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エコロジーと社会主義(2003年)


第四インターナショナル15回世界大会決議          

 

はじめに

人類は今日までずっとエコロジー的問題に直面してきた。しかしこの問題は今日、その範囲や重大性ゆえに新しい緊急事態をむかえている。環境破壊はしばしば、人や自然に対して取り返しのつかない影響を及ぼす。二一世紀の幕開けにおいて、差し迫っているエコロジー危機は何百万人もの生命を危険にさらしつつある。

労働運動における支配的潮流が環境問題を無視ないしは軽視しがちであるのと対照的に、エコロジー運動や緑の党には、これらの決定的な問題を議題にのせた功績がある。しかし、彼らが出す解決策はしばしば全く間違ったものである。なぜなら、環境破壊と資本主義の利潤論理との間の切り離せないつながりを見落としているからである。エコロジー的脅威と真剣に関わるために、われわれは、民主的に計画された社会主義の展望のもとに、利潤目的で作られた体制から抜け出さなくてはならない。

エコロジー危機の諸要素

エコロジー危機は、人類の自然に対する影響の結果であり、人類の生存そのものを脅かしうる地点にまで達している。ある小集団の経済的利益を維持するために、事前にエコロジー的影響を評価しないまま、新しい生産形態がますます速く作りだされる。こうした小集団の利害のために、有害とされる生産技術を維持することが求められる。これが続く一方で、技術的進歩が自然に作用する可能性を増やし、それゆえ自然を撹乱・破壊し続ける。

十九世紀資本主義の勃興にリンクした産業革命は、大気に放出される廃棄物の割合を劇的に増やし、労働者や都市住民の健康を著しく損なった。全体的に見て、人類によるエコロジー的衝撃波は、スピードを増し、激しくなっている。

しかしながら、エコロジー危機は、周知のように、十九世紀以来の産業発展の直線的結果ではない。それは、質的飛躍の結果であり、石油利用の大規模な一般化、自動車・化学工業の驚くべき発展、そして全ての経済分野、とりわけ化学肥料や殺虫剤を通じた農業分野での石油利用の結果である。一九七〇年代以降、この質的飛躍は、官僚的計画経済の危機のあとで、そしてより劇的な形では「第三世界」における経済危機と野放しの産業化とが結びついたあとで、より顕著になった。

気候変動

人類の活動?化石燃料への依存(エネルギー生産、輸送)、劇的な森林消失を引き起こす第三世界での家庭生活用薪の使用、農業活動?は現在の地球温暖化の根本的な原因となっている。これらの活動は、年間およそ七十億トンの温室効果ガスを大気に放出している(CO2、CH4、N20、CFC)。このうちの半分は海や森によって循環利用されない。その結果、地表の生命に適した温度を維持するために必要な温室効果は制御しきれなくなり、地表の複雑な気候システムの撹乱をもたらす。地球温暖化はまさにこの局面の一つの表れである。一九八九年に計算されたところによれば、一九八〇年代は記録上もっとも暑い十年間だったとのことだった。二〇〇〇年には、一九九〇年代が記録上もっとも暑い十年間になった!こうした事実にもかかわらず、気候変動の決定的重要性、および温室効果ガスの増加を防ぎ、すでに不可逆的な影響を限定化させるために、遅滞なく行動することの必要性を否定するブルジョア勢力がいまだにいるのだ。多くの地域で、その影響は、巨大な人類共同体の経済にとって壊滅的打撃となるだろう。大気中の水循環の撹乱は、もっとも憂慮すべきものである。というのは、この撹乱は雨と蒸発のシステムを変え、熱帯性台風の数と激しさを増大させるからである。海面上昇も起こりうる。海面上昇の規模によっては、特定の島や沿岸地域は危険にさらされる。

将来予想によると、これらの気候の乱れは、成層圏のオゾン層の持続的減少、それによる地上への発ガン性紫外線の増加と結びつくだろう。オゾン層の破壊は有機ハロゲン化合物(主に冷凍やスプレーに用いられるクロロフルオロカーボン(CFC))(訳注:いわゆるフロンガス)の効果によって引き起こされる。これらはほぼ禁止されているが、既に排出されたCFCの破壊的影響は終わっているどころではない。それは、二〇六〇年まで続くと言われている。

地球環境の主な構成要素(大気、大洋、生物圏)内部における、そしてその各々の間におけるメカニズムを制御する上での地球規模の諸変化は、二一世紀全体を通して悪影響を与えるだろう。時間の長さは異なるだろうが、一般に、変化を引き起こしている人間活動が使うタイムテーブルをはるかに超える長さだろう。この事実は、エコロジー的義務を社会の全機構の中に緊急に統合しなければならないことを明らかに示すものである。

大気汚染

産業、輸送、そして多かれ少なかれ耐久力のある消費財の損耗が、空気中にさまざまな有害物質を放出する。自動車交通が無制限に、かつ明らかに手に負えないほど増加していることにより、自動車交通は、二酸化硫黄や窒素酸化物の主な排出源となっている。それは、家庭暖房や工業用熱源からの排出よりはるかに多い。たとえば、ホルムアルデヒド、水銀、アスベストは、工業が汚染源である。これらはまた、毎日使われる消費財の中にも、かなり多く見いだされる。たとえば、ビル建材に含まれるホルムアルデヒドやアスベスト、バッテリーに使われる水銀のように。

都市の大気は、農村部の空気の一千倍も多く、これらの有害物質を含んでいる。富裕国においても、貧困国における無計画に広がる無政府状態の都市においても、大気汚染は中心市街地では非常に深刻な事態になっている。都市環境においては、この汚染は呼吸器疾患(喘息・気管支炎・肺ガン)の驚くべき増加を引き起こした。ヨーロッパでの研究によると、西ヨーロッパの主な大都市圏の汚染は、年間何千人もの人々の死亡原因になっているのだ。

アスベストは、造船労働者や建設労働者の間に、命に関わる癌の患者を多数生み出している。これらの癌には潜伏期があるため、年間死亡者数はうなぎ登りに増え続け、問題の深刻さを示している。フランスだけでも、二一世紀最初の二五年間に、十万人以上のアスベストによる死亡が予想されている。アスベスト災害に対する抗議行動によって、富裕工業国では、アスベスト使用が急激に減少し、代替材料の開発が進んだ。しかし、第三世界ではいまだにアスベスト使用は増加し続けている。

二酸化硫黄や窒素酸化物は酸性雨の原因であり、北半球温帯森林に対する被害の主な原因になっている。

水汚染と土壌劣化

家庭・農業・工業から出る廃棄物は、世界中の水域に運び捨てられ、それらは巨大な下水道と化している。陸の水路、川、湖は最も大きな打撃を受けているが、汚染は川や沿岸都市を通して、ますます海にまで到達している。この直接的な結果として、海底、河床、湖床の沈殿物の中に、(水銀、カドミウムなどの)重金属や非常に有害な有機化合物が蓄積する。とりわけ、硝酸塩・リン酸塩を含む化学肥料の増加によって、藻類・水生植物のとめどない急激な増加が引き起こされている。それらが分解すると、水に溶けている酸素が使い尽くされ、その結果水生生物の大量死をもたらすことになる。

海洋の状態は急激に悪化している。世界的な海運の増加に責任がある。多くの船舶が破滅的な状態にあり、そのことによって深刻な石油流出を引き起こしているので、なおさらそうである。多国籍石油企業が可能な限り低いコストを系統的に追求していることが、エクソン・バルディス号、エリカ号、プレステージ号などの石油流出事故(訳注)のような大災害に直接の責任を負っている。黒い潮として目に見える汚染?一九九六年には七〇隻のタンカーが沈没した?に、海底採掘現場からの石油漏出や船からの油の排出が天文学的な量になっていることを付け加えなければならない。海はまた、有毒廃棄物、化学廃棄物、放射性廃棄物のゴミ捨て場として使われている。
(訳注:エクソン・バルディス号は一九八九年、アラスカ沖で座礁し、四万トンの重油が流出。エリカ号は一九九九年、フランスのブレスト沖で船体が二つに折れて沈没し、一万トン以上の重油が流出。プレステージ号は二〇〇二年、スペインのガリシア沖で座礁し、七万トン以上の重油が流出。いずれの事故でも、非常に広い範囲の海と沿岸地方が汚染された)

水汚染は土壌汚染とリンクしている。そのことは、ある種の水・大気汚染の原因であり、結果でもある。これは、市場圧力によって強制的に課された農業活動、たとえば集約農業(化学肥料や殺虫剤の悪用)、単一栽培、地方の生態系や風土に合わない作物などの結果である。武器産業は、放射性兵器、沈没した原子力潜水艦、土地を使用不能にしている地雷などで、この悪化に貢献している。このことは、地球規模での大規模な土壌破壊を意味している。すなわち、有害な汚染・枯渇・砂漠化・大規模浸食が混じり合い、その全てが第三世界の八億人もの人々に影響を与える飢餓の経済的・社会的原因と結びついている。

森林破壊

エコロジー危機がもっとも劇的に表現している現象の中で、世界的な森林破壊は、その影響の広がりゆえにもっとも衝撃的である。五十年間で、世界の森林地帯の三分の一が消失した。これは熱帯の国々で最も激烈であった。工業国では、森林地帯の減少はそれほどではなかったものの、大気・石油・土壌汚染が原因となって、森林はゆっくりと滅びつつある。しかしながら、「第三世界」では、森林伐採がエコロジー危機の核心である。森林伐採は、耕作可能地の不足と消耗という悪循環の結果である。もう一つの原因は、持続可能な管理を考慮せずに、熱帯木材を生産しすぎたことである。これにより、西側の建材・家具市場により安価な木材を提供するために、生物多様性?熱帯林は、地球の動植物種の五〇%以上の住みかである?や、森の住民の生活資源が破壊されている。

さらに、一九九七年以来、アマゾン、中米、ロシア、東南アジアでは、森林火災が激増した。インドネシアでは、大規模森林火災が、三年間で一千万ヘクタールを破壊し、七千万人に影響を与え、四五億ドル以上の被害を出した。地球レベルで見ると、森林伐採は温室効果をさらに深刻化させている。

生物多様性への脅威

何万もの生物種の存在が生態系への際限ない攻撃によって脅威にさらされている。地球上の生物多様性の四分の一がこの二五年内に消滅するかもしれない。ある場合には、これらの攻撃は、やがては環境バランスを不安定なものにして、人類の生活状況に計り知れない影響をもたらすかもしれない。

