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    かけはし2020年11月2日号

埋立て工事を一刻も早く中止しろ


沖縄報告 10月25日

私たちの思いは変わらない

沖縄 K・S

辺野古・安和・塩川―現場の闘い

菅政権の「辺野古唯一」を打ち破ろう!

 菅政権が成立して一カ月余。一〇月七日には玉城デニー知事が首相官邸で菅首相と面談した。会談時間は、玉城知事によると、六〜七分程度。辺野古埋立強行に反対する知事の「対話による解決を求める」提言に対し、菅首相からの明確な回答はなかったという。菅は、安倍にもまして、沖縄の民意に耳を傾ける気持ちがない。
 その後、加藤官房長官、岸防衛相が立て続けに沖縄を訪問した。加藤も岸も「辺野古唯一」「辺野古の基地建設が普天間返還の道」と繰り返した。一〇月二一日に来沖した岸は陸上自衛隊那覇基地や米軍那覇軍港を視察し、誘導弾、無人偵察機、P3C対潜哨戒機などの説明を受けた。航空自衛隊那覇基地では、陸海空自衛隊員約一二〇人を前に「わが国を取り巻く安全保障環境は極めて早いスピードで変化し、厳しさと不確実性を増している」と述べたという。
 日本政府・自衛隊は、アメリカの尻馬に乗って、中国、朝鮮、ロシアと軍事力競争を本気でやり抜くつもりなのか。それは沖縄をはじめ日本のみならず、アジア諸国の人々の生活と命を危機に陥れる破滅への道だ。軍拡競争にストップを! 過去十数年格差拡大が進み、ますます貧困になる賃金、年金、医療、教育など福祉に対し、軍事費と米軍駐留費だけが増え続けるこの国の形を変えよう!

10・19辺野古・大浦湾海上行動

 野党国会議員でつくる「沖縄等米軍基地問題議員懇談会」(会長=近藤昭一衆院議員)のメンバー一〇人が一〇月一七〜一九日にかけて、石垣島の自衛隊駐屯地造成現場を視察したのを皮切りに、埋立工事のすすむ辺野古・大浦湾を抗議船に乗り海上からとゲート前から視察した。さらに、沖縄防衛局に抗議に出向き、県庁では玉城デニー知事と懇談した。沖縄の衆参両院議員五人(赤嶺政賢、照屋寛徳、屋良朝博、伊波洋一、高良鉄美)も参加した。
一〇月一九日午前、議員団は汀間漁港に集合した。出発に先立ち、ヘリ基地反対協の仲本さんの司会で、名護市議の東恩納琢磨さん、水中写真家の牧志治さん、さらに島ぐるみ八重瀬から南部の土砂採取に反対する提起があった。平和丸、不屈、勝丸の三隻に分乗してまず、向かったところは、大浦湾のフロートが張り巡らされた中間あたりのジュゴンの鳴き声が観測されたと言われる地点と軟弱地盤区域。北上田毅さんが詳しく解説した。
そのあと、K8護岸のフロート周辺でデモンストレーションするカヌーチームと合流し、カヌーと抗議船が一緒に声をあげ、埋立中止を訴えた。さらに、フロートの周辺に沿って埋立工事の現況を確認した後、大浦湾側のK9護岸からの土砂搬入の実態を視察し、汀間漁港に戻った。議員団はその足でゲート前行動に参加した。海上行動チームは、K8護岸でフロートを越えて阻止行動を展開し、全員海保に拘束され、辺野古の浜に海保のGB(ゴムボート)で送られた。

10・21安和―塩川での土砂搬出抗議の闘い

 本部半島の赤土土砂を辺野古に積み出す港になっている琉球セメント安和桟橋と本部塩川港でも連日行動が続いている。一〇月二一日水曜日も早朝から安和桟橋の入口と出口ゲートで島ぐるみ南部、普天間爆音、北谷などのグループを中心に土砂運搬ダンプに対する根気強い行動が続いた。しかし、午後からは運搬船も入らず、ダンプの運行もなくなったため、安和のゲート前から本部塩川港に移動した。
塩川港は台船が二カ所に接岸し、道路を挟んだ琉球セメント安和鉱山からひっきりなしにダンプが土砂を運びこんでいる。抗議の参加者はのぼりやプラカードを手に、ダンプの前をゆっくり行進で埋立反対の意思を表明した。ダンプは度々動けなくなった。すると間もなく、パトカー、大小の警察車両がすっ飛んできて、抗議に対する規制を始めた。県警機動隊は、「抗議はみなさんの権利です。しっかりやってください」と言いながら、過剰警備によって事実上、抗議行動ができなくするのである。その中で、一人の女性があまりにも執拗でストーカー的な警察官の追い回しの中で、不当に逮捕された(二泊で釈放)。
こうした警察の対応によっても、政府防衛局が辺野古埋立を早め既成事実化をつくり上げることによって、沖縄県内の世論を「仕方がない」というあきらめへと誘導しようとしていることが見てとれる。だが、県民はあきらめない。「仕方がない」とは考えない。埋立工事を一刻も早く中止せよ!それ以外に道はない。

