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    かけはし2020年10月5日号

新基地建設は白紙撤回以外にない


沖縄報告 9月27日

意見書、7年前をはるかに超え殺到

沖縄 K・S

県庁に届けられた意見書はすでに4千件以上

  変更申請NO!辺野古
  現場の闘いが再開された

 コロナが終息には程遠いが徐々に沈静化するとともに、辺野古現地の闘いも本格化し始めた。一〇月三日は、半年ぶりに第一土曜日県民大行動が開催される。キャンプ・シュワブゲート前に、大型バスや乗用車で、全県各地から数百人以上が結集し、新たな闘いの檄を発する。
 防衛局の埋立変更申請に対する意見書はすでに四千件を超えた。最終的には一万前後になるに違いない。七年前の埋立承認願書の際に比べて、はるかに多くの人々が関心を持ち、議論し、自分の考えを意見書を書いて、沖縄県庁に届けた。
 埋立は破綻している。破綻した工事を無理に強行しようとすれば、さらなる環境汚染、際限のない工期、天井知らずの工費が待ち受ける。立ち止まり、率直に破綻の事実を認め、撤退することが賢明な策だ。日本政府は埋立工事を中止し、新基地建設計画を白紙撤回せよ。
 辺野古、安和、塩川、海上では連日非暴力直接行動による抗議が続けられている。九月二三日水曜日、琉球セメント安和桟橋の入口、出口ゲートには各地の島ぐるみ南部、普天間爆音、北部地区労、集まれ辺野古などの団体・グループが集まり、赤土土砂搬出反対の行動をくり広げた。参加者の怒りが結集しダンプの身動きが取れなくなると、県警は慌てて一二人の機動隊を投入、やっとのことでダンプの行き来を確保する事態も生じた。

9.19

第32軍司令部壕の勉強会

第32軍司令部壕の勉強会


 第32軍司令部壕の保存・公開を求める会(瀬名波栄喜会長)は九月一六日、県庁を訪れ、首里城地下の32軍壕を「平和教育の拠点」として保存・公開することを求める要望書を届けた。謝花副知事は「歴史的な意義を考え、保存・公開を視野に入れて、新たな検討委員会をつくる」と述べた。
 一九日には、那覇市首里石嶺の沖縄県総合福祉センターで、学習会が開催された。はじめに、事務局のメンバーが、パワーポイントを使って、これまで行われた那覇市、観光開発事業団、沖縄県の地下壕の調査の経過と内容について報告した。それによると、第1坑道から第4坑道にいたる未調査区間は分からないことが多いが、第2、第3、第5坑道はある程度調査が進み、沖縄戦当時の長勇参謀長の「天岩戸戦闘指令所配備要図」の各部隊、設備と照らし合わせて内部の様子
を確認することができるようになった。
 沖縄戦当時、首里城は国宝だった。首里城周辺には、第32軍司令部だけでなく、第62師団司令部や第5砲兵団司令部も置かれた。その結果、首里城と周辺は破壊され廃墟となった。かつて琉球王国の国王が住んだ王宮は、例えると皇居のようなもの。首里城地下の第32軍司令部は、皇居の下の軍司令部の地下壕による戦争のようなもの。
 この日、会場に置かれた首里城と地下壕のジオラマを見ると、標高一三〇mの首里城の地盤の石灰岩の下のクチャ(不透水性の泥岩層)に沿って、全長一キロに及ぶ地下壕が掘られていたことが一目で分かる。坑道建設の実働部隊は野戦築城隊や師範学校の学徒隊など。
 沖縄を廃墟にし二〇万人以上の死者を出した日本軍の戦争犯罪の第一の現場がこの第32軍司令部壕だ。当日の参加者が口々に訴えていたように、「地上の首里城と地下壕は一体。上下合わせて沖縄の遺産として再建が必要」なのだ。