生物多様性は守られなくてはならない。感傷的で感情的な理由のためでなく、われわれ自身の種のために守らなければならないのだ。環境に影響する取り返しのつかない変化を起こさないよう、人類は自然のエコロジー・バランスに敬意を払いながら、注意深く行動を起こさなければならない。

資本主義は汚染にはなんら配慮しない。動植物種の宝庫である熱帯林や海洋生物の存在そのものを脅威にさらすとしても、短期的な利益という単一の目的のために資源開発をすすめる。同様に、環境に広がると、取り返しのつかない、おそらくは危険なプロセスとなる遺伝子組替え作物(GMO)のような技術革新を定着させようとする。エコロジー・バランスを守ろうと望むものは誰であれ、資本主義の基礎そのものを攻撃しなければならない。

遺伝子組替え作物の生産は、実験室内の技術にとどまることなく、新しい市場を見つけるために資本主義が利用しているバイオテクノロジーの鍵になってきている。資本主義は、これまでは視野の外にあった、もっとも身近な存在、つまり動植物の生殖や遺伝子管理をもコントロールしようとしている。 

産業災害と核危機

資本主義生産の、悲惨なエコロジー的影響はまた、化学プラントや原子力プラントといった産業複合体の中で、大規模な事故、あるいは事故の潜在的危険という形をとる。ボパールの災害(イソシアン酸メチルの被害によって、千五百人が死亡し、今も毎年数百人規模で死んでいる)は、チェルノブイリと並んで、最も悲劇的な例の一つである。

原子力のまさにその本性、つまり、起こりうる有害な影響の計り知れない程度、とりわけ影響の長期間にわたる継続は、そのオルタナティブな解決法の存在と並んで、生産力発展の点からなされた(異常な)選択の、特に憂慮すべき例を示している。

放射能のリスクは大事故の脅威を意味するだけではない。誕生してから四十年たった今でも、原子力産業は核廃棄物の貯蔵問題の解決法を見つけていない。衰退に怯えて、今は足踏みしているとはいえ、新しい原子力発電プログラムを進めるために、そのエコロジー的長所を売り込もうとしている。原子力はCO2排出量を減らす道であると主張している。この主張は、放射能汚染災害(認可された、あるいは偶然の投棄)や、自動車がはるかに主要なCO2の原因であるという事実を軽視している。さらに、巨大な生産装置や何百という発電所新設にもとづく、そのような比較的融通の利かないエネルギーシステムは、(エネルギーを節約でき、再生可能なエネルギーという)他のシステムを犠牲にした上で、投資を独占するだろう。さらに、過剰生産や分配システムにおける損失が、電力の浪費を促すだろう。それはまた、長期的には有害な発展モデルを永続させることになるだろう。

この永続的なリスクに、われわれは帝国主義の攻撃性をつけ加えなければならない。それは、使われた武器の破壊力と長期にわたる汚染の可能性のために、深刻なエコロジー的影響をもたらす。ベトナム戦争、湾岸戦争、セルビア・コソボ紛争は、このことの証拠である。エコロジー危機のこのあらゆる諸要素は、伝統的な経済的・社会的・政治的問題を隅に追いやる新たな緊急事態を創り出すどころか、反対に、これらの憂慮すべき問題と密接に結びついているのだ。

エコロジー危機は、激しく広範な現象になっており、ローカルで部分的な災害を起こすだけでなく、地球温暖化や生物多様性減少のような地球規模での脅威をもたらすのである。ある場合は、その脅威は不可逆的であり、別の場合には、短中期、あるいは多くの木の樹齢にあたるほんの二〜三世紀でもとに戻り得る。これは、人類共同体の意識的な選択にかかっている。

エコロジー危機の構造的要因

資本主義生産様式は、自然の法則からは逃れられないが、さまざまな方法で、自然や自然進化プロセスと根本的に矛盾した状態に入る。資本にとって、量的な観点だけが決定的であり、それが価値法則の枠中での労働時間とお金との関係を決定する。つまり、質的でグローバルな諸関係は考慮されない。

資本主義生産は、投資された資本に見合う利益を得るために、可能な限りもっとも短期間で、資本循環プロセスを実現することに基礎をおいている。このようにして、資本主義生産は、自然のプロセスに無関係なリズムと枠組みを押しつけなければならない。自然資源の開発にあたっては、その形成や再生に必要な時間を考慮することができない。商品生産物の普及にあたっては、社会組織の既存の様式を考慮することができない。円滑な生産プロセスのために必要とされる空間を占めるために、エネルギーの供給と分配は、自然環境・動物相・植物相を考慮することなしに進められなければならない。環境破壊を引き起こすのは、資本主義に智恵がないからではなく、そのシステムの基になっている論理そのもののせいである。これが、社会民主主義者が「質的成長」を求めたときに、資本の論理によって妨害される理由である。即ち、質的成長と価値法則は相互に相いれないのである。

資本主義的合理性が個別資本の動きを決定する。しかし、資本間の競争は全体のシステムを不合理にする。生産改善や原材料節約のために働く知性は、企業のドアの前で立ち止まる。「誰も責任を感じない」場所では(たとえば、水・空気・土壌の汚染という場合には)、環境がそのツケを支払うことになる。さらに、競争は周期的な生産過剰の危機を招く。つまり、かなりの量のエネルギーや材料が、売れない商品に投資されていることが明らかになる。その上、市場は、使用価値からすれば余分な生産物(広告、さまざまな薬物、武器)ではあるが、大きな利益をもたらしてくれる、交換価値のある生産を促進する。利潤や超過利潤を求める競争・レースが、資本家の法律自身が認定するような犯罪行為、すなわち環境規制の無視、有毒物質の使用、不充分な品質テスト、偽造した内容目録、廃棄物の不認可投棄などの背後にある根本的な理由である。

エコロジー運動によって広められた「生産力主義」という用語は、ときには混乱したやり方で、資本主義システムの非合理性を表現している。生産性の発展は、社会的進歩の源泉になる代わりに、労働力搾取の激化、社会的・エコロジー的に緊急になすべきこととは結びつかない生産の選択、慢性的生産過剰を引き起こしている。後先を考えない市場の中で、生産はまるでそれ自身が目的であるかのように機能するのだ。

帝国主義大都市圏のエコロジー危機

最も進んだ経済的搾取、すなわち、それまで存在した自然・社会・歴史的土台の経済的定数量化のプロセスが、資本主義が発達した国々で見られる。今日では、商品生産が社会生活のすべての分野を支配する一方で、生産の社会的プロセスはますます分断されてきている。所有関係はますます集中するようになってきている。生産手段所有者間の競争によって、所有関係の集中化が完全に中断することはない。

これは、すべての帝国主義諸国で、同様の重大なエコロジー問題をもたらす。これらの問題は、「故障」あるいは「システムの欠陥」とはいえない証拠がある。なぜなら、これらの問題は、世界中でこのシステムの論理と符合するからである。

公共サービスの民営化、際限ない都市のスプロール化・「コンクリート化」は、緑地の消失、道路・高速道路建設のための森林破壊をともなって、都市環境のおそるべき悪化を引き起こしている。工業地帯・ショッピングセンター・郊外型住宅・テーマパーク・行政地域に使用するために、土地の最後の一立方メートルまでほぼ完全に開発してしまったことで、通勤時間や交通量は大いに増えた。一方、欲求の構造は本質的に不変のままだ。化石燃料を使い、自家用車に基礎をおいた輸送政策は、慢性の交通渋滞をもたらした。それが、全ての大都市圏にマヒや窒息の脅威を与えている。

特にエネルギーの分野では、集中した所有関係は、 大規模な化石燃料基地や原子力発電所の設立を促してきた。この選択は大気の質にとって有害であり、エネルギーの経済的利用の観点からは全く不合理である。

廃棄物問題では、市場の無分別と利潤目的が決定的な役割を演ずる。それぞれの会社が役に立たない物を投棄したり、流したり、燃やしたりすることは、ますます「好都合」になる。こうして、廃棄物の山が、特に有害な廃棄物の山が、実際、資本主義過剰社会のシンボルとなってきた。軍事核廃棄物処分という象徴的な問題、戦争とりわけ帝国主義の軍事遠征によって引き起こされる環境破壊については言うまでもない。資本主義は、これらの「乱暴な行為」を正すことができないのである。

これら基本的なエコロジー問題の結果は、豊かな自然に恵まれた土地の破壊、都市のスプロール化現象、道路システムの過密、自家用車により引き起こされる大気汚染、化学工業による汚染、核エネルギーによる放射能汚染、増大し続ける廃棄物の山々などである。資本主義は、これらの 「失敗」を正すことができない。水・木・土壌といった自然資源が「自由に」利用できるなら、資本主義の下では、資源はほとんどコントロールされることなく、使い果たされ、浪費され、毒される。資源は、経済的意味においてのみ「外因的要素」なのではない。資源は私的利潤追求の対象物なのだという条件がつけられたままである。言葉を換えれば、資源の限られた性質は、ただそれを購入しなければならない人によって理解されるだけなのである。資源の売人は、拡大することに基本的な関心があり、資源を保護しようとするどのような試みにも反対する。

コントロールしようとする試みは、さらなる規制緩和を求める今日の資本家による圧力と必ず衝突する。もし衝突しないとするのなら、 価値法則は「良い」(環境にやさしい)利益と 「悪い」利益を区別できるという誤った前提を土台にして、コントロールする試みを考えるしかない。それゆえ、帝国主義諸国は、害が起きた後で、問題につぎあてをして取り繕おうとする。これは、せいぜい、水や大気の浄化のために必要なフィルターを付けるというような、きわめて限定的・部分的な治療法に終わるだけだ。

資本主義的生産はまた、自らの消費者を再形成する。このように、個人的行為が、エコロジカー危機をさらに悪化させ、エコロジー危機の解決を阻害する要素になる。このことの悪名高い例が、「車独裁」とも言えるものであり、自家用車という、環境にとっては破局的なシステムである。このシステムを推進するのは、自動車産業のマーケティング、ブルジョアの個人主義的イデオロギー、意図的な公共交通機関の荒廃、そして労働者に長距離通勤を強いている大都会の都市構造である。しかし、個人的行為の変化は、資本主義的生産の基本的な環境破壊体質にわずかな影響を及ぼすだけだろう。

