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    かけはし2020年4月13日号

感染症医療体制の即刻確保を!


沖縄報告 4月5日

おざなり設計変更は認められない

沖縄 K・S

政府防衛局が4月中に県に変更申請予定

設計変更ではなく辺野古埋め立て計画取り下げを!

「技術検討会」の資料のミスは致命的

 四月一日、防衛省は辺野古埋め立てに関する「技術検討会」を開催した。このいわゆる有識者会議は昨年九月に第一回会合が開かれ、今回が六回目となる。政府防衛局の言い分にお墨付きを与える御用学者の集まりだ。
 ところが、防衛省はこれまで開いてきた「技術検討会」の資料に二〇カ所のミスがあったことを明らかにした。ミスの内容とは、土木技師の北上田さんによれば、「誤ったサンドドレーンの径の値を用いて圧密時間を計算していた」「ケーソンの開口部は浮力が生じないのに、浮力があるとして計算していた」「誤った円弧すべりの計算結果を掲載していた」「波の反射角が誤っていた」「SCP工法で地盤の盛り上がりを考慮せずに照査用震度を計算していた」「波高について誤った値を入力していた」「誤ったせん断強さを入力していた」「軽量盛土で誤った単位体積重量で計算していた」等々であるという。
 すべて護岸と埋め立てに関する重要事項である。これまで技術検討会の学者たちは見過ごしていた。いかにいい加減な集まりだったのか。しかし、防衛省と御用学者は「これまでの議論に影響はない」と、四月中の設計変更申請に向かっている。

農水省の指示に対し県は係争委申し出

 防衛省は昨年二回にわたって合計三九五九〇群体のサンゴ類の移植を申請したが、沖縄県は許可を与えず、今まで審査を継続して来た。それに対し、同じ安倍内閣の農林水産省が沖縄県に対し「早く許可を与えるように」と指示する文書を送っていた。防衛省の要請で国交省が行政不服審査法を悪用し国が私人に成りすまして沖縄県の埋め立て承認撤回の無効化を図ったのに続き、今度は農水省が県行政に不当な介入をはかってきたのである。
沖縄県は三月三〇日、「農水省の指示は地方自治に対する不当な関与であり違法だ」として、総務省の第三者機関「国地方係争処理委員会」に、農水省の指示の取り消しを求めて審査を申し出た。係争委は六月末までに審査を行うことになる。係争委には、沖縄の県民ぐるみの意思に基づく県行政の重みを受け止めてもらいたい。

物理的政治的に破綻している埋め立て計画

 新型コロナで日本中がパニックになっても、辺野古の埋め立て工事現場では、いっそう土砂投入の速度が上がっている。しかし、辺野古新基地建設のための埋め立て計画は物理的にも政治的にもすでに破綻している。これまで国内のみならず世界でも施行例のない海面下九〇mにおよぶ軟弱地盤を含む広範囲の改良工事、活断層の可能性の高い辺野古断層、予定されるV字型滑走路周辺の高さ制限など、立地が不適だ。
さらに防衛省の試算によっても、設計変更の許可を得てから完成まで一二年、九三〇〇億円という途方もない期間と予算を投入する米軍基地建設計画は、普天間飛行場の危険性の一日も早い除去には全く役に立たないだけでなく、今回の新型コロナウィルスの世界的な感染の広がりを通じて明らかになったように、各国の緊密な協力の必要性・国際協調という点からも逆行するものである。軍拡を進め軍事対立を深める時ではない。
戦後七五年間、広大な米軍基地の存在と事件事故、米軍犯罪、騒音、環境汚染にさんざん苦しめられてきた沖縄にもう新しい軍事基地はいらない。辺野古に基地をつくってはならない。県知事が反対している。県議会も反対している。法律にのっとって実施された県民投票も反対している。沖縄中がこぞって反対している辺野古新基地建設・辺野古埋め立てを日本政府・安倍政権はどうして強行するのか。
理不尽な国家権力の横暴を全国民の力で止めてほしい。沖縄を踏みつけて恥じない安倍政権を一日も早く倒してほしい。
奇しくも先週土曜日は四月四日。一八七九年のこの日、明治政府の松田道之は警官一六〇人、官僚四〇人、軍隊四〇〇人を伴って沖縄に上陸し、沖縄県の設置を全国に告示し、首里城の尚泰王を東京へ連行した。この不法な琉球併合は忘れられてならない歴史の事実であり、将来かならず正されなければならない。