9.24〜25

基地と戦跡一泊ツアー


 九月二四日から二五日にかけて、中部地域の基地と戦争遺跡の現場を訪問して回った。コースは、米海軍のホワイトビーチ、辺野古埋立土砂の調達が予定されている宮城島採石場、沖縄戦で約七〇〇〇人の捕虜が収容されていた屋嘉収容所跡、二〇一六年米軍属による女性暴行殺人事件の遺体遺棄現場で追悼台があった県道104号線沿い、恩納村のメースB核ミサイル基地跡(創価学会沖縄研修道場)である。

ホワイトビーチ


 勝連半島の先端にあるホワイトビーチのゲートには、向かって右手に英語で書かれたホワイトビーチの看板と共に、左手には海上自衛隊沖縄基地隊の看板が立っている。先日、強襲揚陸艦アメリカが寄港していたとの新聞報道があったので、もしかするとまだ停泊しているかも知れないと思いながら、小高い丘の平敷屋(へしきや)公園に登った。展望台の脇には、平敷屋朝敏の碑があった。
 A桟橋(八五〇m)、B桟橋(四五〇m)とも米艦船の姿はなかった。沖縄の多くの米軍基地と同様、一九四一年に日本軍がこの場所に陸軍戦車部隊用地を造ったが、沖縄戦を経て米軍が占領接収、アジア太平洋の米陸海軍の拠点の一つとなった。沖縄返還後も、原潜、揚陸艦などが度々寄港している。沖縄にとって、日本軍・日本政府は米軍を呼び込み居座り続けさせる厄災だ。
 県道から公園に上がる道の途中に、巨大なレンガ造りの煙突が一つ。うるま市教育委員会の説明版によると、一九四〇年に造られた最新式の蒸気機関による製糖工場で、高さ一六・三mの煙突が三本あったが、10・10空襲以降、操業不能となって、その後米軍により破壊されたという。レンガ造りの煙突のあちこちに銃砲弾の痕跡が多数見受けられた。残ったこの煙突は当時の姿のまま沖縄戦を生き延びた。すぐそばの貯水槽も残った。
 数年前、米軍演習の取材で訪れた韓国の取材陣に同行して米軍施設の海よりのすぐ近くまで行き、監視を続けたことがある。一二月の寒い日だった。掘立小屋のようなところに人も住んでいたのを思い出す。今どうしているのだろうか。

宮城島の採石場


 海中道路を通り、平安座(へんざ)島を過ぎてゆく。巨大な石油タンクの群れが林立している。屋良主席・知事はどうしてこんなものを認可したのか。沖縄の経済発展に寄与すると考えたとしたら、とんでもない思い違いだ。東海岸の石油基地に対しては、北中城村の東洋石油基地に反対する地域住民の運動、金武湾一帯の与勝、石川、具志川地域の金武湾を守る会の運動が続いていた。政治のトップが庶民の代表という意識を失ったらお終いだ。是非の判断を代行してはいけない。民主主義に常に立ち返る。タンクを見ながらそんな思いが沸いた。
 設計変更後の県内からの岩ズリ調達先は、変更前の北部・国頭地区から宮古、石垣、南大東の各離島と南部を含む全県に広がった。そのひとつが宮城島地区だ。ここでの調達可能量は三〇万立方メートルとされている。単純計算で比重一・五とすると、一〇トンダンプ四五〇〇〇台分にのぼる膨大な量だ。砕石場の現場は伊計島に近い地点。むき出しの石灰岩の山が、捨て石用の大きなもの、中ぐらいのぐり石、土砂用に分けられていた。数千、数万年の歴史が刻まれた隆起サンゴ礁の島が軍国主義の国策により破壊されて行くのだ。

日本軍屋嘉捕虜収容所跡

 碑はバス停のすぐ横に立っていた。碑の前面に由来が記されている。金武(きん)町公式観光情報サイトの説明によると、
沖縄戦後の一九四五年、焼け野原となった金武村屋嘉集落の跡に、米軍は投降した日本軍将兵およそ七千人を収容する屋嘉収容所を設けた。米軍の厳しい監視下の中でも、沖縄出身の捕虜たちは、空き缶やあり合わせの木材を使いパラシュートの紐を弦としたカンカラ三線を作り演奏するようになった。戦争の悲哀を歌った屋嘉節は屋嘉収容所で生まれ広まったという。
収容所は一九四六年二月に閉鎖となり、その後米軍保養所となったが、一九七九年八月三一日に返還された。碑の裏には七番までの屋嘉節の歌詞が刻まれている。
「一、なつかしや沖縄戦場になとい 世間お万人と涙なかち」

