もどる

    かけはし2020年4月20日号

新しい社会をめざす意識的構想


3・27小倉利丸さんの講演から

資本主義の危機を新しい社会の模索への転換点に

 本紙4月6日号に掲載した大阪での「東京オリ・パラ反対集会」で講演した小倉利丸さんの発言要旨を掲載します。小倉さんは、資本主義を過去のものとする新しい社会への意識的な闘いについて語っています。(編集部)


二つのシナリオ

 今日は、オリンピックのことではなく、感染症問題について話したい。あっという間に世界中に拡がった新型コロナウイルスにより、外出や集会・イベント自粛への同調圧力がかかり、多くの社会運動も好むと好まざるとにかかわらず、この圧力を受け入れざるを得ないところに追い込まれている。メディアは経済活動へのマイナスの影響を懸念するが、政治活動や議会外の草の根の活動にとってのマイナスの影響については全くふれない。
ノックダウンによって感染の蔓延を押さえるのか。そうすれば経済が困窮し一層貧困が蔓延し、生存の危機にみまわれる人々が生じ、感染も拡大する。一方、ロックダウンを緩和して経済の停滞を回避すれば、人々の活動が活発化し、接触も増え、感染の拡大は避けられない。このことは私たち一人ひとりに当てはまる。仕事ができなければ、収入の道がたたれ、家賃も払えず、食料調達もままならず、生存の危機に陥る。混雑する電車で通勤すれば、感染のリスクが高まる。この二つのシナリオが考えられるが、どちらかを選択することは不可能だ。

「知る権利」について


 この状況の中で、知る権利の問題がある。ほとんどの人は、自分が感染者かどうかを知り得る環境にはないが(集会参加者は誰ひとり検査を受けていなかった)、感染者かどうかを知る権利をもっている。この主張がいかに非現実的であったとしても、この主張なしに現実的な判断を下すことができない。
 態度選択の情報が得られない中で、行政や資本の指示に同調することを強制される。合理的な判断が下せなければ不安感情が増長する。人々の行動を新たな立法で取り締まるために権力が用いる手法は、不安感情を権力の利益のために利用することだ。「上」からの指示、現在の政権・医療などを信頼しているかどうか。家族・職場や学校・地域などの人間関係が、権力と支配的秩序との関係において、ポジティブなのかネガティブなのかといった半ばイデオロギーや信念にかかわる要因も人々の行動を左右するかもしれない。
 ロックダウンや強い自粛要請は、政治活動の自粛でもある。その裏で、政権中枢への権力の集中と企業活動へのバックアップの強化が進行すれば、確実に運動への逆風となる。その方向にメディアも動員される。新型コロナウイルスのパンデミックという事態に対応できるのは、現実には行政権力だ。時間のかかる民主的なプロセスよりも、権力の集中と強いリーダーシップへの期待が高まる。緊急事態を理由に、法の支配を否定する傾向が大衆の中にもある。
 私たちが考えなければならないのは、さまざまな既存の体制に対して異議申し立てを行う広義の意味での政治活動の自由をどのようにして維持するかだ。コロナウイルスに感染しているかどうかを人口全体に検査する悉皆調査がなぜ不可能なのか〈例えばPCR検査は、医療現場からの強い希望にもかかわらず、韓国や台湾、ドイツなどと比べて極端に少ない。この点について納得のいく説明はない〉。それが不可能な原因はどこにあるのか。自粛も同調もせず、同時に感染症の蔓延とも闘うにはどうすればよいのか。憲法が保障する基本的人権、特に自由の権利はどのように確保できるのかなど、一連の問いと向き合わなければいけない。

政治的中立性?

 戦争ではない感染症の蔓延という事態に対し、政治的な立場やイデオロギーを超越して、人類が一丸となって取り組まなければいけないと見なされている。だが、私はそのような政治的中立の観点をとらない。今の感染症の拡大それ自体がグローバル資本主義の矛盾・限界と不可分に結びついている。
米国の医療産業の中での論議は、社会システムの動向を率直に表している。米国の大手製薬会社は、新型コロナウイルスから利益を上げる準備をしている。治療とワクチン製造・検査のために、数十の企業が競争している。世界的な危機は、業界にとって大ヒットになる可能性がある、と述べている。
医療関連産業が市場経済に委ねられている結果として、私たちの健康や生命が私たちの所得と連動するようになってしまった。医療が資本の論理で機能することを強いられる結果、最大限利潤を追及する動機によって投資が決定する。開発競争と市場への医薬品の供給を支えているのは、人権や社会的責任ではなく、資本の利潤である。
日本でも感染症蔓延を防ぐという名目で、テレワークが拡がっている。一時的にはやむを得ないとしても、事態が沈静化したとき、雇用はどうなるのか。また、テレワークは、二四時間監視されるという環境に置かれることを意味し、プライバシーに時間は奪われる。このような問題に対し、冷静で客観的な分析が必要だ。

新しい社会の模索


政府は医療崩壊を危惧して必要な検査を抑制しているのか。隔離は具体的なデータに基づいて主張されているのか。近代国民国家は、その正当性の前提に、近代的個人の人間としての権利の保障を掲げる。自由・平等・生存・財産などさまざまの権利が列挙され、これらが相互に両立するかのような言説によって、これらの権利が二律背反であることを覆い隠す。政府は、「国民」の生存の保障を最優先するといいつつ、民衆の自由の権利を抑制する。まともな検査もせず、すべての人口を十把一絡げにして隔離することを、あたかもやむを得ないかのように主張して、緊急事態を正当化する。
資本主義は民衆の生存も自由も保障しないシステムである。既存の権力が危機の前で立ち往生しているとき、危機に対する資本主義的な救済に手を貸すような立場を私たちは取らない。生存の権利と自由の権利、さらに平等の権利を加えた諸権利を総体として実現することが可能な社会システムへの転換を模索すべきだ。危機は資本主義の崩壊を招くことはなく、危機への耐性を身につけて回復の軌道を構築しようとするにちがいない。
資本主義という時代を過去へと葬り去れるのは、資本・国家の境界を意識的に超えるところで形成される、歴史上これまで存在したことのない新しい社会へと向かうことを可能にする集団的で民衆的な潜在力のみだ。

