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    かけはし2020年10月26日号

南部の土を基地建設に使うな


沖縄報告 10月18日

血と涙がしみこんだ記憶の破壊だ

沖縄 K・S

石灰岩地形は沖縄の歴史そのもの、県民の財産

石灰岩地形を壊し辺野古の埋立に使ってはならない!


 防衛局による辺野古埋立申請によると、埋立土砂の調達先が当初計画の福岡県、山口県、香川県が外され、徳之島、奄美大島、大隅地区、鹿児島地区などの鹿児島県の調達可能量が四〇〇〇万立方m以上と大幅に増加するとともに、沖縄県内からの調達予定量もまた、約四五〇〇万立方mと大幅に拡大した。

沖縄県の石灰岩を取りつくそうとする変更申請

 変更申請の計画は次の通りである(単位は万立方m)。

 本部地区  948・2
国頭地区  234
宮城島地区   30
南部地区 3159・6
南大東島     6
宮古島    50・5
石垣島     48
沖縄県合計 4476・3万

 辺野古・大浦湾の埋立に投入する土砂の総量は約二一〇〇万立方mとされているので、沖縄県だけで、その二倍以上の調達可能量が計画されていることになる。特に、糸満・八重瀬の南部地区は三〇〇〇万立方m以上の土砂が調達可能とされた。日本軍の首里城から摩文仁への撤退により、十数万人の住民を巻き込んだ地上戦の結果、米軍の砲弾・火炎放射・銃撃・ガス弾や日本軍の壕追い出し・食料強奪・スパイ視による殺害、餓死、集団自決(国家により強制された集団死)などにより、おびただしい血が流されたのが、南部地区だ。遺骨収容もまだ終わっていない。

10・2南部地区砕石場の現場調査

 南部の土を軍事基地を造る埋立に使うのは犠牲者に対する冒涜だ! という声が上がっている中、島ぐるみ八重瀬は一〇月初め、有志が集まって南部地区の石灰岩採石場の実地調査を行った。この日は主に、次の二カ所を回った。

@ 第二丸真コーラル

 八重瀬町字仲座一帯に広大な砕石場を有している。国道331号線の北側にある砕石場跡は、石灰岩の山全部が掘りつくされ、掘られた穴には別のところから建築残土や表土で埋められ、平地となっている。隣接する土地の境目は断崖絶壁。明らかに違法な砕石工法で、少しでも多くの石灰岩を掘り出そうとしたことが一目で分かる。この場所はすでに掘りつくされたと見ることができそうだ。
国道の南には現に採掘中の採石場がある。名称は「第二丸真コーラル鉱山」、鉱業権者は「株式会社丸真組」。作業場の一角には大小の石灰岩が種類別に積み上げられていた。しかし、国道からは木にさえぎられて採石場の姿は全く見えない。

A 大里砕石東風平鉱山

 八重瀬町字高良と隣接する糸満市字与座にまたがっており、与座側の崖の上には航空自衛隊与座岳分屯地の巨大レーダー(通称ガメラと呼ばれるFPS―5レーダー)がそびえている。八重瀬町の字高良と字仲座をむすぶ全長五qの県道15号線から砕石場を眺めると、与座岳の一帯が大きく削り取られた姿を見ることができる。
この日は主に八重瀬町の二カ所の鉱山を見て回ったが、糸満市の各所にはさらに多くの採石場がある。

沖縄戦の最後の戦場、南部の土を基地に使うな!

 沖縄島南部は、沖縄戦の最後の戦場となり、軍人・軍属として、あるいは民間人として多くの県民が命を失い、また、日米両軍兵士や動員された朝鮮人の血で染まった。南部の土を他でもない軍事基地を造るために辺野古埋立に使うということに対する拒否反応は極めて強い。今回寄せられた一万八〇〇〇を越える意見書には、この点を指摘したものもかなりの数にのぼった筈だ。
沖縄戦犠牲者の遺骨を掘るガマフヤーとして有名な具志堅隆松さんは沖縄タイムスや琉球新報のインタビューで、多くの遺骨がまだ埋まったままになっており、年月が経過したため石と骨との識別が難しいと指摘したうえで、「戦争で亡くなった人の血や肉が染みこんだ土や石を、新たな軍事基地建設に使用するのは人間のやることじゃない」と述べた。多くの県民がこの言葉に共感することだろう。

