別の人物が当然のようにその代わりを務める。この運動を特徴づけるものは、大きな創造性であり、抗議行動参加者は常に新しいコントロール形態、平和的闘争の形態を考え出し、これらはすべてソーシャルネットワークを通じて流され、拡散し、豊富化している。
八月一〇日から、労働者それ自体が動員に加わった。負傷者の治療に当たった医療従事者(ほとんどが女性、医師、看護師)が拷問に抗議して街頭に出た。多くの企業で(ときには民間部門の企業主の支援を得て)ストライキがおこなわれた。何よりも、少なくとも十数社の非常に大規模な国有企業でストライキが起こった。
工場内で労働者が集まり、ときには経営者や政権の地方代表との間で、論戦を交わすこともあった。ミンスク自動車工場では、八月一七日、労働者がルカシェンコに「出て行け」と叫んで工場から追い出した。ストライキ委員会が出現したが、占拠ストライキの試みはどこにもなかったようである。むしろ労働者は工場から出て、デモ行進をおこなった。
そして、弾圧(ときには国営テレビ局やミンスク国立劇場でおこなわれたような大規模な一時解雇、あるいは解雇の脅し、逮捕があり、それに続いて、実際の指導者や「指導者」と疑われた者の投獄がしばしばおこなわれた)や現にある組合の弱体や組合の不在、そして、ときには「イタリアン・ストライキ」(目立たない、労働者をバラバラにしたままおこなわれる順法闘争のこと)をやろうという企業役員の「アドバイス」によって、ストライキ運動は後退し、プロレタリアートは広範な抗議運動の中に溶け込んだ。工場は反乱の中心にはならなかった。プロレタリアートは、政権に対して闘う民主主義運動の中で、自分たちの要求を中心に、(まだ?)自らを階級として主張してはいない。
デモに対する残忍な弾圧に直面して、女性たちは、女性として多数の「連帯の鎖」を組織した。そして、当局が女性とその子どもたちさえも弾圧するように命令する前には、弾圧部隊に花を与えたりして、数の上で彼らを圧倒して非常に平和的だった。「連隊の鎖」は、この男性優位を非常に誇示する部門を一時的に麻痺させた。しかし、女性の権利のための要求は、これらのとりくみの中には(まだ?)登場していない。

(6)

 政権に拒否された野党大統領候補(V.ババリコ、V.ツェプカロ、S.ティハノフスキー)やアンドレイ・ドミトリエフ(「真実を語る」ための候補、公式的には一・二一%の得票率を獲得)は、自由主義的な経済プログラムを掲げて、とりわけ民間部門の「企業の自由」と「不採算企業への融資を止める」必要性を目標としていた。しかし、スベトラーナ・ティハノフスカヤの大統領選挙キャンペーンからは(候補者が拒否したわけではないが)このテーマはほとんど消えていた。二〇二〇年八月九日以降、彼らは政権に対する大衆の反乱にも登場していない。デモ隊は民主主義的な三つの要求だけを前面に打ち出した。
自由主義的野党は、一九九四年以降、疎外され、政権の機関から重要な代表権を奪われ、実際には非常に弱体化している。同じことが左翼を名乗る政党にもあてはまる。彼らは(いわゆる「本物の社会主義」である旧体制への郷愁が混じっていることが多いのだが)、討論クラブにまで縮小していた。
最後に、組合は強制加入だが、公式の労働組合運動は、高度に官僚化された労働組合主義とは何の共通点も持ってはいない(訳注3)。それは、ルカシェンコにとっては伝達ベルトとして、またおそらくは組合幹部にとっては社会的出世のための枠組みとして機能している。ルカシェンコが一九九〇年代の初めに、自由主義的ショック療法に終止符を打つと同時に、非常に強力な労働者・労働組合の動員を弾圧したのは、このレベルでの決裂であったことを強調しておく必要がある。
彼の国家資本主義による「社会的保護」は、労働者をばらばらに原子化すること、および労働者を官僚的に監督することと有機的に結びついていた。独立した労働組合――たとえば国際労働組合総連合に加盟しているベラルーシ民主労働組合会議(BKDP)――は、弾圧を受けつつも容認されているが、非常に弱体で、大企業にはあまり存在していない(訳注4)。ルカシェンコがモデル化した社会は、このように原子化された社会である。
これがここ数カ月、とりわけ民衆の反乱が始まってから変化してきたことである。ベラルーシの労働者と人々との連帯を求めるETUC(欧州労連)ネットワークからの呼びかけ――とりわけ最近ETUCに加盟したCGT(フランス)からの呼びかけ――は、重要な転換点となりうる可能性を示している。
その限界がどのようなものであろうと、われわれはこの大衆的民主化運動の中で、著しい政治化、市民的自己組織化の学習を目の当たりにしている。この民主化運動は、遅かれ早かれ、社会のためのプロジェクトを構築しなければならないだろう。
ルカシェンコと彼の独裁政権を「排除」することに成功すれば、それは分裂し、階級問題やジェンダー問題、代わりに何を構築すべきかについての議論が盛んになる条件が現れるかもしれない。そうなれば、労働者階級の役割(ストライキが始まったことで、ルカシェンコは一時的に弾圧を制限することを余儀なくされ、それは労働者階級の強さを示した)、女性の役割(土曜日のデモが日曜日の大衆デモの継続への道を開いた)(訳注2)、エコロジー問題(ベラルーシはすでに深刻な気候変動の開始を経験しており、国の南部は、五〇年前はまだ湿地帯の森だったのが、草原地帯になりつつある)が議論の中心になるだろう。

