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    かけはし2020年11月9日号

鍵は労働者階級の自己決定能力


寄稿

21世紀の危機とトロツキー(没後80周年によせて)

人類的危機に立ち向かおう

森田 成也


 今年はトロツキーがスターリンの放った暗殺者に殺されてから八〇年目に当たる。トロツキーという世界的革命家の偉大さとその悲劇は、彼が生きた時代の偉大さと悲劇に不可分に結びついている。すなわち、一八七一年のパリ・コミューンに始まり、一九九〇年前後におけるソ連・東欧の崩壊と中国の「国家資本主義化」によって幕を閉じた「永続革命の時代」に。

「永続革命の時代」とトロツキー


 この時代の以前には「ブルジョア革命の時代」が存在した。そこではブルジョアジーおよびその政治的代理人がブルジョア革命の指導的勢力であったが、君主制のもとでも一定の資本主義的枠組みが形成されるようになると、ブルジョアジーは下からの革命に興味を抱かなくなった。むしろそれに敵対するようになった。なぜなら、あらゆる革命は先鋭化するにつれて、一般にブルジョアジーの指導と利害を超えて急進化する傾向を持つからであり、他方では資本主義の発展とともに成長してきた労働者階級と社会主義思想の方がはるかにブルジョアジーにとって脅威になったからである。
 先進国でさえそうなのだから、初歩的なブルジョア民主主義的課題をまだこれから遂行しなければならない後発諸国においてはなおさらであった。
 この広大な後発世界において民主主義革命を遂行する歴史的任務は、農民および被抑圧民族と同盟したプロレタリアートの双肩に委ねられた。労農ブロックのヘゲモニーのもとで開始された民主主義革命が社会主義革命へと飛躍するか、さもなくばより野蛮な体制へと大きく後方に投げ戻されるかが、この時期の歴史的選択肢となった。
 この永続革命の論理を最もはっきりと定式化したのが、一九〇五年革命をペテルブルク・ソヴィエトの指導者として経験したトロツキーである。一八四八〜四九年のマルクスとエンゲルスの戦略を受け継ぎ、自らの一九〇五年革命の経験を通じて確固たる結晶化へと至った彼の永続革命論こそ、この新しい時代の「世界精神」を体現するものであった。
 この永続革命論は、後発資本主義国としてのロシア社会に対する具体的分析(これについては最近出版された拙書『トロツキーと永続革命の政治学』柘植書房新社を参照)から生じる直接的な論理の次元と、プロレタリアートの変革能力と自己決定能力に対する根本的な信頼というメタ次元での論理とによって構成されていた。後者なしには、実は前者も成り立たないのである。
 一九一七〜一八年においてトロツキーの永続革命論が驚くほど急速に現実化し、その後、一九二〇年代のスターリニズムの台頭に対する闘争では同じぐらい驚くほど急速にトロツキーが敗北したのは、ともにメタ次元での論理の作用による。一九一七年にはそれが有利に作用し、一九二〇年代にはトロツキーにとって決定的に不利に作用した。世界戦争、革命、内戦を経てすっかり弱体化し縮小したロシア・プロレタリアートは、一九二〇年代に官僚制の重みに抗することができなくなっていたのである。

