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    かけはし2020年4月20日号

日々進む「政治の堕落」に終止符を


沖縄報告 4月12日

破綻した埋め立て工事を直ちに中止せよ!

沖縄 K・S

国民の血税ドブに捨てる愚挙鮮明に

―沖縄防衛局 埋め立て関連工事契約打ち切り
(調査費のみ合計300億円執行)


 大浦湾の埋め立て関連工事六件について、沖縄防衛局は三月末までに契約を打ち切っていたことが明らかになった。工事は二〇一四年一一月から翌年三月にかけて着工されたもので、工事名はケーソン新設工事(1工区、2工区)、二重仕切り護岸新設工事、中仕切護岸新設工事、中仕切岸壁新設工事、傾斜堤護岸新設工事である。このうち実際に工事が進んだのは、K9護岸と呼ばれる傾斜堤護岸のみで、これも三一六mの計画のところ、一〇〇mしかできず、土砂搬入のための埠頭として目的外使用されている。その他は何もできていない。やったのは調査だが、合計三〇〇億円を越える予算が支出された。
 いかにいい加減な埋め立て計画か。大浦湾の軟弱地盤に手を付けてはならない。設計変更申請を行うな! 安倍内閣はこういう所に政権のメンツをかけるべきではない。米軍基地のために国民の血税をこれ以上無駄に投入せず、一刻も早く撤退すべきだ。

4.6

辺野古・大浦湾

カヌー7艇、抗議船3隻が埋立工事に抗議
 
 朝のミーティング後、直ちに海上に出たカヌーと抗議船平和丸、不屈号、ぶるーの船は長島の間を通り抜けて、大浦湾に入った。丁度、土砂運搬船が二隻、近づいてくるところだった。開口部のフロートを開け、数艇の海保のゴムボートが警備している。
 カヌーチームと平和丸は土砂運搬船の航路近くまで近づいて海保と対峙し、「辺野古の海に土砂を入れるな」「海保は海を守る本来の仕事に戻れ」と訴えた。海保が「航路内に立ち入らないでください。平和丸の船長に警告します」などとスピーカーで繰り返す中、海上チームは毅然とした抗議行動を行った。
 その後、K8護岸で、次の赤土を積んだ台船が入ってくるタイミングでカヌーチームはフロートを越えた。海保の高速ボートに阻まれ、台船まで到達できない。辺野古の浜で解放されたカヌーチームは休む間もなく、平和丸に乗船、カヌーをけん引してK9護岸へ向かった。K9護岸に着くと、まさに赤土満載のランプウェイ台船がK9護岸に迫りつつあった。直ちに、抗議船からカヌーに乗り移り、フロートを越えるがすぐに全員が拘束された。
 今度の解放場所は開口部。K8護岸に向かった。赤土を積んだ台船が入ってくるタイミングでフロートを越える。この日、カヌーチームは昼休みをとる余裕もなく、K8、K9、K8と三度、フロートを越える行動をやりぬいた。
 海上行動チームは屈しない。ゲート前も屈しない。沖縄県民は屈しない。県知事も県議会も県民投票で示された県民の意思もすべて県民ぐるみで反対する辺野古新基地建設の埋め立て工事をどうして日本は止めないのか。翁長知事は「政治の堕落」と糾弾した。沖縄の主権者は県民だ。安倍政権の横暴にストップを!

4.8

琉球セメント安和桟橋

辺野古の海に土砂を運ぶな!

 辺野古の海へ土砂を積みだす琉球セメント安和桟橋と本部塩川港での抗議行動は連日続いている。本部町島ぐるみ会議の調査によると、先月の安和および塩川港からのダンプの数は合計二一六六八台。一年前に比べて約三倍に増えている。破綻しているのに無謀な工事が止まらない。もっともっと大きな声をあげなければならない。
この日、本部塩川港とともに、安和桟橋入口および出口ゲート前でも午前八時前から午後遅くまで粘り強い抗議行動が行われた。新型コロナの感染拡大を受けてゲート前の参加者も減少の傾向がある。この日、午前は出入口合わせて二、三〇人、午後は入口ゲートに四人のみであったが、参加者は最後まで元気に「新基地いらない」「埋立止めろ」「土砂を入れるな」と訴えた。