石灰岩地形は沖縄の歴史そのもの、県民の財産

 隆起サンゴ礁の石灰岩地形は、沖縄の、特に中南部の各地のガマとして自然の中に存在するだけでなく、首里城をはじめグスクの石垣、金城町石畳をはじめ数多くの道、民家の壁や石垣、さらにきれいに加工された内装など、沖縄のあらゆるところに人々の生活と深い結びつきを持って活用されてきた。一言でいえば、琉球石灰岩は、隆起サンゴ礁の島の歴史そのものであり、沖縄の生活と文化を体現する建築資材であり、県民の貴重な財産だ。骨材を取った残りの土砂といえども、軍事基地を造る埋立に使われるべきものではない。
隆起サンゴ礁の島・沖縄がどれほど長い年月をかけて形成されたのか。琉球石灰岩とは、更新世の琉球層群中の石灰岩及び石灰質岩からなる層(およそ一三〇万年〜二万年前に形成)である(木村政昭編著『琉球弧の成立と生物の渡来』、沖縄タイムス社、二〇〇二年)。沖縄防衛局の計画では、沖縄県全体の調達可能量は、約四五〇〇万立方mとしている。政府と防衛省の官僚たちの埋め立て計画は、沖縄の歴史そのものと言える石灰岩関連の石や土を根こそぎ奪い取り辺野古の海に投下しようとするものである。それは、とことん沖縄を無視し、踏みつけ、ないがしろにするものだ。

連日展開される現地行動
―辺野古、安和、塩川、海上

 辺野古新基地建設、埋立に反対する現場では、連日、倦むことなく抗議の行動が続けられている。コロナのせいで本土各県からの参加者は多くなく、県内の参加者が中心になっている。
辺野古のキャンプ・シュワブゲート前では、九時、一二時、三時の一日三回の資材搬入に対する座り込み、テントでの集会が行われている。一四日水曜日には、和光高校の学生二九人が参加し、あいさつするとともに、参加者の聞き取りを行った。この日、座り込み参加者は約五〇人で、搬入ダンプの台数は計一四九台。約半数が護岸のかさ上げ工事のための生コンミキサー車が占めていたとのことだ。
琉球セメント安和桟橋では、入口および出口ゲート、桟橋付近の海上で抗議行動が続いている。週の前半は琉球セメントの石炭船が停泊していたため、運搬船の接岸はなく土砂の積出は行われなかった。水曜日午後から土砂運搬船による赤土土砂の積み出しが再開されたが、出入口ゲートでの抗議行動に対する県警の過剰な介入が目立ってきている。ゲート前でのゆっくり歩きが少しでもダンプの動きを止めると、機動隊がすっ飛んで来て、「部隊規制」などとマイクでがなりたてながら、ダンプの通行を保護するのである。
本部塩川港では、国道を挟んだ琉球セメント安和鉱山から、ひっきりなしに赤土土砂を積んだダンプが台船に積み込む。その通行路にノボリとプラカードを掲げて、本部島ぐるみや集まれ辺野古のグループが抗議の意思を示すという単調な行動を繰り返す。土砂の搬出は止まらない。ただ抗議の意思を示すだけだ。それでも、辺野古埋立を何としても止めるために、毎日朝から夕方まで、立ち続ける。
カヌーと抗議船の海上行動は、月、木、土が辺野古・大浦湾、火、水、金が琉球セメント安和桟橋で実行されている。海上行動チームは、季節ごと、日ごと、時間ごとに変わる海のコンディションに対応しながら、海上警備の前面に立つ海上保安庁に対決して抗議行動を続けている。この素晴らしいサンゴとジュゴンの海、県民の財産、日本中探してもどこにもない生物多様性の海。この海を米海兵隊の基地を造るために差し出すのか。絶対に認められない。
一二日月曜日の海上行動では、辺野古側の埋め立て護岸に沿って張られたフロートの近くで、ウミガメに二度遭遇した。先週は五度、その前は二度、それぞれウミガメに会った。絶滅危惧種のアオウミガメが砂地の海草を食べに来ているのだ。ウミガメにも性格の違いがあり、一目散に逃げて行くもの、船の側をゆっくりと通り過ぎるもの、などがいて、おもしろい。
現地の行動は、県民ぐるみの新基地NO!埋立STOP!の民意の体現である。民意は不変だ。現地行動は続く。

