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    かけはし2020年11月16日号

主権者にそむく政治家・官僚は去れ


沖縄報告 11月8日

防衛局は新基地建設断念し、辺野古から撤退せよ

沖縄 K・S


防衛局が美謝川水路変更のボーリング調査

埋立をあきらめ、新基地計画を白紙撤回せよ!

 どんなに破綻しても突き進む。これは戦前の天皇制日本以来の日本政府の特質といえるかもしれない。つまり、破綻した国策を立ち止まって点検し、修正あるいは変更することができないのである。中国侵略、アジア太平洋戦争、沖縄戦の経過を想起してほしい。さらに戦後も公害、干拓、ダム、原発等の国策において、国家権力を掌握する政治家や官僚の前例踏襲主義、自己保身と事なかれ主義はどれほど莫大な被害を住民に与え、かつ住民を分断させてきたことか。

美謝川水路変更のためにボーリング調査

 辺野古ダムから米海兵隊キャンプ・シュワブの中を通り大浦湾にそそぐ美謝川の水路変更のために、沖縄防衛局が辺野古ダム周辺でボーリング調査をしている。防衛省によると、ボーリングは切り替え後の川の流れに沿って約二〇カ所で実施予定だという。さらに詳細設計についても今年度内に完成予定とされている。
県民ぐるみの反対意思が繰り返し明らかにされ、大浦湾の埋立は困難・不可能だということが調査・研究されても、政府は辺野古新基地建設事業の再検討や中断を決断しない。閣僚や官僚の誰一人として現行政策の推進に疑義をはさまない。本当に当事者意識のない無責任な政治家・役人だ。国家指導層として、破綻した国策を立ち止まって点検し修正あるいは変更する能力を持て。ボーリング調査を中止せよ。防衛局は新基地建設を断念し、辺野古から撤退せよ。

埋立承認の仲井真元知事に旭日大綬章

 菅政権は秋の叙勲で、公約を破り辺野古埋立を承認した仲井真元沖縄県知事に旭日大綬章を授けた。県民ぐるみの民意を踏みつけ新基地を押し付ける日本の国策遂行上「勲一等」功績大という訳だ。余りにも露骨な国家権力による沖縄工作の自認ではないか。
仲井真は秋の叙勲を受けて新報、タイムスなどとのインタビューで、「ウチナーンチュが考えたら県外が一番いい。だが決まった話を変えるのは大変で、また二〇年かかる可能性がある」と述べた。民間人として自分の考えを発言する分にはいくらでも自由にやればよい。だが、彼は知事だった。県外を掲げて県民に選ばれた知事として、公約を破ってはいけない。仮に仲井真元知事が公約通り埋立申請を承認しなかったら辺野古新基地建設は頓挫していたかもしれないというのに、埋立承認により埋立工事を決定的に加速した責任があることを彼は全く自覚していない。
国・地方さまざまなレベルで政治権力を手にすると、政治家たちはフリーハンドで与えられた権力であるかのように錯覚する。しかし、権力の源泉は国民・県民・住民にあって、選ばれた政治家たちは委任されているにすぎない。権力を持つ政治家は謙虚になれ。主権在民、主権者は国民だと考えない政治家たちは、菅政権の閣僚たちをはじめすべて政治の舞台から退場せよ。

辺野古―安和―塩川―海上で連日続く行動


政府防衛局が県民ぐるみの民意を踏みつけ辺野古埋立工事を強行することに対し、米海兵隊キャンプ・シュワブゲート前、本部半島の土砂を積み出す琉球セメント安和桟橋と本部塩川港、辺野古・大浦湾と安和の海上では、連日抗議の行動が続けられている。一〇月の第一土曜日県民大行動の場で、参院議員の伊波さんは「安倍は退陣した。われわれは安倍に勝った。菅にも勝とう」と檄を飛ばした。
新基地NO!埋立STOP!の県民意思は不変だ。米中の軍事対立のはざまにあって、米軍の陣営に組み込まれることを県民の大多数は望まない。太平洋上の小さな島々の琉球列島が戦場になればどうなるか。沖縄戦やサイパン・テニアン・グァムの戦争を通じてよく分かっているのだ。沖縄をはじめ琉球の島々を非武装中立地帯とし、米軍・自衛隊は沖縄から撤退せよ。
一一月四日水曜日の安和桟橋ゲート前は普段より多くの参加者で賑わった。朝から、島ぐるみ南部の南風原・糸満、北部地区労、嘉手納爆音訴訟団、普天間爆音、集まれ辺野古のグループが、出口と入口ゲートでゆっくり行進で抗議した。昼前からは島ぐるみ南部の八重瀬・南城も加わり午後まで、マイクでの訴えと音楽に合わせたゲート前行動を続けた。この日午前・午後あわせて、参加者は約五〇人にのぼった。