〈カヌーチームTさんの報告〉


4月9日(木)辺野古/大浦湾

 カヌーは五艇、朝、K8護岸に向かう。ガット船が五隻水平線に見えるが、向い風が強く波も高いため、間に合わない。抗議船に乗りK9護岸に向かう。台船上にはまだ赤土が一時間分ぐらい残っている。雨が降り始めたので、K8護岸に戻る。
するとまもなく空のランプ台船が離岸、次の赤土を積んだ台船が入ってくるタイミングでフロートを越える。残念ながら台船まで到達できない。拘束され海保のGBに乗ったころから雨足が強くなり松田ぬ浜まで約四分、かなり寒い。しかし、GBはスピードを上げずゆっくり走っている。この辺が現在の公務員の限界なのかもしれない。国民のことを第一に考えるのではなく命令を忠実に守り、自分を守る。GBから降りるとき「お怪我はありませんか」と聞いてくる。これもマニュアル通りだ。それどころではない。寒くて返事をする気もしない。
昨日、沖縄防衛局への要請行動を行った。
新型コロナウィルスで国民が苦しんでいる。政府は緊急事態宣言を出した。このような時、日本最大の公共事業と思われる辺野古新基地建設は一秒たりとも中断しない。直ちに辺野古新基地建設を中止しそれのお金(税金)を“溺れている人、溺れかかっている人”に回すべきだと強く思う。

4.5

沖縄戦を知るピースウォーキング


四月五日、「沖縄戦を知るピースウォ―キング」が行われた。スタート地点の糸満市真壁公園には五〇人以上が集まり、約四時間かけて現場をめぐった。当時一五歳の大城藤六さんが同行し体験を語った。
公園の一角で大城さんはまず小学校時代を振り返った。「一九四一年、学制改編で小学校が国民学校になった。校門にある奉安殿で毎日最敬礼をした。天皇という言葉を聞くとみんな気を付けの姿勢を取った。登校は揃って軍歌を歌いながらだった。シンガポール陥落の時は小学生も集落内を練り歩いた。体育の時間が倍になり、イチニッ、イチニッと行進などの訓練をやった。一九四三年からは竹やり訓練も始まった。人を倒す訓練。左胸を狙って突いてすぐ抜く。戦の好きな人が国の指導者になり、世の中が変わる時、学校も教育も変わっていく」。
南北の塔のすぐ後ろには、大城さんたちが隠れた壕「アバタガマ」がある。その前で大城さんは「当時の南部には、日本兵三〜四万、住民一一万、合わせて一五万人近くの人があふれていた。米軍の船が島尻の海を取り巻き、艦砲射撃は激しかった。捜索二四連隊が戻って来て、住民をガマから追い出し、子供をおぶって逃げる女性を後ろから銃剣で刺し殺すなど、何人もの住民を殺した。六月一九日に米軍から放送があった。“戦争は終わった。平和になった。食べ物をあげる”。真栄平には朝鮮人もいた。両手をあげて真っ先に捕虜になった。それから三日後、みんなで外へ出た」と語った。
四月中旬。七五年前の今頃は、嘉数高台を舞台に日米両軍の死闘が繰り広げられていた。そして沖縄は廃墟となった。米軍一万人以上、日本軍六万人以上、県民一二万人以上、合わせて二〇万人以上が戦死し多数が負傷した。戦争責任を負っている天皇制国家の政軍官の指導層は、極東国際軍事裁判で一部が「トカゲのしっぽ切り」のように処罰されただけで、多くは天皇をはじめ戦後に生き延びた。戦後日本の不幸はここに起因する。日本は自分のやることに責任を取らない無責任な国になった。 

県内市町村の中国での戦争体験記を読む(13)

生い立ちから捕虜生活と帰還まで沖縄がたどった道映す叙事詩

 
中国侵略の日本軍には、県内各地からも多くの青年たちが動員されて命を落とし、また、戦争の実態を目撃し記録した。県内各地の市町村史の戦争体験記録にはそうした証言が数多く掲載されており、日本軍による戦争の姿を赤裸々に描いている。今回は佐敷町(現在は南城市)の城間さんの証言を見る。小学校の卒業、家での農業、大阪での出稼ぎ、徴兵検査と入隊、中国での軍隊生活、大陸横断作戦、シンガポールでの捕虜生活、沖縄への帰還と一〇年以上にわたる体験を淡々と語る城間さんの証言はまるで沖縄をめぐる一つの叙事詩のようだ。

『佐敷町史』4「戦争」(1999年発行)