10.24

韓国人慰霊祭に70〜80人


毎年この時期に実施されている民団(在日本大韓民国民団)主催の韓国人慰霊祭は、今年は時間を短縮しプログラムを簡素化して、一〇月二四日土曜日の午後に行われた。前日までの雨が止み、晴れ上がった青空に陽光が輝いた。参加者は七〇〜八〇人にのぼった。
はじめに、参加者全員が立ち上がり、大極旗の掲揚、国歌斉唱のあと、黙とうをささげた。続いて、読経が行われた。浄土真宗大谷派の兪?子(ユ・ヨンジャ)さん、宜野湾韓国人教会の牧師・郭繼g(クァク・ヨンギル)さんがそれぞれの立場から読経と挨拶を行った。民団沖縄県地方本部の金仁洙(キム・インス)団長が主催者あいさつを行った。
来賓あいさつのはじめは、駐福岡韓国総領事館の南宮煥(ナムグン・ファン)副総領事。流暢な日本語で「戦火の犠牲となった同胞を追悼する」「沖縄が一日も早く観光産業の活気を取り戻すことをねがう」と述べた。二人目は、民団中央本部の呂健二(ヨ・ゴニ)団長。四五年前に初めて沖縄に来た時のことを振り返りながら、「平和の礎を見て大きな感銘を受けた。すべての戦争犠牲者を刻銘する礎は世界でも稀有な存在だ」と述べた。沖縄県日韓親善協会の大城宗憲会長は「慰霊祭は年ごとに盛大になっている。戦争のない世界は戦争犠牲者の望み、私たちの願い」と語った。
そのあと来賓が紹介された。参院議員の高良鉄美さん、南城市の瑞慶覧長敏市長、玉城デニー知事の代理、民団九州各地の代表など。城間幹子那覇市長の電報メッセージも紹介された。そして、ヨンジャさんの読経に合わせて、参加者による白菊の献花と焼香が続いた。
閉会の辞は、民団沖縄の南成珍(ナム・ソンジン)議長が行い、「??? ?? ??? ??? ?????.(ご参集のみなさん、大変ありがとうございました)」と締めくくった。

平和の礎の空白
を埋める作業


沖縄戦における朝鮮人犠牲者の全体像はいまだ明らかではない。日本のアジア侵略敗北の最後の戦場・沖縄には朝鮮半島から青年たちが軍人・軍属として無理やり動員され、軍徴用船の船員、港湾荷役、陣地や格納庫づくり、材木伐採、弾薬運搬、特攻艇のはん水作業など軍作業につき、最後は日本軍の斬り込み要員とされ、戦場で命を落とした。航空特攻兵も数名いる。米軍の砲爆撃、日本軍による処刑、飢餓による死亡も多い。
一九七五年設立された韓国人慰霊の塔の碑文には、「この沖縄の地にも徴兵、徴用として動員された1万余名があらゆる艱難を強いられたあげく、あるいは戦死、あるいは虐殺されるなど惜しくも犠牲になった」と記されている。ところが、平和の礎には、南北合わせて四六四人が刻銘されているにすぎない。
この間、竹内康人さんや沖本富貴子さんの研究により、沖縄戦に動員された朝鮮人の実態が解明されつつある。それによると、動員された軍人軍属は四〜五千人。約二一〇〇人が帰還したと見られている。そうすると、二〜三〇〇〇人が亡くなったことになる。すべての犠牲者の刻銘をコンセプトにする平和の礎は、この点で道半ばにあると言わなければならない。詳しくは、『沖縄戦に動員された朝鮮人―軍人・軍属を中心にして―』(アジェンダ・プロジェクト。電話=075-822-5035)。
平和の礎の南北朝鮮の刻銘版の空白を埋めることは、日本による侵略戦争という過去の歴史を知る我々が担うべき課題である。