県道104号線沿い


二〇一六年四月、米軍属による二〇歳の女性に対する暴行殺人事件の遺体遺棄現場となった県道104号線沿いの雑木林には、長い間、追悼台が設けられて飲み物やぬいぐるみなどが供えられ、人の足が途絶えることはなかった。今は追悼台が撤去され、立ち入ることができないようにロープが張られている。それでもいくつかの飲みものやペットボトルが置かれていた。
沖縄はこれまで沖縄戦と軍政下でどれだけ米軍、日本軍の暴力を受けてきたか。どれだけ多くの性暴力事件が起こって来たか。どれだけ多くの女性や少女が傷つき命を失ったか。歳月が流れても沖縄の各地の現場にはそれらの記憶が刻まれている。

かねひで恩納マリンビューパレス


翁長知事と共に辺野古新基地建設反対に立ち上がったかねひでグループ呉屋守将会長は辺野古基金の事務所をかねひで本社内の一角に置き、利益の一部を辺野古基金に寄付するなど積極的に活動してきた。しかし、日本政府からの様々な締め付けとコロナにより、本業の建設業、ホテル業が大きな打撃を被ってきた。その結果、呉屋会長が「社員の生活、命を守るためにも経済人として本業に回帰する」として、玉城デニー知事の後援会長職を辞任することになった。辺野古基金の共同代表は続けるという。
ムーンビーチの国道を挟んだ向かい側にあるこのホテルに泊まってみて、かねひでの一端を垣間見たように感じた。宿泊料金、受付、食事、部屋の広さ、ベッドメーキングなどの面は誠実さがにじみ出ているにも関わらず、施設の老朽化は如何ともしようがない。例えば、国場組のブセナと比較すれば分かりやすい。外観上のリッチさ、高額な宿泊料金に対し、リーズナブルな料金、沖縄らしい温かさを有するが、外観上の見劣りがするかねひでが西海岸に立ち並ぶホテル群の中で生き延びていくことができるか。頑張って欲しい。

メースB核ミサイル発射基地跡


復帰前の沖縄は地上発射型、航空機搭載型など様々な核兵器の一大基地だった。朝鮮戦争が休戦した一九五三年の後、米国は沖縄を東アジアのキーストーンとして、がんじがらめに縛り付けた。一九五〇年代の伊江島の土地強制収容は、航空機搭載型の核爆弾投下訓練場の確保のためだった。阿波根(あはごん)昌鴻さんの反戦平和資料館には、当時の模擬核爆弾がパラシュートや無数の薬きょうなどと共に展示されている。
その後、米軍は地上発射型の核ミサイル基地を、沖縄の読谷村ボロー・ポイント、勝連半島のホワイトビーチ、金武町のギンバル訓練場、そして恩納村谷茶にそれぞれ八基、合計三二基つくり上げた。恩納サイトは突貫工事で一九六二年に出来上がった。メースB核ミサイルは、全長一三m、両翼の長さ八m、射程距離二二〇〇キロ、時速一〇〇〇キロで誘導飛行するとされた。一九六〇年代初めのキューバ危機の際には、ソ連、中国に向けて発射直前になったという。
沖縄の復帰を前にメースB基地は撤去され廃墟となっていたが、創価学会の池田会長の提言により、創価学会沖縄研修道場が造られ「世界平和の砦」として八基の発射台の建物が保存されるに至った。八基のうちの一基の発射台跡には「沖縄池田平和記念館付属展示室」が設けられ、メースBの模型や関連問題、沖縄戦の体験の絵などの展示場となっている。
国道58号線の谷茶(たんちゃ)から自衛隊専用道路を山手にはいって少し行くと、左手に入口が見える。受付に住所、氏名などを記入すれば、学会員でなくても入場できる。


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