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    かけはし2020年4月13日号

市民平和運動に貫かれた戦争体験


パンフ紹介

『僕がデモ屋になったわけ』

         ―福富節男文集

発行:ピープルズ・プラン研究所 頒価800円

時代を映した
率直な発言が

 ベトナムに平和を!市民連合、市民の意見30の会など、一九六〇年代以後の日本の反戦市民運動で、吉川勇一さんらとともに時代を切り拓くような役割を果してきた福富節男さんが二〇一七年一二月一八日に九六歳の高齢で亡くなってから二年以上になった。
 私は福富節男さんへの追悼と感謝の言葉を本紙二〇一八年一月一五日号に書いたが、昨年一〇月に、べ平連、日市連など市民運動のメディアに福富さんが書いた時々の文章、評論などを再録した形で、一冊の冊子がピープルズ・プラン研究所のパンフレットとして刊行された。題して『僕がデモ屋になったわけ ――福富節男文集』。
 福富さんの単行本となっている著作は、一九九一年に第三書館から刊行された彼の自伝とも言える『デモと自由と好奇心と』だけだ(同著については本紙二〇一八年一月一五日付の私が書いた福富さんへの追悼文の中で触れている)。だから福富さんのべ平連、「市民の意見30の会」時代のその時々の率直な意見を改めて読む機会が与えられたことは私にとっても嬉しいことだった。もっともA4版・一三七ページで、「べ平連ニュース」、「市民の意見30の会・東京ニュース」、あるいは反天皇制運動の機関誌に書かれた文章を、それらのニュース媒体の版型をそのままコピーした形でパンフレットにしているので、持ち運びには不便だし、縦横ひっくり返して読み返したりしなければならないため、読むのにも不便でイライラすることもあるが、そこは福富さんとの「お付き合い」だと思ってガマンするしかない。
 福富さんのその時々の生の意見、つぶやき、怒りと悲しみといらだちなどが率直に表現されていることを考えれば、ページに目をくっつけたり、横を縦に持ち替えたりすることを強制する編集・制作の仕方も、「まあ、それもありか」と納得してしまう。それも福富さんの「人徳」というべきだろう。
 いま改めてこの「僕がデモ屋になったわけ」を読み終えて、べ平連や「市民の意見30の会」といった「市民運動らしい市民運動」の中で、その中心にいた福富さんの人柄がくっきりと浮かび上がってくるような、時代を映し出す発言が本にまとめあげられる機会がなぜなかったのか、と、その方が不思議な気がするのだ。福富さんが、かりにそれを望んではいなかったとしても、やはり時代を映し出す彼の発言、問題提起、感想をきっちりと次の時代に継承し、残していくことは、「残された」私たちの世代の義務なのだろうと思う。

再構成される
過去の「体験」


 天野恵一さんなどによってまとめられたこの福富さんの文集を構成しているのは、まず第一に「いくつかの時代の印象」と名付けられた彼の自伝的パンフだ。「はじめに」の項で「一九一九(大正八)年生まれの私は、昔ふうの『数え年』で八十八歳になる」と書いているから二〇〇六年に出されたものだろう。
 福富さんは、「自分の体験の記憶というものは、時とともに曖昧になるだけではなく、現在の意識下で絶えず再構成される物であるように思う」と書いているが、この自伝的文章は、祖父の福富宗平・ゆう夫妻が郷里の富山県から一八八八年に札幌に移り住んだところから始まっている。福富さんの父親清重は、日露戦争で日本の「新領土」となった南樺太に移住した。
 福富さんが生れたのは一九一九年だから、薬種商などを営んでいた父が樺太移住してから一四年たっていた。福富さんにとって生れ故郷である樺太は、何かにつけて忘れがたい土地だったことは、このパンフの中からも読み取れる。なお、「逝った人びと」と題する、亡くなった人びとへの福富さんによる追悼文の中には、私たちにとって第四インターの先輩であり、全国反戦青年委員会世話人だった故今野求さんを送る文章も含まれている。題して「同郷の友 今野求追悼」。そう、今野さんも「樺太」出身だったっけ。