安倍「緊急事態宣言」批判

コロナ危機から憲法改悪ねらう

 
社会的危機の行きつく先は

 四月七日、安倍首相は「新型インフルエンザ等対応特措法」に基づく「緊急事態宣言」を出した。同「宣言」の対象区域は東京、神奈川、埼玉、千葉、大阪、兵庫、福岡の七都府県で、その有効期間は五月六日までの一カ月間とされる。この「宣言」によって対象都府県の知事は、外出自粛要請、学校、会館、劇場、キャバレー、インターネットカフェ、カラオケボックス、ゲームセンターなどの公私の施設を使用禁止にするなどの強権措置を取ることができるようになっている。
 安倍は「緊急事態宣言」を次のような言葉でしめくくった。
 「九年前、私たちは東日本大震災を経験した。つらく困難な日々の中で私たちに希望をもたらしたもの。それは人と人との絆、日本中から寄せられた助け合いの心だった。今また私たちは大きな困難に直面している。しかし、私たちはみんなで力を合わせれば再び希望を持って前に進んでいくことができる。ウイルスとの戦いに打ち勝ち、この緊急事態という試練も必ずや乗り越えることができる」と。
 地震・津波災害との「挙国一致」のたたかいと同様なコロナウィルスとの「挙国一致」の「戦争」。しかし問題は、「新型インフルエンザ」の「パンデミック」は決して自然災害ではない、ということだ。福島原発事故をもたらした地震と津波は「自然現象」ではあったが、原発事故をはじめとする被害の拡大は、まさに資本の意を体現した誤ったエネルギー政策によるものだった。
 「新型インフルエンザ」の「パンデミック」もまた、いやそれ以上に、今日の資本の新自由主義的グローバル化と深くつながっている事象なのである。そうであればこそ、われわれは全世界の被害者との連帯・支援をベースにした共同の闘いをつくり出すことが求められている。

改憲議論再開めざす自民党


 「新型コロナウィルス」のまん延から、人びとの健康・生活・権利をどう守るか。これは決して「歓楽街」の営業禁止などに関わる問題だけではない。
 まさに憲法によって保障された言論・集会の自由が大きく制限される民主主義破壊の強権統治への道が切り開かれたのである。はっきりさせよう。安倍首相の「緊急事態宣言」は「パンデミック」を契機にした民主主義と人権の破壊である。それは当然にも安倍政権がねらう憲法改悪の戦略と結びついている。
 すでに四月三日、すなわち安倍首相が「緊急事態宣言」を出す以前の段階で、自民党の新藤義孝・与党筆頭幹事は立憲民主党の山花郁夫・野党筆頭幹事と会談した際に「新型コロナウィルス感染症と憲法論議について」と題したペーパーを渡し、「早急に憲法審で議論する必要があるのではないか」と求めた。このペーパーは「衆院議員の任期」や「定足数」に触れて、「感染が広がり定足数を割る事態になったり、来年一〇月二一日までの任期中に選挙ができなかった場合の対応を議論すべきだ」と述べている。
 また安倍首相自らも四月七日の衆院議員運営委員会で「新型コロナウィルス感染症への対応も踏まえつつ、国会の憲法審査会で活発な議論が展開されることを期待したい」と語った(「朝日新聞」4月9日)。まさに「火事場泥棒」そのものの対応と言ってよいだろう。自民党・改憲勢力は、「立往生」気味の改憲スケジュールを一気に前に進める「絶好のチャンス」として、今回のパンデミックを捉えていることは明らかである。
 安倍政権は、今回の「コロナ緊急事態宣言」を、まさに「緊急事態=有事」として捉え、「有事」における行政権限の独裁的強化、「言論・集会の自由」の制限・禁止、そして国家・行政機関のイニシアティブ、自衛隊や警察機関を前面に押し立てた住民の動員と民主主義的権利の制限を進めていくための「実験台」にしようとしている。
 自らが首相であるうちに9条改悪をはじめとする改憲を実現しようとしている安倍にとっての「最後の、そして絶好のチャンス」が、今回の「新型インフルエンザ・パンデミック」なのだ。
 安倍首相の「緊急事態宣言」は、まさに安倍首相にとって悲願である「九条改憲」にとっての最後のチャンスである。「コロナウィルス」と「戦争」とは話が違う、と考える人は多いだろう。しかし改憲派にとっては「非常事態」「緊急事態」を口実にした、民主主義的権利・人権の制限、破壊への道を切り開く上で「絶好の口実」であることは明らかである。

今こそ平和と人権の確立を


 安倍は「首相会見」の最後に次のように語った。
 「政府や自治体だけの取り組みでは、この緊急事態を乗り越えられない。感染者の爆発的な増加を回避できるのか。一人でも多くの重症者を死の淵から救うことができるのか。みなさんが愛する家族を守ることができるのか。すべては皆さんの行動にかかっている」。
 「コロナパンデミック有事」を口実に「9条」を始めとする憲法の体系を根本的に改変しようとする動きに抗議の声を上げよう。
 パンデミック被害者とのグローバルな連帯で、平和と人権の確立を! 安倍改憲を阻止しよう。  (純)


もどる

Back