従属国のエコロジカルな危機

国連環境機関の研究は、「第三世界」のエコロジー問題は貧困の問題であるという明快な結論を引き出した。この貧困は、運命の結果ではなく、帝国主義諸国の経済政策や経済行動の結果であるということをはっきりと心に留めておくべきだろう。事実をねじ曲げれば、帝国主義諸国における環境危機は市場経済の結果ではなく、豊かな社会の結果であると言うことができるかもしれないが。しかし、アジア・アフリカ・ラテンアメリカの従属国において、経済危機とエコロジー危機の関係はきわめて明らかになっている。何百万人もの人間にとっては、増大する環境・生物圏の破壊と日々の生活のための闘争は、同じ直接体験の両側面なのである。八億人以上の人々が栄養不良であり、四千万人が毎年、飢えや栄養不良で死んでいる。二〇億人近くが、きれいな水を何時でも手に入れられるわけではなく、その結果として毎年二五〇〇万人が死んでいる。一五億人は、彼らの唯一のエネルギー源である薪の深刻な不足に苦しんでいる。世界のこの地域では、食料・水・燃料、すなわち人々のまさに命に関わる三要素が深刻に不足している。国連は、約五億人が「環境難民」であると評価している。彼らは、干ばつ、洪水、土壌浸食、輸出用農業の拡大などの結果として、生まれた土地を去らざるを得なかったのである。事実はこうだ。世界のこれらの地域のエコロジー危機は、「時限爆弾」=未来の問題ではなく、まさに今ここにある危機なのだ。

極度の貧困とエコロジー危機の主な原因は、資本主義生産様式にある。周知の帝国主義的従属構造および帝国主義支配下の世界市場によって、被支配諸国の自然環境は、帝国主義諸国の場合よりはるかに直接的で過酷な経済的搾取を受けてきた。たとえば、先進資本主義諸国の産業廃棄物や核廃棄物を「南」へと輸出することにより、「南」は有害な、あるいは放射能で汚染された物質の巨大なゴミ捨て場と化している。もう一つの例は、資本主義企業、特に製薬企業による、先住民族の伝統的な知識の私物化・特許取得という生物資源の窃盗行為である。

世界市場の需要と多国籍企業の利益に従った環境破壊は、社会構造および歴史的に伝承されてきた生活様式との間で、さらに一層目に余る矛盾を起こしてきている。これらすべての国々において、帝国主義は、ほぼ完全に築き上げられた社会的基盤を押しつけることにより、世界市場に依存した経済活動の中心部の周りに自らの領域を形成してきた。輸出用の生産のために、「天然資源センター」、ビジネス・センター、休暇地帯、プランテーション、牧草地が選別されるのは、このことを基礎にしているのである。このことは、異なった生活様式を強制することにより、これらのプロセスの犠牲者となった人々に巨大な圧力をかける。そして、「流行遅れ」の社会的機能が国の周辺地域に向けて押しつけられる。こうした諸国は他の国々により進められるプロセスに左右されるがゆえに、その影響は、資本主義大都市圏におけるより、はるかに重大であったし、重大であり続けている。

われわれは、エコロジー的視点から、従属国における 「複合的不均等発展」法則の致命的な結果をも見ることができる。世界市場は、世界のもっとも「遅れた」地域に、環境破壊的力学とそのもっとも苦痛に満ちた矛盾を持ち込む。ここでの世界市場の活動は、比較にならぬほど一層破壊的であり、反対勢力はあまりに弱い。われわれは、このメカニズムの一連の構造的特徴を説明することができる。

i)世界市場のための自然資源の直接的略奪(鉱物、木材、綿、ゴムなど)および社会的生産基盤、道路、鉄道、発電所などをそれと並行して開発すること

ii)結果として汚染を引き起こす化学肥料や殺虫剤の大量使用を含む土地転換政策によって、土地を輸出生産用農場・牧草地へと転換させること

この二つのプロセスが、ほとんどの従属国において、土地問題を差し迫った問題にしている。アグリビジネスと新自由主義的構造調整政策による略奪が、森林破壊や肥沃な農地の破壊を招き、気候変動と激化する「自然災害」の危険性を増大させている。アマゾン、エクアドル、インドなどで、環境を守るために立ち上がり、多国籍企業による破壊に対して闘うことによって、全体として人間の自然遺産の守護者として活動しているのは、しばしば先住民コミュニティである。

iii)ある特定の経済構造と土地問題によって引き起こされた都市化。国際連合が見積もったところでは、従属国の都市は、資本主義工業都市の三倍の速さで大きくなっている。これらの都市では、環境と生活状況にとって、通常の都市問題がより一層破滅的なものになっている。車交通と家庭暖房による大気汚染は、まさに大きな脅威である。クリーンで浄化された水質が、従属国の都市が直面する第二の問題である。廃棄物の処理が第三の問題である。アジア・アフリカ・ラテンアメリカのほとんどの都市では、ごみは単に山積みにされていたり、野焼きされたりしている。

従属国の問題で最近もっとも関心を集めているのは、銀行や帝国主義政府に対する債務である。一九九〇から九五年にかけて、もっとも債務の多い貧困国リストにあるアフリカ三三カ国の森林破壊は、他のアフリカ諸国の森林破壊と比べて五〇%以上大きく、世界の森林破壊の平均値より一四〇%も大きい。その上、自然保護対策の資金を持っていない。世界銀行や国際通貨基金といった国際金融機関によって、人と自然はますます重い負債コストを我慢させられている。農業部門においては、構造調整プランによって強制される緊縮策が、価格保障補助金を廃止させ、農産物市場の自由化をもたらした。公共投資の欠如が輸送・灌漑のためのインフラ問題を悪化させている。一九九四年以降、WTO合意は、従属国における農業破壊をさらに加速させた。自給作物を犠牲にして輸出収入をなりふり構わずに追求することで、アフリカ・アジアのいくつかの国々では、栄養失調の危機を招いた。環境状態が悪化し続ける一方で、きわめて深刻な貧困と農民離村が増加している。

これらすべては、帝国主義多国籍企業によってなされた自然破壊やエコロジー犯罪の一連の直接行動により、皮肉にもより完全なものとなった。危険な生産装置(特に化学産業)が従属国に運ばれている。そこでは、安い労働力から利益を上げられるのみならず、罰せられることなく環境を汚染することができるからである。

ほとんどの従属国政府は、エコロジー危機に直面しても無力である。彼らが帝国主義の利害と結びついていること、および彼ら自身の特権や階級的利害が、経済依存やエコロジー危機を拡大させる。特定の国際的援助プログラム(飢えやエコロジー災害と闘うための、あるいは環境保護対策と引き替えに債務の一部取り消しを求める最近のプラン)は、しばしば権力の座にあるエリートたちを富ますことになるだけである。

従属国のエコロジー危機を解決するには、帝国主義への従属を打ち破ることが不可欠である。さしせまった社会問題を解決するために、融資や債務を通じて「近代化」を追求するのは、状況をさらに悪くするだけの誤りである。このことは、エコロジー危機については一層当てはまる。貧困と経済的従属のために、何百万人もの人々が環境に深刻な害を引き起こす行為に加わらざるをえなくなる。そうしなければ、彼らは生き残ることさえできないだろう。これが意味することは、従属国においては、反帝国主義革命、永久革命のプロセスは意識的にエコロジー問題を取り上げ、それを資本主義的略奪に対する闘争のプログラムの一部にしなければならないということだ。これは、オルタナティブ、つまり社会主義的生産関係をうまく築くための条件である。

旧官僚主義的社会のエコロジー危機

ソ連やソ連をモデルとしたほとんどの社会はなくなったが、そうした国々の環境政策を手短かに検証することは必要である。官僚的中央計画システムをもったソ連や他の国々のエコロジー的実績は、とりわけ大気・水・土壌の汚染という点については、帝国主義大都市圏と比べてより悪いということはないとしても、それと同じくらい悪い。計画システムは、量的水準と成長率だけを追い求めたのである。そのようにして、過渡期社会は、ときには資本主義社会以上に、成長の量的増加に重点を置いた。成長率は法令で布告され、抑圧的に実行された。資源保護、原子力(チェルノブイリ!)、大都市圏が直面する諸問題。

この状況を生んだ理由の一つは、これらの社会が、資本主義的価値法則の克服や、それが課する生産の客観的な制限にほんの一部でしか成功しなかったという事実にある。多くの鍵となる生産部門で、資本主義や世界市場への依存がまだ残っていた。輸出経済のための自然資源開発、資本主義産業から得られた製品や技術への依存が、これらの社会でもまた、避けることのできない環境破壊へと導いた。これは、ある意味では、従属国についてわれわれが見てきたのと同じようにして起こった。

計画経済は直接的に社会経済を発展させる試みであった。市場、つまりは製品を販売する能力だけに基礎をおいて、労働の有用性を決める資本主義とは逆に、非資本主義社会は生産の前に社会的ニーズを決定し、計画を立てようとした。この試みは、すべての人のニーズと特定の利害が、民主的討議・決定プロセス全体の中に持ち込まれるときに、初めて成功するのは明らかである。現にある不足を分かち合わねばならないとき、民主主義は一層絶対に必要である。しかし、過渡期社会の官僚政治は、民主主義を完全に排除した。さまざまな人々の持つ多くの社会的・民族的、文化的・経済的ニーズが規格化され、強制的に上から命令された計画に組み入れられた。あらゆる質的観点は、民主主義とともに葬り去られたので、決定的な環境対策は、せいぜい量的問題としてこのような計画に含まれるだけだった(浄化ステーションの数、フィルターの数、ある予算支出など)。この計画作成は、初めから、計画作成における(資源の誤用を伴う)誤りと大きな見落としに悩まされた。社会的コントロールがないため、これらはただ最終的に「お偉方」に認められたときのみ修正された。

さらに、その計画の別の部分は、それをセットした官僚の別のフラクションの利害と一致した。このようにして、ソ連や他の官僚国家に典型的な、巨大主義が存在するようになった。プロジェクトがより大規模に、より中央に集中されると(例:シベリアの河川の水路変更)、官僚の権力はより強まる。一九七〇年代以来、環境問題に関心を持つ官僚が登場してきたが、彼らは影響力を欠き、小さな低レベルの部門に埋もれたままだった。

楽観主義と進歩への信仰が、官僚的イデオロギーの信条である。官僚は、「二つのシステム間の競争」、および資本主義社会に「追いつき追い越す」との将来予想を打ち出した。この観点から、このような環境問題を引き起こした資本主義的消費と近代化モデルが価値あるものとされ、計画を組立てる役割を演じるイデオロギー的価値として取り上げられた。官僚は、自然資源の数量化に基づくモデル(すなわち、保守的ブルジョア経済学者が使ったのと似通ったモデル)を用いるだけだった。

ソ連の崩壊以来、西側勢力とIMFの祝福を受けて、今ロシアで勢力をふるっている経済的略奪や野放し主義という状況にあっては、エコロジー危機は悪化するだけだと言うしかない。

キューバの場合はある程度まで異なっている。必要に迫られただけでなく、エコロジー的確信をも持って、一九九〇年代に、計画経済が生産力主義的で環境破壊的なソビエト・モデルから逸脱したからである。同じことが、都市交通において、自転車で車を部分的に置き換えたことにも当てはまる。

労働運動とエコロジー

エコロジストは、マルクスやエンゲルスを生産力主義と非難する。この非難には正当な理由があるのか?