県内市町村の中国での戦争体験記を読む(34)
日本軍の戦時暴力の赤裸々な描写


中国侵略の日本軍には、県内各地からも多くの青年たちが動員されて命を落とし、また、戦争の実態を目撃し記録した。県内各地の市町村史の戦争体験記録にはそうした証言が数多く掲載されており、日本軍による戦争の姿を赤裸々に描いている。今回紹介する宜野座村の漢那さんは、1942年現役召集されて「満州」ハイラルへ配置され、1945年1月、沖縄へ移動しようとして済州島に渡ったが、そこで敗戦を迎えた。引用は原文通り、省略は……で示し、補足は〔 〕に入れた。
詳しくは、南京・沖縄をむすぶ会、沖本裕司編著『県内市町村史に掲載された中国での戦争体験記を読む〜沖縄出身兵100人の証言〜』をご覧いただきたい。

「宜野座村誌」第2巻 資料編1
「移民・開墾・戦争体験」(1987年発行)

漢那憲松
「満州と済州島での戦争体験」

 私は、昭和十六年、二十歳の適齢に達し、名護まで呼び出され徴兵検査を受けました。
……昭和十七年一月十四日、金武村役場より、甲種合格につき、当山会館に集合せよという内容の通知を受けましたので、青年団服を着て出頭しました。青年団服と言うのは、当時、自分で調達した私服の事を、そのように言っていました。私と一緒に当山会館に来ているのは、七、八人いました。池原新蔵金武村長より訓示があり、兵事主任の説明を聞いた後、車で那覇港まで連れていかれました。しかし、兵事主任の説明は、ごく簡単で、軍事機密という事で、どこまで行って何をするのか全く知らされませんでした。那覇港から家族も見送る中、船で鹿児島に出発しました。
そこで私は、鹿児島県の西部十八部隊へ入隊しました。その部隊はいくつかの部隊に分かれており、私は歩兵中隊杉原隊に配属されました。同部隊は馬に大砲を引かせて移動しながら戦闘を行なう部隊で、速射砲、大隊砲、連隊砲があり一つの大砲に十四名ずつ割り当てされ、砲手、弾担ぎなどの任務がありました。私は速射砲の砲手として三か月訓練を受け、また、馬の世話も日課の一つでした。
砲手訓練を受けた後、昭和十七年五、六月頃に船で満州へ渡りました。着いた所の地名は忘れてしまいましたが、そこから汽車に乗りハイラルへ行きました。そこでの部隊名は、興安北省ハイラル558部隊(速射砲部隊)で満州とソ連の国境近くにありました。戦闘はなく非常時に備えて待機をし、時々国境警備の任務を命ぜられました。
約三年間ハイラルにおりましたが、国境警備を除いてはほとんど毎日演習と馬の運動をさせておりました。一年間はラッパ手の任務にもつきました。
……昭和二十年一月、馬も一緒に汽車に乗り、南朝鮮の麗水〔ヨス〕へ移動しました。南方での戦況が悪化し米軍の上陸が予想されたのか、部隊は沖縄へ移動することになりました。沖縄移動のためまず、済州島〔チェジュド〕へ渡りました。しかし、戦況はますます悪化したようで、沖縄へ行けず済州島での戦闘に備え陣地構築を行ないました。結局、米軍との戦闘を交える事なく八月十五日の終戦を迎え、米軍より武装解除を命じられ、弾薬などを海に捨てる作業を行ないました。
武装解除を行なった後、昭和二十年九月頃、済州島から米軍の上陸用舟艇に乗せられ福岡に送られてきました。……済州島から帰還して来た兵隊たちの中に、私を含めて三名の沖縄出身者がいましたので、一緒に汽車で鹿児島へ行きました。



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