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    かけはし2020年4月6日号

辺野古反対貫く自主自立の県政を


沖縄報告 3月29日

安倍政権言いなりの最高裁判決に屈せず

沖縄 K・S

 
 三月二六日、最高裁第一小法廷(深山卓也裁判長)は、福岡高裁那覇支部の判決(二〇一九・一〇・二三)に続き、沖縄県が「県の埋め立て承認撤回に対する国の違法な関与取り消し」を求めた上告審で、沖縄県の上告を退け政府による違法な政府の関わりを認める判決を出した。判決文は三月二七日付けの沖縄タイムス、琉球新報に掲載されているが、法律を職業とする役人の屁理屈を並べた文章だ。深山はじめ、池上、小池、木澤、山口の五人の裁判官はいいかげん恥を知れ!
 判決主文は「本件上告を棄却する」。沖縄県の金城基地対策統括監、東京事務所の渡久地所長、弁護団の加藤裕弁護士、国会前で辺野古に連帯する行動を続けてきた市民たちが傍聴した。判決のあと、「沖縄を無視するひどい判決。こういう日本の社会が悲しい」「行政の暴走に歯止めをかける役割を捨てている。民主主義の危機」などと声を上げた。また翌二七日には、最高裁前で緊急抗議集会が開かれた。
 安倍政権末期の行政、司法の堕落は底なしだ。首相官邸を頂点とした国家権力の私物化をくい止めるためには、現場の抵抗、地域の行動、国民の主権者としての意思表明を継続することが何より必要だ。

玉城知事が判決を強く批判


玉城デニー知事は最高裁判決に対し同日夕、記者会見を開き、強く批判するメッセージを発表した。

玉城知事の発表
(要旨)

 充実した審理を期待していたのに残念だ。最高裁は国の機関である沖縄防衛局が行政不服審査法による審査請求を行うことを認めた。これにより、県の埋め立て承認取り消しを取り消した国交相の裁決は地方自治法の定める国の関与から除かれ、県と国との法律上の係争の途が閉ざされた。これは地方分権改革による取り組みや成果を否定するものと言わざるを得ない。その意味で、この裁判は沖縄だけの問題でなく全国の地方公共団体に大きな影響を与えるものであり、民主主義の土台となる地方自治の理念に反する。
今回の判決は国による審査請求の適格について判断したもので、埋め立て承認取り消しの適法性や政府の裁決の誤りについて判断したものではない。抗告訴訟で県の正当性を主張し、国交相の裁決の取り消しに全力を尽くしていく。
過去二回の知事選など一連の選挙、県民投票によって明確に示された辺野古反対の県民民意を無視し、埋め立て工事を強行している現状は許されない。
政府は工事を中止し、県との対話に応じるよう強く求める。

県民ぐるみの屈しない闘いを続けよう

 地方自治を破壊し、県民民意を無視する暴挙。国の行政と司法がグルになって沖縄をつぶしにかかっている現状で、県民ぐるみの結束がますます求められている。「辺野古新基地反対は県政の柱」とのスローガンを掲げて、翁長知事の誕生以来、沖縄県は埋め立て承認取り消し、岩礁破砕やサンゴ採捕、フロートなどの諸問題で埋め立て工事を強行する日本政府に対し抵抗を続け、国連スピーチ、訪米、県ワシントン事務所の開設、地位協定の調査などで県内外に訴えてきた。玉城知事も埋め立て承認撤回を引き継ぎ、法廷闘争を続けると共に、全国キャラバンで沖縄の主張を訴えてきた。
辺野古県民投票の会の元山仁士郎さんは最高裁判決の翌日、県庁に玉城知事を訪ね、四六都道府県での全国キャラバンの実施などとともに、県民投票で示された県民の民意に基づき埋め立て承認を再び撤回することを要請した。玉城知事はそれに対し、「再撤回は一つの手段。抗告訴訟を争っている間は再撤回できないが、検討に値する」と述べた。
また、沖縄県議会は三月二七日の本会議で、普天間飛行場の運用停止と辺野古新基地建設の中止などについて「国民的議論を深め、民主主義および憲法に基づき公正に解決することを求める意見書」を賛成多数で可決した。
沖縄の動きに注目し連帯する行動を全国各地で巻き起こそう。

3.26

平和市民連絡会の対県交渉

防衛局・琉球セメントの土砂搬出に非協力を!