「パレードで
はなくデモ」


 この「福富パンフ」の二つ目の項目は、天野恵一さんらが編集していた「季刊運動〈経験〉」に掲載されたインタビューである。「デモンストレーションと民主主義」(2005年8月)」、「ベトナム戦争と『脱走兵援助』の時代」(2008年2月)、そして「市民の意見30の会・東京ニュース」37号(1996年7月)に掲載された「運動は論理から生まれるより、直感的なものから生まれてくるんだと思ってます」と題したインタビューであり、彼の生の声だ。
 福富さんは、文章も無駄のない率直な切り込みが魅力だったが、多面的に問題に迫ろうとするアプローチによって広がり豊かな展開を感じるのは、インタビューに答えたり、ナマの対話を広げていくやり方においてだった。「運動しながら考え、考えながら運動し、他者ならびに自己との対話を発展させていく」という作風が大きな魅力になっている。
 先にふれた「市民の意見30の会・東京ニュース」(1996年7月)に掲載した二〇代の学生・国永法子さんとの対話の中で、福富さんは「こちらがデモという非日常に一足出ながら、日常と、つまりは見ている人たちとどういうコミュニケーションを持つのかっていうのが、僕の持論なんです。不特定多数とのコミュニケーションをどうやって作りだすのかっていうこと」と語っている。したがって彼はデモを『パレード』と言いかえることにはあくまで反対だった。
 「パレードって元来観兵式、権力者が軍隊を見るやつね。デモンストレーションっていうのは、化学の実験を学生に見せるという元の意味があるでしょ。こちらの意図を示すんです。警察は示威行進っていうけど、示意なんです。だから僕の持論はパレードではなくデモ」。
 このあたりはイラク戦争反対運動の中でWORLD PEACE NOWの「ピースパレード」に対して、福富さんがしきりに文句を言っていたことを改めて思い出す。
 福富さんは語る。「運動は論理から生まれるより、直感的なものから生まれてくるんだと思ってます。数学もそういうところがあってね。帰納とか直感から生まれる。演繹とか論理とかは、その後で皆に分かるようにするためにあるんだとね」。
 ここは、数学が苦手で嫌いな私などにはどうしても同調できないところだったのだが。
 あと、「ベトナム革命派」としてのわれわれは、一九七五年の南ベトナム解放民族戦線と北ベトナム軍によるサイゴンの「軍事的解放」(実態は圧倒的に北ベトナム軍の主導)を「ベトナム革命の完全勝利」として全面的に歓呼の声で迎えた。私はそれが間違いだったとは思わない。
 同時にこの一九七五年の南ベトナム軍事独裁政権とアメリカ帝国主義の敗北を、「憲法九条原理主義」的な市民運動としての「ベトナム反戦運動」がどのようにとらえようとしてきたのか、という問題は、われわれ自身にとってもあらためて再整理すべき課題ではないかと考える。それは決して勝利した「北」の政権を絶対的な「正義」の体現者として賛美するのではなく、「革命政権」が否応なく抱え込まざるをえない矛盾を直視し、共有し、批判する課題が、「連帯」には必然的に含まれる、ということだ。
 もちろん、われわれは北ベトナムの指導部が直面せざるをえない重圧と危機について軽視したわけではないが、彼ら自身の問題に立ち入ってその困難さを理解しようとすることはできなかった。
 運動における「軍事的要素」の研究は、「軍事主義」を避けるためにも必要だ。言うまでもないことだが、今日においても、重点は異なれど労働者・民衆の解放運動、革命運動において、そうしたテーマはもはや過去のものとなった、とは言えないのである。

今、何を学び
取るべきか?


