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    かけはし2020年11月9日号

自立した闘いで自己決定への道を


沖縄報告 11月1日

今さらながらに際立つ菅の不実

沖縄 K・S

菅首相の空疎な所信表明

言行不一致をやめ、辺野古新基地建設を断念せよ!


 菅首相が一〇月二六日、国会で所信表明演説を行った。原稿を棒読みする姿に失望した人も少なくないだろう。しかも内容はさらに悪かった。琉球新報、沖縄タイムスは一〇月二七日付社説でそれぞれ「言行不一致から改めよ」「負担語らず空虚な演説」と指摘した。
 所信表明が沖縄に触れたのは「八 外交・安全保障」の項目だ。「普天間飛行場の危険性を一日も早く除去するため、辺野古移設の工事を着実に進めてまいります。……沖縄の皆さんの心に寄り添いながら取り組みを進めてまいります」と述べた。自民党県連は「県民の心に寄り添い、基地の負担軽減を進めるとの力強い心温まる表明があり期待する」(新報、一〇月二七日付)とコメントし、県民から遊離している姿をさらけ出した。
 権力者は嘘をつく。権力者が口にする言葉は、商品を売らんがための広告のキャッチコピーと同じだ。広告の宣伝文句を信じすぎると騙されるのと同じで、権力者の言葉をうのみにすると騙される。言葉ではなく実際の行動はどうか。菅政権は「沖縄の心」に寄り添っていないし、「普天間の危険性の一日も早い除去」のため何もしていない。辺野古・大浦湾を破壊する海兵隊基地を米軍に捧げるために躍起になっているだけだ。

戦後処理の未解決問題の法案提出を四団体が要請


 臨時国会の開催に向けて一〇月一九日、戦後処理の未解決問題の救済法の成立を求める共同記者会見が行われた。琉球新報10・20付が伝えるところによると、「民間戦争被害の補償を実現する沖縄県民の会」「全国空襲被害者連絡協議会」「韓国・朝鮮元BC級戦犯者『同進会』&『同進会』を応援する会」「シベリア抑留者支援・記録センター」の四団体が共同で政府に申し入れ、今国会での法案成立を求めた。菅首相の所信表明演説はこれら四団体の求めるアジア太平洋戦争の被害者の名誉回復・補償といった諸問題に一言も触れず、完全に無視した。
 元BC級戦犯の在日韓国人、李鶴来(イ・ハンネ)さんは、日本軍の戦争犯罪のために死刑判決を受けた(のちに減刑)。「日本人戦犯」として起訴された朝鮮人は一四八人。うち二三人が死刑を執行され、残る人々もすべて亡くなり、李さんひとりが残された。李さんたちが謝罪と賠償などを求めて要請を続けてきた日本政府の首相は菅首相で三〇人目だという。
 その一方で、日本は軍人・軍属に累計六〇兆円にのぼる恩給を支給した。ここに戦後、政治家・官僚が設計した不条理なこの国のかたち、天皇制とアジア侵略を肯定する日本の一端が示されている。

辺野古・安和・塩川・海上―現場の闘い

 一〇月二六日月曜日の海上行動は、午前七時、浜のテント2からスタートした。カヌー一一艇、抗議船二隻が大浦湾の開口部へと向かった。カヌーチームはオイルフェンスの各所にしっかり取り付いた。そうすると、オイルフェンスを開放し船が通れるようにすることができなくなる。抗議船も航路の真ん中でデモンストレーションを続けた。沖の方からは本部半島の赤土土砂を満載した運搬船が列をなして向かってくる。しかし突然、向きを変えて停泊した。海保は懸命にカヌーを剥がしにかかるが、各所に分散したカヌーの対応に時間がかかる。約一時間後、やっと開口部のオイルフェンスが開き、五隻の運搬船・台船が通過して行った。
その後、カヌーチームはK8護岸で、オイルフェンスを越え土砂搬入に抗議する行動を行い、海保に拘束された。
一〇月二八日水曜日の安和桟橋での行動は、ゲート前と海上のカヌーが連携した闘いとなった。ゲート前は朝から、いつも通り入口と出口で、島ぐるみ南部、普天間爆音、集まれ辺野古など二〇〜三〇人が陣取り、土砂運搬ダンプに対する行動を続けた。搬入は昼休みもない。海上で午前の行動を終えたカヌーチームが、次の行動までの空き時間に入口ゲートの行動に参加した。合わせて十数人に膨れ上がったゲート前では根気強く、搬入ダンプに対する抗議を続けた。
その後、カヌーチームは運搬船の出航を止める午後の海上行動へ移動し、ゲート前では五〜六人がダンプの土砂搬入に対する抗議を継続した。