いや、次の範囲ではノーだ。すなわち、誰もマルクスほど力を込めて、利潤のための生産、資本の蓄積、それ自体を目標とする富と商品の生産という資本主義の論理に対抗してものをいった者はいなかったという点において。まさに社会主義という考え方は(ひどい官僚的カリカチュアとは違って)使用価値を生産することであり、人間のニーズを満足させるのに必要な製品を生産することなのである。マルクスの目に映る技術進歩の至高の目的は、際限なく品物を増やすこと(所有)でなく、労働時間を短縮することであり、もっと自由な時間を持つこと(存在)なのである。

しかしながら、時にはマルクスやエンゲルスの中に(その後のマルクス主義においてはさらに顕著に)、「生産力の発達」を進歩の主なベクトルにしようとする傾向、とりわけ環境との破壊的関係という点において、工業文明にそれほど批判的でないスタンスが見られるのは事実である。『経済学批判要綱』の次の一節は、資本主義的生産の「文明」的使命や、自然の残虐な道具化に対する、マルクスのあまりにも無批判的賞賛の一例である。

「このようにして、資本がはじめて、ブルジョア社会を、そして社会の成員による自然および社会的連関それ自体の普遍的取得をつくりだすのである。ここから資本の偉大な文明化作用が生じ、資本による一つの社会段階の生産が生じるのであって、この社会段階に比べれば、それ以前のすべての段階は、人類の局地的諸発展として、自然崇拝として現れるにすぎない。自然ははじめて、純粋に、人間にとっての対象となり、純粋に、有用性をもつ物象となり、独自の威力と認められることをやめる。またそれどころか、自然の自立的な諸法則の理論的認識が、自然を、消費の対象としてであれ、生産の手段としてであれ、人間の諸要求に服従させる、そのための狡知としてしか現れない。」(マルクス『資本論草稿集』2、大月書店、1993、 pp. 17-18)。

他方で、資本が自然環境にもたらした破壊について述べている?生産力によってもたらされた「進歩」の矛盾についての弁証法的な視点を立証している?マルクスのテキストも見出される。例えば、『資本論』の資本主義農業に関する有名な一節がそれである。

「労働の生産力の上昇と流動化の増大とが、労働力そのものの荒廃と衰弱とによってあがなわれる。そして、資本主義的農業のあらゆる進歩は、単に労働者から略奪する技術における進歩であるだけではなく、同時に土地から略奪する技術における進歩でもあり、一定期間にわたって土地の豊度を増大させるためのあらゆる進歩は、同時に、この豊度の持続的源泉を破壊するための進歩である。ある国が、たとえば北アメリカ合衆国のように、その発展の背景として大工業から出発すればするほど、この破壊過程はますます急速に進行する。それゆえ、資本主義的生産は、すべての富の源泉すなわち土地および労働者を同時に破壊することによってのみ社会的生産過程の技術および結合を発展させる。」(『資本論』第1巻、 S. 529)

しばしば自然に対する人間の「優越」と「支配」を讃えたエンゲルスでさえ、次のテキストにみられるように、このような見通しの危険性に、もっとはっきりと注意を向けるよう呼びかけた。例えば、『猿が人間になるにあたっての労働の役割』(1876)の中の次の一節でこう述べている。

「しかし、自然に対して人間が勝利したからといって、あまりうぬぼれてはいけない。勝利の一つ一つに対し、自然は復讐する。各々の勝利は、実際、最初はわれわれが期待した結果を引き起こす。が、第二、第三では全く違った、予期せぬ効果を果たす。それは、あまりにしばしば、第一の結果を帳消しにする。メソポタミア、ギリシャ、小アジアなどで、農耕地を得るために森林を破壊した人々は、次のことは夢にも思わなかった。即ち、森林と共に、水分を集める中心地や貯水池を移すことによって、彼らは、上述の国が現在の荒涼たる状態に到るための基礎を敷いていたのだとは。……このように、征服者が外国人を支配するように自然を支配してはいけない、ということを、一足進むごとに、われわれは思い知らされる。即ち、自然の外側にたつ者のように支配してはならないこと、肉体、血、頭脳を持ったわれわれは、自然の一員であり、その真っ直中にいるということ、われわれの自然に対する優位はただ、自然の法則を学ぶことができ、それらを正しく適用できる点で他のすべての創造物より優れているのだということを。」

他の例を見つけるのは難しくないだろう。しかし、マルクスとエンゲルスは全体的なエコロジー的展望を欠いていたという事実は残る。エコロジー問題は、二一世紀初頭におけるマルクス主義思想の復活のための最大の挑戦の一つである。エコロジー問題は、マルクス主義者に対して、自分たちの伝統的 「生産諸力」概念の徹底的な批判・再評価、および直線的進歩というイデオロギーや近代産業文明の技術的・経済的パラダイムとのきっぱりとした決別を要求する。しかし、これらの弱点にもかかわらず、資本主義政治経済に対するマルクス主義的批判は、人間解放のプロジェクトにとっての基礎であることに変わりはない。そして環境保護運動は、それを理解しようとしないわけにはいかない。

労働運動の隊列において改良主義が発展したのと並行して、資本主義社会が自然に与える脅威についてのマルクスとエンゲルスの批判的見解は過小評価されてきた。改良主義は、ブルジョア社会の生産力主義的概念・展望を受け入れ、同時に、ブルジョア社会の主要制度(国家、軍隊、法律など)を受け入れることによって、ブルジョア社会にとってまさに不可欠な要素となってきた。例えば、二〇世紀初頭、金属労働者の組織であったドイツ金属労連(DMV)は、社会民主主義の支配的影響のもとで、以下のような説得力のある説明をした。「技術的発達が速ければ速いほど、資本主義生産様式は一層速く自壊して、もっと高度な生産様式にとって代わらざるを得ないような地点に到達するだろう。」 

社会民主主義とスターリニズムは、多くの問題で意見が合わないにも関わらず、経済の生産力主義的概念と環境問題への無関心では意見が合った。一般に革命的潮流が、とりわけ第四インターナショナルがエコロジー問題に取り組んだのは、ほんの最近になってのことであることを認めなければならない。

エコロジー的災害の持続、環境保護運動の成長、これらの運動の部分的勝利、そして運動を政治的に組織化しようという試み(「緑の」党など)によって、労働運動内部で分化が生まれた。一連の国々で、すべての組合、あるいは少なくともその中の強力な少数派は、イタリアのCGILやイギリスの炭鉱労組のように、核エネルギーの「平和的」利用に反対し、エコロジー問題に敏感に反応してきている。例えば、ブラジルのCUT、フランスのSUD、スペインの労働者委員会、ドイツのIGメタルなど。

現在のところ、われわれは、労働者の代表だと表明している党や組合の中で、四つの潮流をはっきりと区別できる。

a)あたかも何も変わっていないかのような態度をとり続けようとする「筋金入りの」分派。この分派でさえ、環境にとって破壊的な開発を踏まえて、いくぶん調整せざるをえなかった。この潮流はいま、排出基準と新たな規制を求めているが、原子力の継続使用を擁護している。この潮流は、目先のことしか考えない立場を修正せずに、特にもしそれが新しい市場を開発するなら、生態系の 「修復」に同意すると表明している。

b)ハイテクによる解決法でエコロジー問題を解決できると考えるテクノクラート潮流。実際はほとんどの場合、問題を先送りするに過ぎないだろう。例えば、ばく大な量の濾過された残りかす、浄化した後のヘドロ、その他のごみをどうするのか?ドイツSPDのピーター・グロッツは、大資本の中の 「エンド・オブ・パイプ技術(訳注)」派に協力を求めている。「伝統的左翼、技術エリート、成長について健全な見通しを持つ資本家の中の批判的少数派」間の同盟を通じて、社会的な方向の技術革新が獲得できるだろうというのである。彼は生産手段の私的所有へのどんな挑戦も明白に拒否する。
(訳注:生産設備から排出される環境汚染因子を固定化したり、中和化したりする公害対策技術のことで、排気や排水が環境に放出される瞬間になんらかの処理をすることによって環境負荷を低減する技術を指し、具体的には電気集塵機やバグフィルターなどの装置があげられる。これらは排気中の固形物質が大気中に出ないように設計されている。)

c)第三の潮流は「改良主義的エコロジスト」と呼べるだろう。これもまた、生産関係に言及するのを拒否する。彼らもまた、資本主義から、あるいは厳密には「産業社会」から、エコロジーに対する罪を取り除けると主張する。エルハルト・エップラーは、ドイツSPDの「基本的価値委員会」の議長として、次のように言った。「以前よりもさらに、社会民主主義の任務は、新しい改革政策を通して、産業社会に民主的・人間的・エコロジー的修正を加えることになっている。」

d)第四の潮流は、少数ではあるが、数的に無視できない存在であるエコ社会主義である。それは、マルクス主義から生産力主義的な残滓を取り除きながら、その基本的業績を取り入れている。エコ社会主義者は、(すたれた「人民民主主義」の権威主義とともに)市場と利潤の理論がエコロジー的要求と矛盾すると考える。労働運動の指導的潮流によって推進されたイデオロギーを非難する一方で、エコ社会主義者は、労働者と労働者組織がシステム転換のための本質的な力であることを理解する。

エコ社会主義は、労働運動やエコロジー運動において、「南」の労働者・人民の利益にもっとも敏感な潮流である。エコ社会主義は、(資本主義的形態や官僚的形態[いわゆる「現存社会主義」]のいずれか、あるいは両方における)生産力主義的成長イデオロギーを捨て去り、環境に対して破壊的な生産・消費様式の無制限な拡張に反対する。エコ社会主義は、「持続的な成長」が資本主義市場経済の枠内では不可能であると理解している。