映画『赤い闇―スターリンの冷たい大地で』

 今年八月に全国で封切りされた話題の映画『赤い闇―スターリンの冷たい大地で』(監督:アグニェシュカ・ホランド)が、沖縄でも桜坂劇場で一〇月中旬の一週間にわたって上映された。私たちが足を運んだのは平日の夕方だったが、ざっと見て二〇〜三〇人の観客がいた。スターリンによるウクライナの収奪と飢餓、モスクワの国家権力に追従するジャーナリズムとあくまで真実を追求する記者というテーマに加えて、『ソハの地下水道』などいくつかの話題作を手掛けてきたポーランド出身の女性監督が制作した最新作ということも理由であったと推測される。
「百聞は一見に如かず」とのことわざを引くまでもなく、映像は物事を瞬時に伝える力を持っている。一九三〇年代半ばのソ連邦のスターリン政府の実態―民衆を抑圧する警察、モスクワに世界から集まったメディアの堕落、知識人たちのスターリンに対する幻想、ウクライナの貧困と飢餓生活・行き倒れの死体などが描かれる。ウクライナの飢餓の現実を描く映像は非常に抑制的だ。一説には数百万人が餓死したと言われるウクライナのホロドモールの現実はもっと悲惨で残酷で怖ろしかったに違いない。現在、ウクライナには、やせ細った少女が立つ「ホロドモール犠牲者記念碑」と慰霊塔が建てられている。
戦争、難民、飢餓は言うまでもなく、一見自然災害と思われる大災害もよく見ると、ほとんどすべて人災である。間違った政治の結果だ。ウクライナの飢餓は、ロシア革命のテルミドール反動により国家権力を掌握したスターリンによる収奪の結果だった。ロシア革命の社会主義はスターリンの強権に置き換えられた。レーニンと共にロシア革命をリードしたトロツキーはすでにソ連から追放され流浪の身となっていた。
映画には主人公の英国人記者、ガレス・ジョーンズの友人として、ジョージ・オーウェルも登場する。映画の中のオーウェルは少し頼りない感じを与えるが、監督はソ連の現実がオーウェルの『動物農場』(一九四五年)と類似していることを示唆した。
ウクライナの飢餓の現実を全世界に暴いたジョーンズは、二年後の一九三五年、今度は日本の傀儡国家・「満州国」を取材するため中国を訪れたが、当地で匪賊に襲われ殺された。二九歳だった。誰が殺したか。

県内市町村の中国での戦争体験記を読む(35)
日本軍の戦時暴力の赤裸々な描写


中国侵略の日本軍には、県内各地からも多くの青年たちが動員されて命を落とし、また、戦争の実態を目撃し記録した。今回紹介するのは宜野座村の対談の一部である。引用は原文通り、省略は……で示し、補足は〔 〕に入れた。
詳しくは、南京・沖縄をむすぶ会、沖本裕司編著『県内市町村史に掲載された中国での戦争体験記を読む〜沖縄出身兵一〇〇人の証言〜』をご覧いただきたい。

「宜野座村誌」第2巻 資料編1
「移民・開墾・戦争体験」(1987年発行)

松田源助・松田繁敏
「私たちの戦争体験」

 繁敏 昭和二〇年五月頃、適齢になって、海軍へ現役入隊することになった。
源助 私は甲種合格していたので、早く入隊できるだろうと期待して行った。なぜなら、入隊して第一線で働いて、早く死ぬのが一番名誉と思っていたから。今から考えると馬鹿みたいに。沖縄が空襲でやられて関係書類が遅れたためか、入隊が遅れた。
繁敏 あの当時はですなあ、個人と言うのはないです。僕の体は国に捧げているんだという気持ちですからね。一日も早く戦死したい希望があったんですよ。適齢合格すれば、早速、入隊するのがあたりまえだったですね。そして華々しく戦死するのが夢でした。徴兵検査で不合したら、人間じゃないと後ろ指さされると思っていましたからね。
源助 私は徴用の時に表彰をもらったもんだから、自分から進んで、連隊本部まで行って入隊志願した。
繁敏 ほんとに馬鹿みたいな気持ちですよ。
源助 甲種合格して、徴兵されるまでは皆にうらやましがられたものです。賞状をもって兵隊に行けば早く進級すると自慢したものだが、戦争が負けた時、戦争犯罪人と言われはせんかと燃やしてしまった。沖縄に持って帰れば大きな名誉だなあと思ったけど。
……
源助 また、戦死したら、当時は村葬があり、村で葬式していました。
繁敏 名誉の戦死と言ってね。
源助 村挙げての葬式ですからねえ、だから大きな名誉だった訳です。



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