3.30

辺野古・大浦湾

カヌー11艇、抗議船2隻が海上行動


三月三〇日月曜日。違法工事を少しでも遅らせるために、海上チームは全力を尽くした。
午前八時前、辺野古の浜から漕ぎ出したカヌーチームはまず、長島の手前K8護岸へ向かった。K8ではすでに土砂を積んだ台船が接岸しつつあった。そこで大浦湾側のK9護岸へ移動した。カヌーメンバー一一人が平和丸に乗船し、無人のカヌーをけん引して約三〇分、辺野古弾薬庫崖下のK9に至った。K9では丁度台船から土砂をダンプに積み降ろしている最中。カヌーはフロートのあちこちに陣取り、突入のタイミングに備えた。
フロートの中の海上工事現場では、海保のボートが九艇、警備船数隻、土砂運搬船と台船がそれぞれ五〜六隻、展開している。土砂運搬船(ガット船)から護岸に接岸するランプウェイ台船に土砂を積み替える作業も行われている。これだけ大規模に工事を続けてもあと一〇年近く埋め立てにかかるというからとてつもない大工事だ。最近ドローンで撮影した写真では、辺野古の埋め立て区域Aはまだ海面の方が広い。A―1はほとんど海面が見えなくなったが、海面高一〇mの計画からはまだまだ先だ。
K9の台船が離岸するタイミングでカヌーチーム全員はフロートを越えて台船へ突進した。海保のボートが追いかけ海に飛び込みカヌーを捕まえるまで十数分。その間、平和丸からは「違法工事を中止せよ」「海保はカヌーに対する弾圧を止めよ」との訴えと歌がマイクを通して響きわたった。
毎日同じことを繰り返す。少し長めに止めることができることもあれば短時間で拘束されることもある。毎日少しずつ遅らせ、不屈の意思をアピールしていく。拘束されたカヌーチームは大浦湾のフロート開口部で解放されるや、直ちにK8へ移動。待機しつつ突入のタイミングを待った。
カヌーは人力。対する海保のボートは二台のエンジンを持つ高速艇。これが猛スピードでカヌーに襲いかかってくるのだからたまったものではない。この日、カヌー一艇がぶつけられた。海保は自分たちの本来の仕事をわきまえ、危険運転を止めるべきだ。

〈カヌーチームTさんの報告〉

至近距離肉迫のカヌーも
海上保安庁?も呆然

 4月2日(木)大浦湾

カヌーは4艇、海上保安庁のGBは6艇

朝、抗議船に乗り込み長島を通って大浦湾K9護岸に急行した。K9護岸に着くと、ランプウェイ台船は入れ替わりが進み赤土満載の船がK9護岸に約一〇〇mと迫っていた。即、抗議船からカヌーに乗り移り、フロートを越えるがすぐに全員が拘束される。
そのあと、長島よりの開口部に送り返された。K8護岸は空のランプ台船がいるだけで次の赤土を積んだ台船がないので午前九時半ごろから開店休業状態。
二度目は昼近くK9で、台船の入れ替えのタイミングでフロートを越えた。なんと、離岸する台船を引くタグボートとの間に到達したメンバーがいた。これにはタグボート、ランプウェイ台船の作業員も驚き、さらに海上保安庁GBも追うのをやめ、見ているだけだった。至近距離まで迫ったことで、ランプウェイ台船の作業員との距離およそ三m、会話も成立した。

県内市町村の中国での戦争体験記を読む(12)

日本軍の戦時暴力の赤裸々な描写


中国侵略の日本軍には、県内各地からも多くの青年たちが動員されて命を落とし、また日本軍の残虐行為を目撃し記録した。県内各地の市町村史の戦争体験記録にはそうした証言が数多く掲載されており、日本軍による戦争の姿を赤裸々に描いている。今回は佐敷町(現在は南城市)の仲村さんの証言を見る。
仲村さんは京都で四年間工員として働いた後徴兵され、真珠湾・マレー攻撃の一九四一年飛行場勤務で入隊、一九四二年釜山経由で、上海、武漢を経て中部地域の飛行場へ派兵された。歩兵、野砲、輜重などの部隊ではないため、戦場に関する証言は多くはないが、軍隊生活に関しては詳しい。また、日本の敗戦間近の様子や捕虜となり帰還に至る経過に関してリアルだ。

『佐敷町史』4「戦争」(1999年発行)