革命的勢力として、われわれの目的は、エコ社会主義潮流と協力関係を築き、部分的改革は全く役に立たないことを労働者に確信させることである。ごくわずかな合理性は、文明における本質的変化を求める社会主義者・エコロジストの大きな合理性に取り替えられなければならない。これは、技術的方向付けの徹底的なやり直し、すなわち、現在のエネルギー資源を、別の・有害でない・再生可能なもの、例えば太陽エネルギーのようなものに換える模索なくしては不可能である。このことは、当面の第一の問題が、生産手段に対するコントロールの問題、結局は投資と技術的変化に関する決定をコントロールするという問題であることを意味する。

生産・消費様式の全般的再編成が必要である。それは、資本主義市場とは異質の基準、すなわち人々の本当のニーズや環境保護手段に基づくものである。別の言葉で言うと、社会主義への過渡期経済は、優先順位や投資を人々自身が民主的に選ぶことを基礎にするのであって、「市場の法則」や全能の政治局に基づくのではない。これは、社会的ニーズとエコロジー的な急務の両方を満足させるという緊張を克服するための持続的方法を見つけることができる計画経済ということになるだろう。それは、オルタナティブな生活手段、新たな文明へと導く過渡期であり、金による支配、広告により人工的に煽られる消費習慣、そして環境に有害な品物の果てしない生産(自家用車!)を超えるための過渡期となるだろう。

エコロジー運動の到達点と限界

エコロジー運動の基本的到達点は、環境問題に対する大衆の認識に徹底した変化を引き起こしたことだが、それは後期資本主義が環境を破壊しているという程度の理解だったし、今でもそうである。自然破壊は、人類すべてを危険にさらす地点に達した。ここでは、世界核戦争の場合のように、生き残りが問題になる。しかし、核破壊の危険とは反対に、いつも「新しく」、そしてますます明らかに、ますます深刻になっている問題である。それにもかかわらず、エコロジー運動が環境問題を人類すべての死活に関わるものとみなしているという事実は、ほとんどのエコロジストが行っていること、すなわち、階級間の融合を追い求め、資本に対する階級闘争の重要性を隠していることを正当化するものではない。それとは反対に、どれだけコストがかかろうとも、そのシステムを維持しようとする人々とシステム廃止をめざす人々との間の区別はなくなってはいないのである。

エコロジー運動のもう一つの到達点は、「進歩」概念に疑問を投げかける方法である。それは、後期資本主義に対するマルクス主義者の分析の欠点を論証してきた。われわれは、資本主義発展の初期のように、生産力の積極的発展について語ることはできない。生産手段の私的所有に縛られ、プロレタリアートの犠牲のもとで発展してきただけだからである。資本主義は、生産力発展のために歴史上必要だったよりはるかに長く生き残ったことで、さらに一層、生産力を破壊力に変換している。しかし、このことは、こうした力をそのままでは解放することができない、つまりすべての人々の利益になるように社会主義体制の中で使うことはできないことをも意味している。この力については、詳しく調べ、批判的に分析されなければならないだろう。これは理論的問題であるだけではなく、非常に実践的問題でもあり、スターリニスト官僚体制の考えに典型的な「資本主義を追い抜く」という考えに対する批判をも含むものである。さらに、どの生産物がエコロジー的・社会的な観点からみて望ましいかを問うことなどによって、生産の物質的側面(使用価値)のより念入りな分析が初めて行われている。

一九六八年の運動に続く敗北の後、エコロジー運動は、今一度ユートピア的次元を政治に持ち込んだ。社会体制の根本的変化やもう一つの生活・生産方法についての討論が、エコロジー的要求を基礎にして再び始められている。生産の使用価値についての前述の討論は、社会的に有用な生産についての議論を含む。異なる社会についての新しいユートピア構想が話し合われ、そして、具体的な「再転換計画」の概略が描かれた。

エコロジー運動はまずヨーロッパで発達した。それは、労働運動が防衛局面にある国々、例えばオーストリア・スイス・ドイツなどにおいてすら、大規模な大衆動員を伴っていた。デモ・封鎖・占拠といった、戦闘的・具体的闘争形態が、「抵抗の文化」を引き起こした。当初、これらの闘争は、とりわけ核問題に焦点を合わせていたが、いまや、例えば大気・水の汚染、GMOといった他の問題を取り上げ、動員している。「狂牛病」危機のようなスキャンダルが、「ジャンクフード」や資本主義市場の論理から起こる危険についての大衆的な自覚を目覚めさせた。フランスでは「農民連盟」が急進的活動の触媒となった。ホルモン処理をした牛肉輸入をフランスが禁止したことに基礎をおいて、米国の制裁に反対する象徴的行動(マクドナルドの追い出し)から始めて、労働組合、エコロジー組織、左翼諸政党の支持を受け、また世論の強い同意を受けて、世界貿易機構(WTO)の相手になるまでに、その闘争は広がった。二〇〇〇年六月には、ミヨー(フランス)の裁判に直面した小農民への連帯の大集会で、強い支持が示された。

大きなエコロジー的動員は米国でも起こり、植物種や人間以外の動物種に人間以上の優先順位を与えよと主張する「ディープエコロジー」からエコ社会主義にまで広がる、複雑で多種多様に入り混じった運動を生んだ。最近の、シアトルでのスプリング二〇〇〇の大結集は、この運動の強さ、そしてWTOや商品化が進み続ける世界に対抗する組合や左翼と進んで協力しようとするいくつかの構成団体(例えば、大きな環境保護団体である「地球の友」)の意志を示した。シアトルはまた、北アメリカ・ヨーロッパ(ジョゼ・ボベをスポークスパーソンとする農民組合)・第三世界の運動が、闘争の中で合流することを初めて可能にした。

われわれはまた、エコ無政府主義的考えを持ち、非常に戦闘的な若者で作られた直接行動のネットワークが存在することを指摘しなければならない。それらは、主要な反新自由主義の動員の全てにおいて非常に重要な役割を果たした。

エコロジー問題を「北」の国々に関係しているだけ、つまりは豊かな社会のぜいたくだと考えるのは、大変な間違いだろう。エコロジー的側面を持つ社会運動は、資本主義の周縁部、つまり「南」において、ますます生まれてきているのである。

これらの運動は、アジア・アフリカ・ラテンアメリカにおいて深刻化するエコロジー問題、帝国主義諸国の「公害輸出」という意図的な政策の結果および「競争力」によって求められる際限ない生産性に反対している。われわれは、市場(ないしは国家)の攻撃的な拡張によって脅威を受けている小農民農業や自然資源への共同のアクセスを防衛するために、「南」で民衆動員が現れているのを目撃している。不平等な交換、従属的産業化、農村部での資本主義の発達(アグリビジネス)によって引き起こされる現にある環境への打撃と闘うために、他の闘いが立ち上がっている。しばしば、これらの運動は、エコロジー的であると自らを規定しないが、それでも本質的にエコロジー的側面を持っている。

これらの運動が、技術的進歩による改善に反対していないことは言うまでもない。反対に、電化、水道、適切な下水、もっと多くの診療所を求める要求は、運動の要求リストの中でもランクが高い。運動が拒んでいるのは、「市場法則」や資本主義的「拡張」が不可欠という名のもとに、自然環境を汚染したり破壊したりすることなのである。

ペルーの小作農指導者である(第四インターナショナルの)ウーゴ・ブランコによる一九九一年のテキストは、この「貧者のエコロジー」の意味するところを、顕著に表している。「一見したところ、環境保護者、あるいは資源保護論者は、ナイスというよりも風変わりな人間のようにみえる。彼らの人生の主たる目標は、シロナガスクジラやパンダの絶滅を防ぐことである。普通の人は、例えば、次の食事はどこから来るだろうか、といったような、もっとさし迫った関心を持つものだ。……しかし、ペルーでは、環境を保護している人が沢山いる。もちろん、あなたが彼らに向かって、「あなたはエコロジストです 」と言えば、彼らはおそらく、こう答えるだろう。「 エコロジストだって。とんでもない」と。……だがしかし、イロの町や周辺の村の住民が、南ペルー銅会社によって起こされた汚染と闘いながら、環境を保護しているのを誰が否定できるか?略奪から森を守るために死ぬ覚悟ができているアマゾンの人々は、ことごとくエコロジストではないのか?あるいは、水を汚されたことに反抗する、リマの貧しい人たちもそうではないのか?」

ブラジルは、社会問題と環境問題を大規模に結合させた国の一つである。われわれは、GMOに反対している「土地なし農民運動」(MST)が、巨大多国籍企業モンサントと直接対決しているのを見ることができる。労働者党(PT)に統治された地方自治体および地域は、エコロジー的目標を参加型民主主義プログラムの一部にしようとしている。リオグランデドスル地方の行政機関(MSTやPTと近い関係にある)は、GMOがその地方に入るのを禁止しようとしている。その地方の富裕な土地所有者たちは、憤慨し、いわゆる「古くさい見解」への反対を表明している。彼らは、遺伝子組み替え種子に反対する闘争を「農業改革を押しつけるための陰謀」と見ている。

森と直接関わって生きている先住民族は、農業資本主義に押しつけられた「近代化」の主な犠牲者の一つである。結果として、彼らは多くのラテンアメリカの国々で、環境と調和し、資本主義的「文明」ブルドーザーに反対し、従来の生活方法を守るために集結している。ブラジルの「貧者のエコロジー」の数え切れない表明のなかで、社会的・エコロジー的観点、地方的・地球的観点、また「赤」・「緑」の観点で、ある運動が特に典型的で目立つ。それは、大地主や多国籍アグリビジネスの破壊的な食欲に対して、ブラジルのアマゾン地域を守るための、シコ・メンデスと「森の住民連合」の闘いである。

この対立の中で起きた主な出来事を簡単に思い出しておこう。シコ・メンデスは、労働組合の活動家で、CUTとブラジルの労働者党(PT)とつながりを持っていた。社会主義とエコロジーについてはっきりと言及しつつ、八〇年代初頭に、メンデスはセリンゲイロ(ゴムの木の樹液を取ることで生計を立てる小作人)の土地占拠(ブルドーザーを送り込んで森の木を切り倒し牧草地に変えた大地主への反抗)を組織した。その後、彼は、森の住民連合の中で、下部教会組織の支持を受けて、小作農、農場労働者、セリンゲイロ、労働組合、そして先住諸部族を統合するのに成功し、多くのあからさまな試みを失敗させることができた。これらの活動は世界的に知られ、一九九七年、彼は地球環境賞を受けた。しかしその後間もなく、一九九八年十二月、大土地所有者は暗殺者を使って彼を殺し、このエコロジー的闘争は大きな代償を強いられた。