三月二六日午後、平和市民連絡会は沖縄県に対し「琉球セメント安和桟橋、本部港(塩川地区)からの土砂海上搬送に関する要請」を行い、五〇人余りが参加した。要請事項は、@琉球セメントから出されている本部塩川港のベルトコンベアー設置に係る港湾施設使用許可申請について、辺野古の土砂海上搬送のための申請については、不許可、あるいは判断保留とすること、A琉球セメント安和旧桟橋の更新許可申請について、旧桟橋の使用期限が切れる三月三一日以降、会社側は撤去を名目にした使用許可申請を提出しているが、ただちに立入調査を行い、使用禁止を命じるよう等、求めるものである。
県側は、照屋土建部統括監、桃原港湾課長、新垣海岸防災課長が出席した。一時間足らずの短かい時間であったが、高里鈴代、宮城恵美子、真喜志好一、松田寛の四人の世話人と専門家の北上田毅さんを中心に県側との意見交換が行われた。
今求められているのは県の自主自立の行政の一層の強化、前進である。県はもっと危機感と責任感を持つべきだ。「行政の公平性」という観念を誤ってとらえてはならない。県民の側に立ち埋め立て工事に協力しない県政を具体的に進めてほしい。

3.23

辺野古・大浦湾

カヌー10艇、抗議船2隻が海上で訴え

 辺野古の浜から出たカヌーがK8護岸に着くと間もなく、土砂を満載した台船「屋部5号」がタグボートに引っ張られてゆっくりと向かってきた。午前八時半、カヌーは直ちにフロートを越え台船に向かって阻止行動に入った。海保のゴムボートが猛スピードでカヌーを追いかけ、海に飛び込んで、カヌーを拘束する。約二〇分後、拘束されたカヌーメンバーは海保のボートに乗せられ、空のカヌーをけん引して辺野古の浜まで送られた。これが第一ラウンド。
直ちに第二ラウンドの闘いを開始する。カヌーメンバーは抗議船に乗り、カヌーをけん引して、今度は、長島から大浦湾をぐるりと回り、K9護岸へ。現場では不屈号が待機している。護岸はすでに空っぽ。防衛局の民間警備船からはマイクで「フロートに近づかないでください」と騒ぎ立てる。土砂を積んだ台船がゆっくりと近づいてくるタイミングに合わせて、カヌーはいっせいにフロートを越え台船に向かった。平和丸からは、「違法工事を中止しなさい。海保の皆さんは海を殺す手伝いを止めて本来の仕事に戻りなさい」などの訴えとともに、「沖縄を返せ」「We shall overcome」の歌声が流れた。
海保のボートとの激しい攻防が繰り広げられた後、拘束されたカヌーは海保のボートに乗せられ、大浦湾の開口部に移動した。その後、長島で弁当を食べた後で第三ラウンド。再びK8護岸のフロートを越えて阻止行動を展開した。

3.25

琉球セメント安和桟橋

ゲート前と海上で、土砂搬入ストップ!の訴え

 本部半島の土砂を辺野古へ運ぶことに反対する現地の行動は毎日うまずたゆまず続けられている。この日も朝から、琉球セメント安和桟橋の入口ゲート、出口ゲート、桟橋の運搬船の周りの海上で、「森を壊して海を殺す土砂を辺野古に運ぶな」「琉球セメントはあくどい金儲けを止めよ」などと訴える行動が貫徹された。
一方、本部塩川港でも、本部町島ぐるみを中心に土砂運搬ダンプに対する抗議行動が続けられた。この塩川港の構内には、土砂運搬用のベルトコンベアーが置きっぱなしになっている。二年もの間放置されているとのことだ。琉球セメントは今年一月、辺野古への土砂搬出に使用するため、ベルトコンベアー設置の港湾施設使用申請を提出した。とんでもない、ずうずうしい連中だ。県民を裏切って政府に協力し金儲けをするのは止めよ。

県内市町村の中国での戦争体験記を読む(11)
日本軍の戦時暴力の赤裸々な描写


中国侵略の日本軍には、県内各地からも多くの青年たちが動員されて命を落とし、また日本軍の残虐行為を目撃し記録した。県内各地の市町村史の戦争体験記録にはそうした証言が数多く掲載されており、日本軍による戦争の姿を赤裸々に描いている。今回は城辺(ぐすくべ)町(現在、宮古島市)の証言を見る。(敬称略)。
今回紹介した川満さんは、二〇歳で徴兵検査を受け、一九三七年八月に現役兵として中国北部地方に派兵された。満期で沖縄に帰還した後、沖縄戦で再び防衛隊として召集されたが、終戦の知らせを聞いて「本当に喜んだ、嬉しかった」と述べている。