戦争、革命、危機

 「ブルジョア革命の時代」における「危機」の主要な形態が周期的な産業恐慌だったとすれば、「永続革命の時代」における危機の主要な形態は世界規模の戦争(熱い戦争と冷たい戦争の両方)と、そしてそこから生じる相次ぐ革命そのものであった。慧眼なエンゲルスはすでに一八七〇年代からヨーロッパ戦争の可能性を具体的に予測していたが、それが現実のものとなる以前にこの世を去った。
それ以降、世界は、いつ起こってもおかしくないヨーロッパ規模の世界戦争というダモクレスの剣の下で生きた。そして、それはついに一九一四年に勃発した。平和の時代に形成された第二インターナショナルはたちまち崩壊し、この新しい戦争と革命の時代にふさわしい革命家と革命党が主役の座を奪った。レーニンのボリシェヴィキ、そしてロシア革命のインパクトのもとに組織されたコミンテルンとその各国支部がそうである。トロツキーの永続革命論がこの時代の「世界精神」を理念的に表現していたとすれば、レーニンのボリシェヴィキ的前衛党は同じ精神を物質的に体現していた。この二つが最も理想的に結合した結果がロシア十月革命であった。
だが、その後の、ボリシェヴィキのスターリニスト的堕落のせいで、理念的表現と物質的体現物とは絶えず衝突するようになった。それでも、革命党が本当に革命を勝利に導こうとすれば、必然的に永続革命の道を取らざるをえなかった。それに失敗した場合、国と社会はより野蛮な軍事独裁かファシズム体制へと落ち込んだ。一九二〇年代の第二次中国革命、一九三〇年代のスペイン革命は後者の雄弁な事例である。
最初の世界戦争よりはるかに巨大であった第二の世界戦争は、中国、ベトナム、ユーゴスラビアに下からの革命と労働者国家をもたらし、ソヴィエト赤軍の進撃とファシズムの崩壊は東欧諸国をソ連圏へと編入させた。労働者国家は世界体制となり、その力を背景に、第三世界諸国においても次々と永続革命の動きが起こった。どこでも主役は、共産主義・社会主義勢力に率いられた労働者と農民の革命的ブロックであった。先進国においては労働者革命こそ成功しなかったが、冷戦体制のもとでブルジョア諸国に福祉国家のシステムをとることを余儀なくさせた。
しかし、この、偉大な諸革命と恐るべき悲劇の数々(二つの世界戦争、世界恐慌、ファシズム、ホロコースト、原爆投下、核軍拡競争、等々)の両方を内包した「永続革命の時代」も、一方では、先進国において結局プロレタリア革命が成功せず(一九六八年革命はその最後の偉大な試みであった)、その後に新自由主義反革命が訪れたことによって、他方では労働者国家のスターリニスト的堕落とその最終的崩壊によって、二〇世紀末についに終焉を迎えた。

世界が直面する二重の危機

 今日、世界は二重の深刻な危機の真っただ中にいる。歴史上未曽有の客観的危機と、にもかかわらずそれを克服する変革主体の不在という同じぐらい深刻な主体的危機である。一方で、世界は、「永続革命の時代」におけるトロツキーが見ていたよりも、はるかに深刻な危機に直面している。ノーム・チョムスキーはプログレッシブ・インターナショナルのキックオフ集会での講演の中で、この深刻な危機を三つの位相において確認した。核戦争の脅威、地球温暖化による生態危機の脅威、そして民主主義の衰退である。
最初の二つはよく知られており、すでに多くの人が指摘している。この危機の深刻さから、少なからぬ人々は資本主義と人類との共存不可能性という結論を引き出し、「エコ社会主義」というオルタナティブが提起されている。それに対して、三つ目の危機は最初の二つに匹敵するものではないように見える。だがチョムスキーが慧眼にも見抜いたように、それは最初の二つの危機に対処する人類の能力に直接かかわっているという意味で、実はより深刻なのである。冷戦に勝利したはずの「自由民主主義」は、共産主義勢力という対抗錘をなくすことによって、ブルジョア的な意味でも一種の戯画と化しつつある。
われわれの目の前で進行しているこの「民主主義の衰退」は、「永続革命の時代」における軍事独裁やファシズムのような先鋭な形態をとるよりも(あの先鋭さは実は、当時におけるプロレタリア勢力の強大さの表われでもあった)、「法の支配」ないし法治主義のなし崩し的解体とパペット的政治家の独裁ごっこというパロディ的形態において進行している(私はこれを現代家産制と呼ぶ)。「悲劇は二度起こる、一度目は悲劇として、二度目は喜劇として」という言葉を彷彿とさせるかのように、ブルジョア政治はその喜劇的様相において、悲劇的な場合よりもはるかに確実にその命脈が尽きつつあることをわれわれに告げ知らせているのである。
グレタ・トゥーンベリが言ったように「自分の家が燃えているかのように行動しなければならない」時に、保守・リベラル問わずブルジョア政治家・政党は何のまともな対処もできずに、しだいにカルト化しつつある自分たちの支持者の方ばかり見ている。「自分の家が燃えている」というのは単なる比喩ではない。今年、アメリカのカリフォルニア州では、四〇〇万エーカーもの森が消失するギガ火災が発生した。今シーズンだけで、同州で起きた大規模火災の上位六位中、五件を占めている。すべての国が一致団結して必死で地球温暖化問題に取り組まなければならないというのに、二〇一九年に世界各国が支出した軍事支出は二〇〇兆円以上に上っている。自宅が猛火に包まれつつあるのに、消火活動をするのではなく、ライフルと銃弾を買いそろえることに依然として血道を上げているのである。
今回のコロナ危機程度のものに対してさえ既存の政治勢力は驚くほど無力であり、行き当たりばったりの対処療法に終始している。すでに四〇〇〇万人以上が感染し、一〇〇万人以上が亡くなっているが、感染の勢いは何ら衰えていない。新自由主義の四〇年間によってとことん社会的インフラを破壊した結果がこれである。そんな彼らにどうして、三つの危機に対処する能力があるなどと考えられようか?
だが、今回の危機の本当の意味での深刻さは、衰退したブルジョア政治に代わって、自ら政治と経済の指導権を勇躍して握ろうとする主体的階級勢力が(今のところ)現われていないという点に示されている。この主体的危機は、言うまでもなく、「永続革命の時代」における中心的革命勢力であった産業プロレタリアートの変革能力が「枯渇した」とまでは言わないにせよ、著しく衰弱してしまったのに、それに代わる階級勢力が不在であることから生じている。