 「福富パンフ」の三つ目の構成要素は、「脱走兵通信」、「べ平連ニュース」、「市民の意見30の会」ニュースなどに一九七〇年から二〇一一年にかけて掲載された書評、エッセイなどからなっている。
 福富さんは、自ら体験したフィリピンでの戦争に始まって、戦後の憲法経験や六〇年、七〇年の反安保運動、そして大学教師としての闘い、そしてベトナム反戦運動とべ平連としての活動、天皇制の無責任に対する厳しい批判など、自らの経験にしっかりと根ざした自由な言論を広く、鋭く掘り下げてきた。
 どうでもいいエピソードを一つ。一九七〇年代、私が日本共産青年同盟で高校生運動を担当していた時、高校生の活動家が市民集会で発言する福富さんを「浅田飴のおじさん」と言っていたことを想い出した。「浅田飴」のテレビコマーシャルに出てくる永六輔のしゃべり方と福富さんの声や口調が似ている、という理由からだった。
 福富さんは、日本の市民運動、私たち全体の運動について、その弱点への厳しい批判的視点を持っていたことは確かである。このパンフレットから学ぶべきことはたくさんある。そのどこに焦点を当て、もう一度私たちの中で組み立てなおしていくべきか。それはおそらく私たち一人ひとりに課せられた課題である。(国富建治)

コラム

コロナと訪問リハビリ


 以前にもこの欄で書いたことがあるが私は寒暖差アレルギーの持ち主である。危険ラインは一日の寒暖差が五度を越えた時だ。特に暖房の入った場所で体が暖まるような運動をすれば全身が痒くなる。その時は体を冷やさなければならない。抗アレルギーの薬もあるが私にはあまり効果はない。
 長引く腰痛の結果、筋肉量が低下し昨年「要支援一」の認定を受けることになった。以来リハビリに特化したデイサービスに週一度通っている。もちろん送迎付きでマシン等を使った二時間ほどのリハビリである。定員は約四〇人ほどだ。このデイサービスも一一月になれば私は参加できなくなる。暖房が入るからだ。翌年の三月末まで休む旨を伝えたが、デイサービスの責任者はその理由を二度聞き返してきた。恐らく始めて聞く話であったのだろう。四月になり暖かくなれば復帰することができる。
 ケアマネージャーにもそのことを伝えた。ケアマネは「訪問リハビリ」という方法があるがどうするかという提案をしてきた。つまり作業療法士や理学療法士等が私の自宅にまで来てリハビリをするというのだ。私はこの分野については何の知識もない。
 狭い私の自宅でどんなリハビリをするのか私にはまったくイメージできなかった。それでも何もしないよりは良いだろうと思い提案を受けることにした。費用はデイサービスと大差はなかった。
 訪問リハビリは私の身体的弱点や病いの現状と私の希望についてのケアマネのレポートに基づいて当面のリハビリのプランが検討されるという。他方デイサービスの会場はバスケットコートのある体育館の半分くらいの広さがありトータルすればそれなりの距離を歩くことになる。マシンを使った運動もできる。個人レッスンのリハビリと多人数で流れ作業的なリハビリはそれぞれ利点があり一長一短だ。
 桜の花の頃にはデイサービスに復帰するつもりだった。だが突如として新コロナウィルスが上陸してきた。クルーズ船ダイヤモンドプリンセスのニュースを通じて私は自分が重症化するタイプに属していることを知った。私は難治性の「非結核性抗酸菌症」という肺疾患を抱えているからだ。
 さてどうするか。デイサービスに復帰するか、訪問リハビリを続けるか判断しなければならない。悩ましいところだ。だが降って湧いたように私の居住地の近くで他社ではあるがデイサービスと病院にクラスター(集団感染)が発生した。もはや他人事ではない。デイサービスには当面復帰しないこと、訪問リハビリには継続したい旨を伝えた。
 無症状でも感染者であれば感染能力がある。何処に存在するかわからない、ワクチンも治療薬もない未知の見えざる敵は恐怖なのだ。
 三月一一日WHOはパンデミクスを宣言した。新しい感染症が風土病に止まるかパンデミクスになるかは今日のグローバル化した世界では紙一重である。だがそこには政治、経済、社会のあり方が密接に関係していると言わざるをえない。EUは再び国民国家の障壁を高くしつつある。トランプによってつくり出された自国第一主義は意図的に外部に敵を作ることによって排外主義と強権化を深めている。安倍自公政府またしかりだ。もうひとつの新しい社会をつくり出すために一連の経過を教訓化することは重要だろう。     (灘)


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