10.25

平和学習フィールドワークに80人

首里城周辺の埋没した戦跡壕をめぐる

 一〇月二五日(日)、平和祈念資料館友の会主催による平和学習FW「首里城周辺の埋没した戦跡壕をめぐる」が行われ、各地の平和ガイドや子供連れの親子が帽子・運動靴姿で集まった。
はじめに、友の会の久保田暁会長があいさつに立ち、「首里城の周りには32軍司令部壕だけでなく、たくさんの日本軍陣地壕があったが、今ではほとんど埋没している。今日は、一中関連の壕、安国寺の永岡隊(特設警備第223中隊)、第5砲兵司令部壕、第32軍司令部壕、第62軍司令部壕跡などをめぐっていきたい」と述べた。一中とは、当時の第一中学校、現在の首里高校である。
そのあと、一中健児之塔に向かって黙とうした後、資料展示室解説員の山田さんが当時の学徒隊について、「三〜五年生は鉄血勤皇隊として第5砲兵司令部に配属され、二年生は通信隊として電信第36連隊に動員された。一年生は家に帰された」と説明した。一中関係の犠牲者は教職員、一年生を含め三〇〇人を越えた。
FWの一番目は、一中健児之塔の後ろ側の小山に造られた第3小隊壕と銃器庫跡。一中に向かう玉陵坂(タマウドゥンヒラ)の左右に第1、第2小隊壕と炊事班壕があったが今は埋没している。
次に安国寺に向かった。ここには当時、永岡隊の陣地壕があった。現在埋められているが、かつての入り口には目印として地蔵が置かれている木の下で、永岡隊の炊事係として従軍した一高女の翁長安子さんが次のように体験を語った。

翁長安子さんの証言


一高女二年生の時に「お国のために働きたい」と永岡隊に志願した。私の兄は二人とも軍に入隊していて、私も従軍が当然だと思った。三月三一日、識名で入隊した。当時一五歳。体の小さい私でも出来ることは何かと考えて、水汲み、飯運びならできると、炊事係を志願した。
水汲みは二〇〜二五mもある崖下のヒージャー(泉)から布のバケツで水を汲み、約六〇人分の水筒に入れて引き上げる仕事。朝五時半ごろから一時間以上かかった。反対側の山は擲弾筒の陣地だった。シュガーローフ・新都心の戦に、永岡隊の兵士達が出撃した。「おじさん達、どこに行くんですか」と尋ねたことがある。爆弾を持って斬り込みに行ったのだが、五〜六人の内帰ってきたのは二人だけ。日本軍の戦争は、手榴弾、一発しか打てない銃、擲弾筒で、兵隊が死んでいった。
ある時米軍の砲撃を受け、安国寺に移動してきた。砲撃、艦砲射撃の嵐だったが、戦車はまだなかった。第32軍司令部が首里城から撤退した五月二八日、永岡隊に「最後まで首里を死守せよ」との命令が下った。安国寺に米軍の戦車が来た。戦車砲の直撃で五人が即死、数人が負傷した。戦車のガラガラガラという音、けがをした数人も火炎放射器で焼かれた。壕の中は煙が充満し、ガス弾が投入された。隊長から「防毒面をとるな。我慢せよ」という命令。すると、壕の上で、ギリギリギリという音。馬乗りされ壕がつぶされた。
壕の裏側から、ちぎれた手足、血の海の地面を通り、隊長のベルトにつかまって、転げ落ちるように抜け出た。米軍の銃撃を受けてたおれたが、目が覚めたら死体の中で生きていた。米軍が来ると、死体の中に潜り込んだ。溜め池の死体を足で押しのけて水を飲んだ。背中は血でべっとり。私はもう死ぬと思いながら、金城町の石畳を下った。死体だらけの坂道を石垣につかまりながら降りた。
金城橋も日本軍が撤退にあたって破壊していたが、橋げたの間に松の木が渡してあったので、渡ることができた。渡ると様子が一変。死体はおばあ、子供がほとんど。浦添、宜野湾辺りから逃げてきた人たちだろう。民間人の移動コースになっていた。右足のない兵隊が「助けて」といったが、どうすることも出来ないので、そのまま通り抜けた。そして国吉、摩文仁を通って、捕虜になった。
捕虜になる時、一八歳の具志堅さんに背負われて、一段、二段と上がって行くと、二世米兵が「大丈夫ですよ」と言って抱きかかえ上げてくれた。