人類的危機は克服可能か


だがマルクスが予言したように、プロレタリアートよりも革命的な階級勢力が存在しえないとすれば、いったい人類はどうやってこの未曽有の危機を乗り切ることができるのだろうか? ヴォルフガング・シュトレークが『資本主義はどう終わるのか』で述べているように、革命による資本主義の終焉を想像するよりも、資本主義とともに人類が終焉する事態を想像する方がはるかに容易になっている時代にわれわれは生きている。
そうした中で、安直な希望的観測にふけることは、安直な絶望感を吐露するのと同じぐらい危険である。人類の最終的危機とは言えなかった「永続革命の時代」においてさえ、人類の一部が資本主義と帝国主義の頸木(くびき)から離脱するためには二度にわたる世界戦争が必要だったのだ。マイク・デイヴィスが言うように、われわれが前にしているのは「最後の闘争」である。そこにおいて何か物事が牧歌的に進むと考えることほど愚かしいことはない。新しい変革主体は、大量の流血と泥土のぬかるみの中からしだいに形成されていくしかない。
そしてこの「最後の闘争」において最も重要な鍵を握っているのは、依然として労働者階級である。コロナ危機はエッセンシャルワーカーという言葉をクローズアップさせたが、それが示したのは、結局、社会を動かしているのは労働者(産業労働者のみならず、さまざまなサービス労働者やケア労働者も)であるというごく単純な事実である。どんなビリオネアであろうと、GAFAであろうと、どんな巨大帝国であろうと、労働者なしには無力である。今はまだ不在の変革勢力の候補者は、社会の隅々を改めて見渡しても、やはりこの多様な労働者階級の外には存在しないのである。
「ブルジョア革命の時代」には補助的革命勢力としてブルジョアジーに奉仕し、「永続革命の時代」に初めて自律的革命勢力として登場しながら、結局、(党、労働組合、国家の)官僚に奉仕することになった労働者階級は、この二一世紀において、本当の意味で自立した勢力として、この「最後の闘争」を闘い抜かなければならない。そこにおいて奉仕するべき対象はただ一つ、人類社会そのものである。人類は労働者階級の最後の勝利を通じて生き残るか、さもなくば資本主義とともに滅亡するかである。その意味で、労働者階級の変革能力と自己決定能力に賭けたトロツキーの思想と生涯は、今日、かつてなくアクチュアルなものになっているのである。



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