社会的闘争とエコロジー的闘争、小作人の抵抗と土着民の抵抗、地域の人々の生存と地球に不可欠なものの保護(最後の大熱帯林の保護)の間で築き上げられた結合を考えると、この運動は、「南」でのこれからの大衆的動員の規範となりうる。

ある国々では(特にヨーロッパでは)、エコロジー運動は多くの改革を勝ち取ることができた。一部では、環境破壊の急なペースはゆっくりになった。例えば、実際、新しい原子力発電所は建設されていないし、ある種の化学製品(CFCや肥料など)の生産は制限され、一定の工場や自動車などに厳密な基準が規定された。資本主義的環境産業が現れてきた。また、エコロジー的改良は、ブルジョア政党の政策綱領の中にさえ、その道を見つけることができるようになった。

だが、改良のあらゆる試みや環境産業にもかかわらず、地球規模の破壊はかつてない以上に深刻になってきている。海の汚染、熱帯林の開墾、気候変動のどれもが、このことを表しているのである。地球規模のエコロジー的危機は変わらずに残ったままである。この点からみて、この危機は、われわれの社会の根本的な変化の必要性、すなわち、いかなる改良をもはるかに超えた基本的な変化の必要性を示している。

エコロジー運動は、首尾一貫した革命的プログラムが持たず、労働者を革命の主体とみなすことができないので、労働運動の役割を占めたり、受け継いだりすることができる新しい社会勢力になるという大望を満たすには程遠いところにいる。にもかかわらず、少数の明らかにブルジョア的・反動的グループを除けば、エコロジー運動は、資本主義システムに対する全般的闘争の中で革命勢力の重要な同盟者であり続ける。

環境問題とブルジョア支配

資本主義生産が環境に与えた影響のせいで、人間社会にとって自然の基礎の破壊が新しいレベルに達している。ブルジョア秩序・イデオロギーにとって、それ自体、本質的問題となってきた。

つまり、エコロジー危機は世界的に広がっており、資本主義固有の競争的文脈の中では、それは通弊としてのみ考えられているだけである。つまり、エコロジー危機の原因は、はるか以前に遡るものであったり、いろいろ別々の要素が結びついて発展したことの産物であったりする。

このため、その時間を特定し、生理学的な原因を突き止めるのは難しい。同じように、エコロジー危機を克服するには、投入・産出サイクルというブルジョア的概念の破綻となるくらいの時間と投資が必要である。

最後に、古典的経済危機に見られたものとは反対に、資本主義の有害な社会的結果において、軍事衝突の結果においてさえ、被支配・被搾取階級がエコロジー危機のツケの一部を払わされるだけかもしれない。しかし、とりわけ従属諸国では、被抑圧階級がその負担の矢面に立つことは疑う余地がない。これは、社会・経済危機とエコロジー危機の相互作用を考えると、一層真実となる。

エコロジー危機の認識の成長と一九六〇年代はじめから発展したエコロジー運動は、ブルジョアイデオロギーの鍵となる概念の一つに対する激しい攻撃を表明した。その概念とは、ブルジョアの社会的・経済的秩序は永続的な「全員のための進歩」を保証できるという考え方であり、自然の制御がそもそも有益であるという考え方であり、それに付随するすべての問題は解決可能であろうという考え方である。

このイデオロギー的挑戦に対して、ブルジョアイデオロギーを最新のものにしようとする試みがあった。最初のものは、世界中に周知の、ローマクラブのレポート(「成長の限界」、一九七二年)であった。このレポートは、環境破壊の急速な進行を記録し、天然資源の消耗や環境破壊などの統計的な進行に対する、超国家的政策を打ち出した。この研究、そしてそれに続く他の研究は、両刃の剣であった。一方では、科学とブルジョアイデオロギーが環境問題についてイニシアチブを取り戻し、出された予測や解決についての討論を引き受けた。もう一方で、これらの研究は、世界の未来について悲観的見解を強め、環境運動の一層の推進力となった。現在の経済上の秩序である資本主義世界が、その優位のオーラを失った。つまり、その終局とそのメカニズムが内側から問題にされた。同時に、これらの分析は、世界的計画と経済の政治的規制を促進しようとする要求のカタログとなった。このようにして、それらの分析は、資本主義市場経済、経済的自由主義、当時世界的に議題にのぼっていた政府による規制緩和攻撃と正面衝突した。

一九八〇年代中頃までには、環境領域での第二のブルジョア的攻撃が必要であることがわかった。その後、これらの矛盾の解決法の提供が、特に具体的政策で必要になってきた。一九九八年に国連総会で採択されたブルントラントレポート(「共通の未来」)は、このことを表現したものであった。そのレポートは、資本主義は不幸にも環境を傷つけているが、必要な修復をする立場でもあるというブルジョアジーの確信によって、完全に特徴付けられていた。それように、そのレポートは、もっとバランスのとれた成長形態(「持続可能な成長」)のための諸要素をつなぎ合わせるように主張した。

一九九〇年代には、グローバル化した資本主義の新たな国際的規制の約束と、まさにこのシステムの残酷な社会的・環境的影響との間の矛盾が深まった。地球サミット(一九九二年)で出されたリオ宣言は、予防原理のような特定の諸原理を表明したが、それはエコロジー危機の諸要素の認識が進歩したことを示したものだった。二五〇〇もの手段を混ぜ合わせた大きな袋であるアジェンダ21も、生物多様性や気候変化への国際協定もともに、必要なラディカルな解決法には到らなかった。さらに自由化された国際貿易の影響下に環境を置くWTOの誕生とともに、これらの協定はほとんど効果がなくなった。生物多様性保護のための諸宣言は、自然環境に対して絶えず進行する侵害には何の力にもならない。政治レベルでは、それらの宣言は、GMOの使用を増やし、遺伝子特許を取ることによって、生命体を牛耳ろうとしている農業化学・製薬多国籍企業の利害と衝突する。

ブッシュ政権は、エネルギー企業ロビイストの後ろ盾で、温室効果についての京都議定書(一九九七年)を拒否した。アメリカ以外の帝国主義諸国が到達したその不安定な合意は、温室効果ガス放出を減らす国内的手段を実行するために、富裕国にいかなる義務も課していないし、当初の議定書に含まれていたすでに全く不適切となっている目標すら放棄することを意味している。大気中の二酸化炭素レベルを五五〇ppm(産業社会以前の倍)以下に保ち、地球の平均気温が二℃!以上上がらないようにするためには、排出量の五〇%以上の削減が必要であるにもかかわらず、実際のところは、議定書は二酸化炭素排出のわずか五.二%削減という目標を提案する。

一二五〇億ドルを十年にわたって拠出することが、世界規模の環境保護政策のためにリオで発表された。一九九六年には、三億千五百万ドルだけが投資された。ブルントラント・レポートで示され、さらに再びリオでも示された改良主義的考え方と支配的な超自由主義的帝国主義モデルとの間では、さしあたり後者が勝ったのである。二〇〇二年九月のヨハネスブルグ・サミット(訳注:持続可能な開発に関する世界首脳会議)は、完全な失敗に終わった。重要な国際的対策はなんら採択されなかった。サミットは対照的に、巨大多国籍企業が数年かけて国際機関内部で自分たちの見解を押し付けることに成功したことを示した。そのようにして、巨大多国籍企業は、「官民パートナーシップ」といった考え方を通して、公共資源・公共財の民営化を促進するための護民官を要求した。

NGOは、リオやそれ以降も強い存在感を示したが、ときにはG7や国際機関の環境保護的文言に自ら巻き込まれてしまうことがあった。将来において、NGOは資本主義にエコロジー的見せかけを与えるものとして完全に統合される以外にほとんど選択肢を持たなくなるか、あるいはNGOの多くにとっては原点に戻ることを意味する、急進的なエコロジー批判に回帰しなければならないだろう

今日、環境問題への実践的アプローチは、どのブルジョア政府のプログラムでもその一部をなしている。一般に、大気・土壌・水の汚染については、制限を設定しようとしている。これらに、生産過程で出る残り滓の危険な影響を減らすための漸進的な計画が付け加えられる。あらゆることが言われ、行われても、これらは実際起こっている破壊を中和できない応急策に過ぎない。「エコロジー的市場経済」に関する経済的プログラムと政策方針がまた重要性を帯びてきた。今日に至るまで、資本主義経済を、環境に優しく作用する方向に向けなおそうとする試みは、机上の話に過ぎなかった。

しかし、資本主義的グローバリゼーションの状況下で、温室効果ガスの量を減らすための世界的基準について、「排出権取引」システムを押しつける広大な攻撃が進んでいる。米国に擁護されて、このメカニズムはヨーロッパ連合に採用された。これは、闘うべき危険な発展である。まずそれは、発展途上諸国が「北」への依存を強める道を開く。それぞれの国に、交換できる排出権量を割り当てるメカニズムでは、その決定力は、排出権を商売にする財力のある国に属する。「南」や「東」の債務の多い国は、「北」の方がはるかに汚染にかかわっているにもかかわらず、「北」諸国に自らの割当量を売るというリスクを冒すことになるだろう。

さらに、このシステムは、汚染(排出権)を商品、つまり利益の源にしようともくろんでいる。このような条件下で、このシステムが汚染の効果的な減少に導くだろうと、どのようにしたら想像できるのか。

最後に強調しておくが、このメカニズムの目的は、つまり環境分野への自由主義的攻勢の主要なねらいは、エコロジー的批判の秩序破壊力(資本主義体制の全機能への挑戦)を緩和することなのである。それは、市場は汚染と闘う最高の道具であり、資本主義は本質的に「もっとクリーンな」資本主義に向かうという考えの信用回復を目的にしている。

こうした考え方、つまり、環境保護が「資本主義経済の新しい現代化」を後押しする原動力となりうるといった理論とは闘わねばならない。

大きなギャップが豊かな地域と貧しい地域を分けている。豊かな帝国主義諸国では、汚染や破壊という最大の問題のいくつかをくい止めることができつつある一方で、貧しい国々では、資金不足や、環境に害を与えることで利益を生みだした一握りの企業の利害に直面して、もっともわずかの必要手段さえうまく行かない。これらの障害物に反応して、エコロジストの一部だけでなく、反動的イデオローグも、過剰人口が環境問題の中心的原因であり、人口抑制の強制的政策が開発途上国では必要であるという考え方を持ち出してきている。この見解は、根本的には権威主義的で、人種差別主義的でさえある社会組織概念に基づいている。それはできるだけ厳しく非難されなければならない。