『ゆきゆきて神軍』を観て

 奥崎謙三生誕一〇〇年を記念して、この夏から公開された『ゆきゆきて神軍』(1987年制作)が東京を皮切りに順次、神奈川、大阪、東北各県などを回って、一〇月の末から一週間、沖縄・桜坂劇場でも上映された。私たちが観た時は大きい劇場に六人のみ。あまり注目されなかったようだ。三〇数年前の公開の際にご覧になった方も多いだろうが、今あらためて映像を見ると、奥崎謙三のエネルギッシュな行動に驚嘆する以外ない。常識外れの極端な行動に反発し嫌悪する人もいるかも知れない。
一九八七年の公開のあと、この映画は国内外に大きな波紋を広げ、「ベルリン国際映画祭 カリガリ映画賞」「毎日映画コンクール日本映画優秀賞」「シネマ・デュ・レエル(パリ・ドキュメンタリー国際映画祭)大賞」「ヨコハマ映画祭ベストテン一位」など多くの賞を得た。
日本陸軍一等兵だった奥崎謙三は「神軍平等兵」を名乗った。自家用車の上の前後左右に「ヤマザキ、天皇を撃て!」「人類を啓蒙する手段として田中角栄を殺す」などの看板を取り付け、車体にも「怨霊」「神軍」など様々なスローガンを書きなぐった街頭宣伝車に乗って精力的に各地を走り回る様子から映像は始まった。飢餓の果てに日本軍により処刑された兵士の上官、同僚兵士の居場所を尋ね問い詰め、時に暴力をふるい、警官とやり合う映像が続く。その所業は、密林でむなしく死んだ日本軍兵士たちの怨念が乗り移っているかのようだ。映画は、『ドキュメントゆきゆきて神軍』(社会思想社の現代教養文庫、1994年)と合わせて読むと分かりやすい。
奥崎謙三が所属した独立工兵第三六連隊一三〇〇人は、地獄の戦場・ニューギニアで、米軍の攻撃、飢餓とマラリアによって全滅、生き延びたのは一〇〇人に満たない。奥崎自身もジャングルの中で、飢餓に苦しみ、米軍との戦闘で負傷して「いっそのこと米軍に殺された方がましだ」と米軍の食料保管庫を襲い、捕虜になったという。戦場のニューギニアの実相については、元BC級戦犯の飯田進がまとめた『地獄の日本兵―ニューギニア戦線の真相―』に詳しい。
日本による戦争の被害者は、侵略され焼かれ奪われ殺されたアジアの人々だけにとどまらない。侵略戦争に動員された日本軍兵士、武器を持たされ残虐行為を強制され、戦闘で死傷しあるいは飢餓と病気で命を失った日本人青年も被害者だ。また、前号で触れた戦争被害補償を求める四団体に代表される多くの人々も戦争被害者である。戦争加害者・戦争犯罪人は、天皇を頂点とした政軍官財学報の国家指導層である。敗戦後の混乱期に、日本は天皇制を廃止して共和制に移行する選択肢もあった。しかし、天皇と戦争犯罪人は占領軍・GHQに助けられて戦後日本に生き延びた。
それゆえ、奥崎謙三の天皇に対する追及は今なお意義を持つ。「皇居パチンコ事件」の陳述で、彼はこう述べた。「数百万人の無辜の民衆が死んだ、あの悲惨な太平洋戦争が、裕仁の詔勅で始まり終ったというまぎれもない事実は、日本人の中で裕仁の戦争責任が最も重く且つ大であることを、何よりも如実に証明するものである。しかるに裕仁は、ヒトラーの如く追いつめられて自殺せず、ムッソリーニの如く民衆によって処刑されず、敗戦によってもまだ天皇迷信の蒙から醒めない多数の日本人の無知と怯懦に支えられて、今日なお特権的な生活を保障され、存在しつづけている」(『ヤマザキ、天皇を撃て!』(三一書房、1972年)