『城辺町史』第2巻「戦争体験編」」(1996年発行)
川満金一郎「わが身を嘆いた支那事変」


満二〇歳の六月に徴兵検査を平良町で宮古郡の人が受けたんですよ。みんなフントシ一つ着けてですね。最初は、身体検査で身長、体重、胸囲、目の検査を色々やってですね。普通の医者ではなく軍医がやったと思うね。そこには連隊司令官が座っていますよ。最後は名前を呼ばれていくと、司令官の方から「川満金一郎甲種合格」といいます。あのとき目が潤んでね。甲種合格は私の部落(保良)からは私一人だったですよ。平安名と砂川金一郎は乙種合格でした。仲間寛栄は第一乙種で落ちたんだけれども、自分の兄弟は誰も兵隊になっていないから、必ず兵隊に行かせて下さいと自分で志願して入りました。誉められてね。
そのとき保良から兵隊に行ったのは私を入れて四名ですね。……
入隊して一週間ぐらいは、手とり足とり、服の着け方、靴の履き方を教えて、ご飯もついでくれる。そういうものかなぁと食べたりしていたけども、 一週間たったら、これからが叩くんです。それから神経がピリピリなってですね。沖縄から来た人はのろのろしてね、分かるわけですよ。標準語では話さないわけですからね。都城の言葉でしゃべりますから、言葉が分からなくて非常に叩かれました。……
昭和一二年の八月に動員令が下って、自分が持っていた服装も洗濯して、鉄砲まで全部返すわけです。そして、新しいものを貰って、これからが出発したわけですね。……
最初に行ったのは朝鮮の釜山です。……あれから行ったのが満州を通って、北京のずーっと手前の方にホウダイという小さな駅があったですよ。ここに着いたんです。降りてセングンダイという所に行ったんです。ホウダイから、敵地になるわけですから、乗り物もないわけです。歩いていると支那の兵隊が死んでるわけですよ。道に転がっているのを見たのは初めてですから驚いてね。二体、三体だったと思うんですけども、もう怖さを感じてたわけですね。
戦争というのを初めて体験してですね。……
支那兵は見えないです。支那兵は日本兵が来るとは分かっていたらしいですからね。ちゃんと山の方に壕を掘って鉄砲を構えて待っていますよ。そういう所に行くわけですからね。おまけに道もわからないわけですから。山の向こうから弾を撃っているので撃たれるわけですね。セングンダイの所に行くまでには私達の兵隊は半分になったわけですよ。僕達は九中隊の三班でしたから、三〇名余りの班だったと思っているんですけども、そのうちに私の班は二人残って九中隊全部で百五〇名ぐらいでしょうね。
そこで一番涙流したんですね。私の小隊が一番先頭になって行ったわけですから、ピストルを持って行ったんですけども、向こうも穴の中から撃つわけですよ。その時ちょうど目の前で少尉が死んだわけですよ。夜になって、今度は死体を全部運ばんといかんですよ。生きているというのもそうおりませんからね。木の茂みだから坂道を降りた所で皆撃たれるわけですから、並んで行くんですよ。戦争は皆わからん方だから、撃たれて皆死ぬわけですよ。どうしたわけか私達四名か五名が残ったですね。不思議に運がよかったと思いますよ。四十、五十名の人がその前に死んでいますから、死体を全部運ばんといかんですよ。生きている人は。大変ですよ。‥‥…鉄砲持って泣きましたよ。……初めて僕が思ったのは、自分に子供が生まれたら、必ず指を切ってやると、涙を流したね。……
昭和十五年の十二月まで支那におって、十六年一月に都城で満期して宮古に帰ってきた。……
そして、昭和一八年の一一月から中飛行場に防衛隊として召集されました。仕事は爆弾の穴埋めですよ。友利の砂川昌隆さんが同じ軍曹でしたが、城辺隊の隊長で、私は小隊長というわけ。平良町は平良隊に、城辺村は城辺隊に、下地村は下地隊というふうに三つに分けられていた。服装は全部自分の服装ですよ。……
空襲はくるでしよう。艦砲射撃はあるでしよう。戦争に勝つとは思ってもいなかった。敵が宮古に上陸せんうちに負けだと思っていた。野原越の山に司令部壕を掘っていたら終戦の知らせがあった。あのときは本当に喜んだね。安心したしね。負けて泣くどころか、かえって嬉しかった。戦争に負けて泣く人の気持ちが分からんよ。自分が戦争やってみたら、「天皇陛下万歳!」といった人は聞いたことがないね。そんなに言うまでは、もうすぐ死んどるのに。負傷した人でもそんなことを聞いたことはないよ。あれは一つの美化だよ。

【訂正】かけはし3月23日号5面、尾形淳さんの投稿記事の上から4段目中見出し「石垣島での訪問地」冒頭部「中山宮古島市長」を「中山石垣市長」に訂正します。



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