城間盛助「北支から仏印まで」

 私は五人きょうだいの長男である。佐敷尋常小学校卒業後、高等科に行きたかったが、家にはその余裕がなかった。進学を勧める恩師の山城静進先生が家庭訪問し、父を説得することになった。先生の熱意ある説得の前で父は小さくなり、うなずいていたが、 先生が帰ると一変し、「お前一人だけに学問させられるか」と私をたたいた。私はとうとう進学を断念した。
卒業後は、 父親とともに農業に励んでいたが、 数え年十七歳で大阪へ出稼ぎに行き、 ある鉄工所で半年間見習い工員として働いた。その時の日給は六〇銭。この日給で下宿賃一日五〇銭、風呂六銭を払うと、手元に残るのはたったの四銭しかなく、身のまわり品も買えない貧しい暮らしであった。
そこでたまらず、下宿屋の主人に頼み、高い給与の職場を探してもらったら、豆炭工場に就職することができた。日当二円也の高給であった。しかし、就職してみると、朝鮮人と沖縄人のみの職場で、社会から差別の目で見られた所であった。工場は煤煙が立ちこもり、常人の働く室内ではなかった。作業が終わる頃になると、人相もわからないほどであった。……
私は昭和一七年(一九四一)一月に帰郷したが、検査の前に四月頃から一時的に軍属となり、奄美大島の古仁屋に派遣された。そして四か月後の八月には徴兵検査のため帰ってきた。
検査は糸満国民学校で受け、第一乙種の現役兵に合格し、その年の一二月一日に宮崎県都城の部隊へ入隊した。間もなく朝鮮の釜山へ渡り、そこから鉄道で満州を経由して北支の安邑(あんぴ)226連隊岡村部隊に配属となり、この地で三期(六か月間)の初年兵教育を受けて、一等兵に昇進した。
初年兵時代にはさまざまなことがあった。その一つ、軍人にとって唯一の所持品である小銃は各自で就寝前に安全装置を点検し、枕元に立てておくことになっていた。それを私たちが寝ている間に、 週番下士官が一丁一丁チェックして回るのである。そして、その後にあらためて週番士官の将校の巡視があった。しかし、昼間の疲れでぐっすり寝ている間に、古参兵たちがいたずらして、初年兵の銃の安全装置を外してしまうことがたびたびあった。
ある寒い夜、分隊の一兵士の小銃の安全装置が外れているのが発見され、懲罰として全員、雪の中に不動の姿勢で立たされた。一人のミスは連帯責任ということである。あまりの寒さに耳から血が出るほどであった。しかも長時間にわたるものであった。なぜならば、その週番下士官は懲罰をかけたあと自分は暖炉に暖まり、居眠りをして、号令のままの姿勢を続けさせたのである。それが、週番士官の将校の巡視に発見され、怠慢なこの下士官は重営倉入りとなり、二階級も降格された。……
しかし、一等兵になると、あらゆる恐怖感から逃れ、楽な軍隊生活を過ごすことができるのである。安邑での二年間の駐屯中、実戦としては、敗残兵の討伐くらいのものであった。しかし、昭和一九年(一九四四)二月になると、この北支から仏印(フランス領インドシナ、現在のベトナム)に向けて中国大陸を縦断する、それも徒歩による一万五千キロの行軍が始まった。……
昭和二〇年(一九四五)になって、やっと仏領インドシナにたどり着いた。安南人(現在のベトナム人)たちは、こじき同様の貧しい生活をしていた。……
タイの国バンコクで終戦となり、武装解除された。武装解除後、タイからジョホールバルまで列車で移動し、橋を渡ってシンガポールに到着した。
シンガポールでは、日本軍占領時八千人の英国人捕虜が収容されていた所に、彼らと交代して今度は日本兵が収容され、敗残兵の憂き目にあうことになった。そこに抑留された二年七か月間は、英国人の遺骨の掘り起こし作業に従事させられた。
埋葬されたその遺骨というのは、シンガポールの要塞を日本軍が再構築した時に、英国兵を酷使したようで、完成後の要塞の秘密保持のために殺害され、埋められた者も含まれているという話だった。推察すると何千という数ではなかったかと思う。抑留二年七か月の間、毎日のように百人内外の日本兵による掘り起こし作業が続けられていたからである。
その作業はもつばら手作業で丁重にやったのである。誤ってシャベルで亡きがらに触れたのを監視兵に見られると、したたか叩かれた。恨み骨髄にしみた表情を丸出しで怒鳴られた。時には「ジャップ、ジャップ」と、け飛ばされ、顔面を靴で踏みけられる者もいた。
また、この恨み、仕返しは食糧の面にもはっきり表れ、最初の頃は、一日分の食事がビスケット四枚しかなく、ほとんどの者が栄養失調でふらふらしていた。本当に家畜同様の生きざまで、作業で疲れて草むらに寝ている時、茅草の穂を摘み取って口にしたり、指ほどの野性の芋をかじったりもした。
監視兵のなかには、いずれ君らもあのように穴の中に埋められるから覚悟しておけ、と言う者もいた。そういう中で、やがて死が待っているものと考え、自ら命を絶つ日本兵もいた。食糧倉庫の周りに置いてある猫いらずの毒物を口にしたのである。この精神的、肉体的な極限状態も半年くらい過ぎた頃、日本兵を酷使した英国兵は本国に送還され、代わりに紳士的な若い兵士たちがやってきた。
したがって、捕虜の取り扱いも変わり、食糧事情も良くなって、何とか元気な体を取り戻した。しかし、一日レーション一個の配給なので、腹を満たすことはできなかった。
北支より一万五千キロメートルの強行軍、そしてシンガポールでの捕虜生活を終え、昭和二三年(一九四八年)には日本本土の土を踏み、そして郷里へ無事帰還することができた。しかし、帰ってみると、私の家族は両親ときょうだい合わせて五人が沖縄戦の犠牲になっていた。



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