エコロジー運動の政治的組織化の経験

ますます多くの国で、緑の党が発展している。西ヨーロッパにおいて、緑の党は、ドイツ、フランス、オーストリア、スウェーデン、ポルトガルなどさまざまな国で議席を獲得するとともに、四七議席を有する重要な欧州議会内グループを形成している。彼らは今や、EUの三か国(ドイツ、フランス、ベルギー)において、左翼連合とともに政府に参加している。緑の党は、従属国においてさえ存在している(ブラジル、トルコなど)。アメリカにおいて、ラルフ・ネーダーの大統領選への立候補は、グローバリゼーションとの闘争を基盤に、エコロジスト・青年・労働組合員の統一戦線が政治的に出現したことを象徴するものである。

もちろん、過去二十年以上にわたる緑の組織および党の発展は、地球規模の環境危機によって説明できる。しかしそれは、労働運動の伝統的なリーダーシップによる全体的展望の欠如や、一九六八年以来、資本主義ヨーロッパで革命的突破がなかったことなどの付加的要素がなければ理解されない。

すべての、異なった「緑」の経験を同じバッグに入れるのは完全に誤りである。国、政治的文化、その具体的な歴史的起源に依存しているため、それらは固有の特徴を持っている。

彼らの独特の色彩は、ブルジョアやプチブル勢力の強い影響から、最左翼、オルタナティブな社会主義者、エコ社会主義者の共存にまで分布している。そしてまた、改良主義的「緑」の潮流を含む。われわれは一般的に、そしてそれなりの注意を払っても次のように言うことができる。これらは、改良主義左翼(多くの場合、伝統的リーダーシップの左翼)内で組織する試みである。

—彼らの社会的ベースの七五%は給与被雇用者であるが、これらの潮流は、自らの立場を、労働者運動の一部としてみなしていない。

—緑の運動はしばしば、エコロジーを中心においた政綱に基礎をおく非公式な選挙構造として出発した一方で、(社会政策、軍拡競争、第三世界などの)他の領域でも批判的立場をとった。

緑の活動には、架空の改革「戦略」と、部門的社会的不公平に対する、しばしば正しい批判の組み合わせという特徴がはっきり見える。ほとんどの場合、政府あるいは議会活動は事実上、緑の党の草の根運動を抑え込み、権力代表団に伝統的な形態を取るようにうながし、そうすることで、その運動のラディカルな本質を土台から壊そうとする。一層悪いことに、ドイツの緑は、例えば、エコロジー的批判によって具体化されたユートピア的力のすべてを失いつつあり、他の諸政党の中で「単なる改良政党」になりつつある。この制度的スライドは、核問題、コソボ戦争、政府政策の一層強まった新自由主義的コースへの譲歩とともに鮮明となった。同じように、エコロジスト党が受けるかも知れない変化のリズムや形態を、そしてどの程度まで、緑の党の真の本質が、彼らの選択や政策のシフトによって変えられていくのか、あれこれ考えても実りはない。

革命的マルクス主義者は、政治活動を自己の要求、プログラム、あるいは自己の役割を自覚しているかをもとに判断するのではなく、階級闘争の中での実際の機能をもとに判断する。一般的に、緑の組織と党の出現は一歩後退ではなかったとわれわれは断言できる。反対に、多くの場合は、左翼活動を広げたといえる。緑を無視してはいけない。反対に、行動政策は、緑の方向を向いて、すなわち彼らとの共同の活動、理論的立場についての討論などを通じて発展させられなければならない。ある国々では、 抵抗政党とエコロジー運動が立ち上がって選挙連合体制を作り、批判的意見の一部分を動員した。このような党や運動との共同の最良の形態を具体的に決めるのは、インターナショナルのそれぞれの支部の責任である。

第四インターナショナルとエコロジー危機

すでに見てきたように、マルクス主義者のもともとの文献の中に、資本主義に対する急進的エコロジー批判の前提が見られる。しかし、労働運動におけるほとんどの党がそうだったように、わが第四インターナショナルもまた、結成当初には、それを取り上げることができなかった。例えば、一九三八年の結成大会における基本的綱領文書である「過渡的綱領」の中にそれを探してもむだだろう。第二次世界大戦後の時期、革命的マルクス主義者は、環境破壊、大気・水汚染を無視はしなかった。

しかし、これらの現象は、搾取的・非人間的体制のネガティブな結果の一つと考えられた。生きとし生けるものすべての基礎を破壊しようとしている地球規模の現象とはみなさなかった。このことは、一九七〇年代初頭から変わってきた。その時期、資本主義の自己破壊傾向が広く討論の主題になってきた。例えば、一九七二年のローマクラブのようなブルジョアイデオロギーに対して。われわれの運動の仲間によって書かれた論文や研究が出てきた。

しかし、労働運動の組織化のための本当の試練は、核エネルギーに反対する大衆運動の誕生、特に日本、西ヨーロッパ、米国における誕生であった。

実際、実際、第四インターナショナルのすべての支部がこれらの大衆運動に関わっていたが、反核運動が衰退していったとき、エコロジー的活動を強化する方法を見つけ出した支部はほとんどなかった。これらの運動の経験は、まさに世界大会に向けた討論の中で活かされることとなった。第十回大会のテキストでは、エコロジーやそれに関係がある問題は記述すらされなかった。しかし、次の大会(一九七九年)で、原子力産業に反対する闘争は「労働者階級の生存の問題」とみなされ、インターナショナルとその支部の仕事は、闘争の中に「産業労働者を取り入れることで運動を強化する」ことであると宣言された。一九八五年の大会で、その立場は一層発展した。文書によれば、世界革命の三つのセクターそれぞれにもっと詳細な分析をしている。主な決議は、インターナショナルとその支部に、宣伝や活動の中でエコロジー問題をもっと強調するよう、またエコロジー運動と並んで通常の活動も組織するよう求めた。一九九〇年、インターナショナルのさまざまな支部からなる委員会は、エコロジーについての草案を作成した。それは、十三回大会の討論の中で出されたものであるが、議案を採決する前に、さらに討論を重ねることが決められた。

今日、第四インターナショナルは、環境破壊を人類への主たる脅威の一つと見ている。つまり、ローザ・ルクセンブルグの有名な定式、「社会主義かバーバリズムか」に新しい意味を与える問題として見ている。第四インターナショナルは、労働運動による公約、地球の破壊に対する闘いの組織化を、この領域における最初の仕事とみなす。第四インターナショナルは、社会運動とエコロジー運動の間で、破壊のさまざまな形態に反対するだけでなく、最初にそれらを引き起こす体制に反対する共同の道を開こうと懸命に努力する。第四インターナショナルは、これらの運動の討論に加わりたいと思っており、また、「クリーン」な資本主義の可能性について広がった幻想に反対しようとしている。

多くの国で、インターナショナルは、現に進んでいる闘争に積極的に参加している。例えばGMOや、ブラジルではアマゾンの森林破壊に対する闘争などに。ヨーロッパの支部は、自国のエコロジー運動に前よりもっと参加している。われわれの分析では、エコロジーの問題は、労働運動が再組織しなければならない最も重要な極の一つである。

少なくともこれは、われわれの運動活動に、これらの「新しい問題事項」を取り入れる際に、問題がなかったというわけでない。多くの仲間は、エコロジー問題を、資本主義の他の多くの問題と同様の矛盾の一つとみなし続けてきた。彼らは、それを労働者階級の日々の生存競争、すなわち、非人間的な生活、労働条件や戦争の脅威に対する闘争と密接につながった問題としてみてこなかった。支部のほとんどは、他の勢力が行動を起こし、エコロジー問題がニュースに大きく出た後に、それについて考え始めるだけだった。結果として、インターナショナル内の討論がはっきりとした形がついてきたのは、かなりゆっくりとであった。他の潮流や個人は、エコロジーや社会主義の問題を何十年も討論し続けたが、革命的マルクス主義者は比較的静かなままだった。マルクス主義者は、自らの方法を、身の回りにある実際の問題に当てはめていくよう特別の努力をしなければならないことがますますはっきりしてきた。単にエコロジー的思想の二、三の要素を取って、それに赤い色をほんの少量つけるのはもはや不可能である。

今日、第四インターナショナルは、具体的なエコロジー政策についての討論だけに単に参加しようとは思わない。大衆運動に必要なステップ、政治的組織的なステップを踏み出したいとも思っている。大衆運動の活動を通じてのみ今の状態は変えられるのである。

行動綱領

今日、世界中で、自然の略奪や破壊に対するイニシアチブや運動が広がっている。第四インターナショナルは、これらのイニシアチブや運動を支援し、それらに参加する。時には批判的に。なぜなら、ある種のエコロジストの一般的見通しは、ときおりかなり混乱しているからである。エコロジー運動の経験は、幅広い結集や大衆的な抗議だけが、世論を味方にし、本当の結果を獲得させることができることを証明している。

提案

解決しなければならない、さもなければ、人類の消滅に直面してしまう基本的エコロジー問題のいくつかを思い起こしてみよう。これらの問題は全て国際的な規模でのみ解決することができる。これは、たとえば、国境を超えたキャンペーンの場合などにおいて、われわれの提案を提出し、その提案を実現できる手段を示すために、われわれの力を傾注することを望む分野である。

これらの動員は、次のような提案をめぐって実行することができる。この提案は最終的なリストと考えるべきではない。

要求

—第三世界において、何よりもまず輸出用産品に依存した農業システムとの根本的に決別する。このシステムは飢餓と窮乏の源である:
—環境破壊をもたらし、(「狂牛」病のような)深刻な公衆衛生危機へと導く資本主義農業に反対する
—核サイクルからただちに離脱する
—熱帯林破壊および工業諸国における森林破壊を停止する
—海・河川・湖をゴミ処理場として使うことを禁止する
—生物に関する特許に反対する:遺伝子組み換え作物の一時使用禁止
—水のような公共財の私的専有をやめさせる
—加速する生物破壊をやめさせる:生物多様性の保護

オルタナティブ

—第三世界において、人々の基本的要求の充足をまず保障する農業生産システム
—非再生可能エネルギー資源の略奪に代わって、合理的で計画的なエネルギー使用:太陽光エネルギー・風力・バイオマスエネルギーなどのオルタナティブなエネルギー資源の開発
—エコロジー的基準にもとづく農業生産を組織する
—自家用車使用の更なる発展に代わって、公共交通と鉄道の発展
—廃棄物生産の除去および残った廃棄物のリサイクルをめざす根本的な政策:ろ過浄水場などでは不十分である。求められているのは汚染を発生源で除去することを目指す根本的な工業再転換である

これらのオルタナティブはどのようにして実現可能なのか?