仲村武一「中支に従軍をして」
理不尽な軍隊生活生々しく


私は昭和一〇年 (一九三五)、佐敷尋常高等小学校を卒業した。その後は家で農業に従事していたが、 昭和一二年頃家族とともに京都市下京区東之町に移住したので、 そこですぐ、寺内製作所という軍需工場に勤務することになった。
作業内容は、 飛行機部品のボルトやナット製作が主であった。工場では残業が多く、請負制のため、月給が一〇〇円を余ることもあった。当時、沖縄の日雇い労働の賃金は一日五〇銭ほどしかなかったが、私は京都でその何倍もの高給取りであった。それはいかに軍需産業が優先していたかを物語る証拠であろう。
そのかわり、朝八時から夜は九時まで、連日の残業で機械油の取扱いで私の手の甲には油が黒くしみついていた。
工員生活が四年経過して、昭和一六年 (一九四一)には京都で徴兵検査を受け、第二乙種に合格し、飛行兵として飛行場勤務と定められていた。翌年五月帰郷して、出征待機となった。やがて、七月一六日熊本第91飛行場大隊に入隊と決まった。
入隊後約四か月間の基礎訓練では、対空監視として、敵機の進入路をいち早く発見し高度、速さ、編隊、機種などを速やかに報告する。同時に、日本陸軍特有の剣術訓練が多かった。
初年兵当時は、悪名高き精神訓練が続いた。「恐れ多くも、陛下から賜りし銃の手入れが不届き」「靴磨きが不十分」「貴様たちは一銭五厘の消耗品」など、何かと難くせをつけては毎晩、「奧歯をかみしめ」 の号令のもとにこぶしでなぐられ、奧歯あたりから出血して、汁をすするにも痛い思いをした。
初年兵にとって、鬼より怖い古参上等兵のしごきは異常なものだった。例えば窓辺で腕立て伏せの姿勢をとらされ、長い軍人勅諭の暗唱を強要したり、それから、正月その他の祭日にはご馳走があったが、翌日は「気抜けしている」「気がたるんでいる」といって、びんたを張るのである。毎日入る風呂につかるのも、たった五分間という、軍律厳しい生活を繰り返していった。
隊内では、とりわけ沖縄出身兵の中に標準語が流暢に話せないのがいて、上官から「沖縄の野郎ども」とけなされ、とつ弁であるための差別はひどいものがあった。「ひとつ、軍人は忠節を尽すを本分とすべし」ということも通用しなかったのである。また月一回、家族の面会日には、本土出身兵は家族の面会も多いが、沖縄出身兵は面会者もほとんどなく、その時間は洗濯をするという惨めで寂しい思いをさせられた。……
さて初年兵訓練を終え、昭和一七年(一九四二)一一月頃、博多から朝鮮半島の釜山に向けて真夜中出航し、大陸に渡った。釜山で汽車に乗ったが、貨車に六〇人単位で家畜同様に押し込まれ、上海まで一週間かけての旅を強行された。さらに、上海から武漢を経て駐屯地の拍羅岐飛行場までは、揚子江を船で移動した。駐屯してからは主に弾薬庫の警備にあたった。
一年が過ぎ、 私は上等兵候補の試験に合格して、百六〇人中序列一六番目の成績で三つ星の上等兵になった。ここでは米車のB29空襲がたびたびあった。きまって昼食時、夕食時に落下傘爆弾の投下が繰り返された。そのため、県出身兵にも四、五人の犠牲があった。だんだん昼夜の別なく爆撃が激しくなり、滑走路に大きな穴ができると、昼夜を問わず人力による穴埋め作業を繰り返していた。
三年目に私は、階級も兵長に昇進し、桂林飛行場に移動となった。そこでも飛行場警備に当たっていたが、糧秣確保のための行軍の場合、よく中国兵と遭遇して、白兵戦をしたのである。この頃から中国兵も勇敢に攻撃するようになっていた。それは日本の敗色が目立ってきたからであったと思う。
昭和二〇(一九四五)年になって私は伍長に昇進して分隊長職となったが、上層部は敗北を予見していたのか、部隊ごと満州方面に向けてトラックで転進することになった。途中で終戦詔書の放送を聞いたので、それからまた南下して武漢で捕虜となり武装解除された。揚子江を船で下り上海に向かった。上海では中国の子どもたちに石を投げられ、敗残兵の恥さらし、惨めさを味わった。
やがて、上海から船で博多に帰った。昭和二一(一九四六)年七月であった。満四年の務めを果たし、無事生きて母国の土を踏むことができた感慨を強くし、すぐ汽車で京都の親元に帰って、平和な暮らしにはいった。



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