(7)

 現在のベラルーシ社会の政治化を支えている民主主義、医療、フェミニスト、階級、環境問題のすべてがエコ社会主義的戦線の出現を可能にするように、(労働組合や政治的に連合した)国際主義左翼は、ベラルーシの民主主義運動全体との具体的な連帯の結びつきを下から展開できなければならない。
連帯とは、今日の運動を象徴すると主張する人々、つまり、スベトラーナ・ティハノフスカヤを中心とした調整評議会(弾圧は大幅に弱くなっている)、あるいは彼らの本当のプログラムや目的――親ロシアか反ロシアか、そして反社会的で非民主的な民営化――を黙ったままで運動に参加してきた旧政党の人々の、あれやこれやの決定との連携を意味するものではない。この問題は、経済状況が悪化している今、ますます表面化してきている。ルカシェンコの見せかけの保護的なレトリックと外見だけ民主主義的な野党の両方に反対する必要がある。
連帯とは、弾圧に対する民主的な防衛、表現の自由に対する多元的権利の防衛、おこなわれるデモやストライキへの支援を意味する。連帯はまた、ベラルーシの大衆の動員から利益を得ようとする他国の政府や国際金融資本の策略からの独立も意味する。

*ベラルーシの民主化運動との労働者の国際連帯を!
*ルカシェンコと彼の政権を打倒せよ!
*ベラルーシにおける自由で公正な選挙を!
*ベラルーシの将来に関する議論の自由な自己組織化を!
*エコ社会主義的なベラルーシへの移行を! 労働組合、女性・若者・労働者の運動の国境を越えた結合を!

(訳注1)この失業者への課税は「社会的パラサイト(寄生虫)税」と呼ばれ、二〇一五年に導入された。労働日数が年間一八〇日以下の労働者に二五〇ドルが課税された。
(訳注2)女性たちは、毎週土曜日に女性を中心としたデモを組織している。これに対してもルカシェンコ政権は弾圧を強め、ミンスクでは九月一九日に四一五人が拘束された。
(訳注3)ベラルーシ労働組合連盟(FPB)は政府の完全な統制下にある。公称組合員数は四〇〇万人。
(訳注4)一九九一年のストライキ闘争におけるストライキ委員会の組織化は、その後独立労組の結成へと向かい、一九九三年にベラルーシ民主労働組合会議(BKDP)結成へと至った。しかし、組合への弾圧の中で、組合員数は一万人以下にまで減少させられた。


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