県内市町村の中国での戦争体験記を読む(36)
日本軍の戦時暴力の赤裸々な描写

 中国侵略の日本軍には、県内各地からも多くの青年たちが動員されて命を落とし、また、戦争の実態を目撃し記録した。今回紹介する宜野座村の翁長さんは、過酷なシベリア抑留を体験した。引用は原文通り、省略は……で示した。

「宜野座村誌」第2巻 資料編1
「移民・開墾・戦争体験」(1987年発行)

翁長林亀「満州での戦争体験とシベリア収容所」

 私は、昭和一七年一月一〇日、佐賀西部67部隊に入隊し、三か月間の初年兵教育を受けました。訓練はとても厳しく、連隊砲やガス兵器など様々な訓練が行われました。……初年兵教育を受けた後、満州へ派遣されました。
宜野座からは、仲間徳栄、仲栄真政一が一緒でした。長崎港から出発しましたが、行き先は知らされず船に乗せられました。船は朝鮮の釜山に着き、そこから汽車で満州のハイラルに向かいました。……兵舎はりっぱなコンクリート建てで、たくさんの兵隊が国境守備についていました。……地下に穴を掘り、作戦本部や炊事場など必要な部屋が掘られ、網の目のように通路がありました。
満州の冬は厳しく、零下四八度にも下がります。沖縄から来た私たちにとっては寒さとの戦いでもあったのです。兵舎の近くに畑を作りジャガイモを植え付け、豚百頭を養っていました。食料や日用品は豊富にあり、不自由することはありませんでした。ハイラルで三年間過ごし、私は上等兵に進級しました。その後、私たちは吉林省へ移動することになりました。……それから部隊長の命令で、私は下士官教育をうけることになり、旅順へ派遣されました。そこで……卒業十日前に終戦となり、原隊へ復帰する命令が届きました。
吉林省に戻ったのですが、部隊は既に武装解除され、連隊と合流することはできませんでした。行く当てもなく仲間を探しているうちに、ソ連軍に見つかって捕虜となってしまいました。捕虜は全員貨物列車に乗せられシベリアに送られました。車内は、民間人や兵隊で身動きが取れない程すしづめでした。途中、バイカル湖を通りましたが、その周りを通過するだけでも一週間はかかったのです。大陸ということを改めて感じさせられました。二九日間の長旅を終えて、やっとシベリアに着きました。捕虜はバルノール収容所に集められました。昭和二〇年の冬のことでした。
収容所では六か月間の強制労働をやらせられました。……作業中、木の下敷きになって死んだ同胞も少なくありませんでした。一日に二本切るのがやっとでしたが、木の運搬は道が凍っていたため、割り合い楽でした。一日八時間労働、我々捕虜は働かされました。……
空腹と寒さに耐えながらの作業は過酷なものでありました。むろん、日に日に体力も衰え、やせて歩けなくなる者もいました。熱発した者は、作業を休ませましたが、神経痛や体の調子が悪いからといって休ませることはありませんでした。収容所で死んだ者は裸にされ、五、六体づつソリに乗せ野原へ捨てられました。寒冷地帯の収容所では、洋服はとても貴重だったのです。
三か月後、私は栄養失調になり倒れました。そして朝鮮にあった平壌の元の陸軍病院へ移されました。その時は、日本に帰り銀飯一杯食べてから死にたいと思ったものです。陸軍病院は食事が良く、体もしだいに回復して来ました。その頃にコレラが病院内で発生しました。コレラで患者の半分が死んでいきました。
捕虜生活を終え、やっと日本に帰れたのは昭和二一年一〇月頃でした。……



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