県内市町村の中国での戦争体験記を読む(37)
日本軍の戦時暴力の赤裸々な描写


中国侵略の日本軍には、県内各地からも多くの青年たちが動員されて命を落とし、また、戦争の実態を目撃し記録した。県内各地の市町村史の戦争体験記録にはそうした証言が数多く掲載されており、日本軍による戦争の姿を赤裸々に描いている。今回紹介するのは、南京事件の翌一九三八年、ハイラル、ノモンハンに派遣され国境警備の任に就いて、沖縄戦では八重山の守備に配備され九死に一生を得た東風平町(現・八重瀬町)の金城さんである。引用は原文通り、省略は……で示し、補足は〔 〕に入れた。

東風平町史『戦争体験記』(一九九九年発行)
金城明正「冬将軍との闘い」

 ……大連から汽車に乗ってハルピンから十キロ位離れた双城保という田舎町に行った。行軍は二、三日も歩き通しである。それに降雨のためぬかるみで膝を没する程の悪路である。名前は忘れたがハワイから日本に来たため、三〇の齢を過ぎてから初年兵として入隊した者がいた。その人は体力が弱くこの泥道をヨタヨタ歩く姿は気の毒であった。体力の差で荷物の加減等をする筈がない、等しく同重量の荷物を担ぐわけであるから大変である。
この演習が終わって、次はハイラルという所に着いた。ハイラルは蒙古国境からおよそ二百キロの距離である。私達の師団は日本軍第23師団で小松原中将の指揮下にあった。任務は満州国と蒙古の国境警備である。……
私はノモンハンの警備中、地面深く掘ると水の湧き出る土地柄だったので、その水を飲んで喉の渇きをいやした。翌日から血便とノリ状の便が出た。とうとう部隊後方の病院に入院することになった。……
東風平村出身から、ノモンハンの犠牲になったのは志多伯の神谷徳方さんと小城の仲座初秀さんがいる。花城源助(玉城村愛知出身)与座光祐(南風原町津嘉山出身)もこの事件で死んだ。私は病院で入院中だったのでこの戦闘にまき込まれず生き延びた一人である。……
満州の思い出は五〇数年経った今も昨日、今日のように思い出される。行った当時双城保という所の大豆、トウモロコシ等その出来ばえは沖縄の比ではない。大豆が七、八〇センチにも伸び、実もたわわについていた。初めて見た雪も大変めずらしいものだと思った。ノモンハンでは多くの戦友を失い命がけの戦地生活ではあったが生涯忘れ得ぬ体験であった。
そして、昭和一九年九月、太平洋戦争の雲行きがただならぬ時局に面してまたも兵隊として駆り出されてしまった。今度は県内の八重山の守備隊だった。……
一〇月一〇日の那覇空襲後の一二日、八重山も飛行場を中心に空襲された。私たちのいる名蔵も再々米軍の空襲にあったので山中に住むようになった。山中では立木をそのまま柱として茅ぶきの小屋を建てて住んでいた。
兵隊だが軍事訓練といって、タコ壺壕に入って爆雷にひもをつけ、それを投げて戦車がそこを通る時ひもで爆雷をあやつって戦車を爆破するという、いたって簡単な戦法である。軍事訓練もたったこれだけのことだった。
兵隊の主な仕事は壕掘りだった。私は壕掘りを終えて山から流れて来る小川の水で水浴したら間もなく八重山風土病マラリアにかかってとうとう病床に伏す身となった。
マラリアの罹患は私が最初だった。この病状はすごい寒気と高熱を伴うものだった。寒気が始まると戦友の毛布を集めてかぶってもぶるぶる震えは止まらなかった。病状が良くなっても定期的に震え、しばらくすると治って普通になる。これを繰り返すうち病気は次第に良くなっていくのであった。……



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