われわれは以下のことのために闘わなければならない:

—第三世界諸国における完全な農業改革
—第三世界諸国の債務の全面的帳消し
—進歩的科学者との協力のもとで、労働運動やエコロジー運動によって牽引されたオルタナティブなエネルギー計画の発展
—(有害物質排出の隠ぺいなどの実行を可能にする)産業秘密の廃止。原材料と使われた産品を明記するログブックの保管義務、およびこのログブックへの自由なアクセス
—生産の社会的コントロールを通じた「環境カウンターパワー」の確立
—必需品の充足という原則にもとづいた、そして利益原理や官僚権力にはもとづかない、環境基準に適合した生産
—環境を尊重する、社会主義的で自由な、民主主義的・多元的な、自主管理にもとづく社会

エコロジーと社会問題の結合

環境危機や社会危機が、同一のメカニズムによって、広範囲に渡って引き起こされている。巨大経済圧力団体の利害、さらにもっと排他的な「市場」の独裁、WTO・IMF・世銀・G8により具現化された世界秩序などが結びついて、人間や自然から搾り取れるだけ搾り取っているのである。今日のエコロジー的・社会的危機の中で、普遍的なファクターが作用しているがゆえに、普遍的な救済策が出され得るし、出されなければならない。「経済的自由主義」が阻むものを壊し、人間のニーズや環境に不可欠のものを最前線に押し出すことが大切である。これが、エコロジー闘争と社会闘争に共通性がある理由であり、一致するための共通した領域がある理由である。

公共サービスの防衛

輸送問題は、公的政策が、社会的・環境的義務に適切に反応するために求められる範囲をはっきり示す一例である。ヨーロッパにおいて、市場論理は、鉄道システムが「利益の出る」技術・路線に切り縮められることを求めており、その他全ての解決策として道路・ハイウエイに依存している。社会的ニーズ(経済的公的輸送、全領域をまかなう完全なシステム、見合った給料と労働条件)とエコロジー的条件(有害な物理的破壊を起こすエネルギー集中型の輸送形態を減らす)は、公共サービスの論理で、公的輸送の発展を求めている。他の領域でも同様である。

しかし、この批判が、現代社会で公共サービスはどのように組織されるべきかについての議論を打ち切るものではない。実際、国家独占企業は、非民主的な目標にもとづいて自らの政策を発展させる傾向がある。(エネルギー分野では、アフリカにおける石油生産者と帝国主義的介入との結びつき、核の民生利用と軍事的利用の結びつきを挙げることができる。)国家独占企業は、民間独占企業を模倣した利益・効率基準を適用しながら、厳密に資本主義的経営方法と生産モデルを用いている。

汚染との闘争

われわれは、この問題を一層悪化させるうえでの、多くの揺るぎない経済的利害が演じる役割だけでなく、汚染のもたらす人的コスト(健康へのダメージ、物価高など)や自然のコスト(生物多様性への攻撃)にも、ますます気付くようになっている。これらの中には以下のことが含まれる。車が支配的な地位を占めていること、それにより生じる都市の中心部での大気汚染と増加する健康問題;アグリビジネスが力を持っていること、水システムがひどく汚染され、地下水もほとんど取り返しのつかないほどに汚染されていること;フランスやその他の国々において、核ロビーが影響力を持っていること、非常に長期にわたって放射性廃棄物が蓄積されること。「北」において、飲料水コストが社会的に受け入れがたいほど上昇していることについて、巨大私企業の利害が演じる役割?「南」では、多くの人々にとって飲料水へのアクセスができないこと。「北」と「南」の各々において、エコロジー的・社会的闘争は、支配的な経済勢力によって打ち出される論理に対して、オルタナティブな論理を拮抗させることを求めている。

汚染・公衆衛生問題の重大さが、大衆的自覚を高める結果となった。いわゆるエコロジー問題を、あまり重要でない問題、社会問題に無関係なもの、エリートの関心事、プチブルの贅沢として表現するのは、ますます難しくなってきた。ヨーロッパでの「狂牛病」危機は、おそらく原子力の分野でのチェルノブイリと同じく、事態を完全に一変させてしまった。それは、アグリビジネス化した生産様式により起きた深刻な脅威に光を当てた。

「北」の諸国がこの地球に押しつけようとしている汚染する権利のための市場のような、人を惑わせる戦略と闘うことも必要である。汚染は、最も高く入札する者に売られるのではなく、根絶させられるべきである。

雇用を守るために

環境保護政策は、多くの分野で新しい仕事を生み出すだろう。支配的な経済理論、つまり、自然環境をおおいに搾取する理論は、失業を引き起こすのも当たり前である。アグリビジネスが良いケースである。それは農村部を空っぽにする。すなわち、自然はさまざまな景色や生物多様性を徹底的に削りとられ、人間には徹底的な失職と人口流出が引き起こされるのである。自動車産業でも、同じことがいえる。つまり、労働力を大きく減らす一方で、生産能力を増やす。自動車産業が発することばは、輸送、町や地域のプランニング、都市の発達モデルという観点では、法律となっている。オルタナティブな社会学的・経済学的理論は、自然やわれわれの生活からの略奪が少なく、その一方でもっと多くの職場を創り出すような生産手段を発展させることを可能にするだろう。

土地のための闘争

これは、国際規模で社会運動とエコロジー運動を近づける、もっとも本質的なベクトルの一つである。社会的見地からもっともラディカルな農民運動が、一番進んだ環境意識をも持っていることは偶然ではない。ラディカルな農民運動は、有害なアグリビジネス(GMOや環境を汚す肥料・殺虫剤を使う)に対して立ち上がったものである。つまり、土壌や森林を破壊する資本主義農業に反対の立場をとっている。「南」の諸国では、この闘いは、ラディカルな土地改革のための闘い、大地主の土地所有の独占に反対する闘い、そして土地の再分配のための闘いと切り放すことはできない。しかし、オルタナティブな農業のための闘い、すなわち、環境を大切にし、小農の労働、農村部のコミュニティ、あるいは土着のコミュニティに基礎を置いた闘いは、地球レベルでの挑戦である。それは、第三世界と資本主義大都市の両者にとって大事である。土地のための闘争の最重要な勢力の一つは、「ビア・カンペシーナ」である。それは、農業左翼の国際的ネットワークであり、ブラジルのMST、フランスの農民連盟と同じくらい重要な諸運動で構成されている。これらの社会運動は、農業生産に対する別の展望を促進させる。つまり、グローバルな資本主義市場のニーズよりも人々の社会的ニーズを満足させることを目的にし、人々が自らの食料を得る権利を大事にするという展望である。

債務システムの除去

「債務を通じての開発」は、「北」の金融大国から最初の起動力を得た。それは、(とりわけ「南」の)債務国の経済政策を管理体制下に置き、IMFや世銀(北も含んで)のための力を強めた。債務利子の支払い命令、そして強硬な超自由主義路線をとるWTOは、人類社会への恐ろしい影響(社会の安全ネットの破壊や生活のための農業の破壊)と、自然への恐ろしい影響(輸出目的のために自然資源の破壊)をもたらす。このことは、社会的観点・エコロジー的観点の両方から、この支配体制の根本的メカニズムと闘わねばならないことを意味する。

GATTによってもたらされ、WTOにひきつがれた貿易ルールは、「北」の巨大多国籍企業の支配力を補強する。自分たちの産品のために国内市場開放を強制することで、これらの機関は、依存(食料の点でさえ)を高め、社会的平等の土台をゆるがせ、国際貿易の不合理な増加へと導き、エネルギー危機とエコロジー危機を助長するのである。

長期展望と民主主義

エコロジー問題は、長期にわたる影響を考慮に入れるようわれわれに求める。なぜなら、自然のリズムは、市場が必要とする短い時間枠とは全く別の時間枠を持っているからである。多くの社会的ニーズ(教育、健康など)にも、「全能な市場」が目的を達するために必要とするよりもっと長いタイムテーブルが必要である。そしてこのことが、本当の意味で、これらの社会的ニーズが公共サービスであることの主な理由の一つである。環境の影響と人間のニーズはともに、われわれのオルタナティブな政策がこうした非常に長い時間枠を考慮に入れるように要求する。このことは、世代間の連帯の観点で考えることを意味する。社会的ニーズを守るために、エコロジーは計画化の概念に新しい正当性を与えてきた。そもそも長期効果を考慮しない場合、計画化とは何なのか?しかし、エコロジーも、以前の東側ブロック諸国における官僚的経験の徹底的批判の発展に一役買った。

エコロジー的・民主的・社会的な問題と諸勢力との間の欠くことのできない合流は可能か?答えはイエスだ。なぜなら、時代のエコロジー的・社会的な危機は、ともに資本主義から発生してきたものだからである。共通の原因には共通の解決策が必要である。反資本主義とは、「ネガティブな」考え方を揃えたものではない。実のところ、反資本主義は、エコロジーと社会闘争の間に共通した土台を予見することを可能とする。反資本主義はまた、連帯という積極的意識で、共有するオルタナティブを述べるのに役立つ。反資本主義は、原因と解決に関してわれわれに教えてくれる。他方、もし政治的エコロジーが資本主義批判を統合・導入しないとすれば、それは主流に順応し、ラディカルな鋭さをなくし、社会的に反平等主義的で、無力かつ不公正な、エリート主義的で、完全に反民主主義的な解決策へと逆戻りすることになる。

このことは、エコロジーとその社会的影響を単に同一視するのではなく、両者の真の結合を要求する。エコロジスト思想は実際、社会思想が発見してこなかったような重要な領域、つまり人間社会と自然との関係の分析をもたらした。これは、エコロジスト思想の独自の貢献であり、特有の領域である。そこで、われわれに言えることは、エコロジー問題を社会的領域だけに切り縮めてはならないし、地球規模のエコロジーの緊急性の名のもとに社会的対立を無視してもいけないということである。


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