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    かけはし2020年4月27日号

破綻した埋め立て工事の即時中止を


沖縄報告 4月19日

守るべきは生物多様性の海だ

沖縄 K・S

普天間基地から大量の泡消火剤流出

またしても県民の健康と安全に重大な危険

 騒音、環境汚染で住民生活を日々脅かしている普天間基地がまた、重大事故を起こした。四月一〇日、有機フッ素化合物PFOSを含む泡消火剤が大量に流出したのだ。PFOSは発がん性、胎児の低体重、生殖機能への影響、甲状腺疾患など深刻な健康障害を引き起こす有害物質である。分解されにくく蓄積が進む。日本国内で製造・使用が禁止されている。国際的にも規制が進んでいる。しかし、米軍基地内では、有害な有機フッ素化合物を含まない消火剤に交換していくことになっているにもかかわらず、大量に保有され、適切に管理されていなかったことが明らかになったのである。

泡消火剤が拡散、漁港も汚染

 流出した泡消火剤は一部が風船のような泡となって周囲に拡散し保育園や公園に降り注いだ。子供たちは「泡が飛んでる」と大騒ぎした。さらに基地内の排水路から川、海へと流れ出た。流出から一週間たっても牧港漁港では泡が広範囲に確認された。漁港内では「魚釣り禁止」の張り紙がされている。
有機フッ素化合物による水道水汚染は昨年来、大問題になってきた。出どころは普天間飛行場、嘉手納飛行場の米軍基地である。米軍はトランプと同じで米軍ファースト。周囲の住民の健康や安全を第一に考えない。普天間飛行場の基地司令官デイビッド・スティール大佐は、基地外に流出した泡消火剤を回収しようとは全くせず、宜野湾市消防が懸命に除去作業をしている排水溝の現場を訪れて、「雨が降れば収まるだろう」と述べた。基地内からなくなっても、周辺の土地と河川、海に蓄積されていくだけだ。沖縄の自然が米軍によって汚され壊されていく。

流出は原液4542リットル

 沖縄県の謝花副知事は四月一七日、普天間飛行場を訪れ、米海兵隊と米総領事に抗議した。その際明らかにされた泡消火剤の基地外への流出量は原液にして四五四二リットル(ドラム缶約23本分)だという。消火剤は原液と水とを混ぜて使用するので、消火剤としての量は一四万三八三〇リットル(ドラム缶719本)にのぼるという。
沖縄県は日本政府・沖縄防衛局にも強く抗議し、原因究明と調査、汚染物質の回収、県による基地内の立ち入り調査を求めた。宜野湾市議会は全会一致で、抗議決議と意見書を採択した。決議は@有機フッ素化合物の使用、貯蔵、保管を行わない、A原因究明と再発防止、B国、県、市による基地内立ち入り調査、C汚染の浄化、D日米地位協定の改定を求めた。県議会軍特委も全会一致で抗議声明を出した。

脅かされる県民の生存権

 米軍の有機フッ素化合物による汚染を糾弾し浄化を求める声は沖縄県民の党派を超えた強い要求である。それは安心して暮らす県民の生存権の問題だ。
四月一六日午後二時半から約一時間、安倍政権の防衛、外務、環境三省の職員六人は沖縄県、宜野湾市には知らせず、普天間基地に入り米軍から説明を受けたという。初め県に連絡していたと言っていた河野防衛相は、後になって県・市には連絡していなかったことを認めて謝罪した。安倍政権は、当事者たる沖縄県、宜野湾市をおろそかにするな。しかも、安倍政権の職員がやったことは、ただ基地内に入って米軍の説明を聞いただけのパフォーマンス。サンプル採取もしない。役立たずとはこのことだ。彼らは米軍の言うことにただハイハイするだけ。日本政府の米軍に対する無能力が、戦後七五年経てなお治外法権を有する外国軍の占領状態が延々と続く原因だ。
チェンジ オブ 日本政府。沖縄県民に真摯に向き合い、米軍のさまざまな特権を廃止し、県民の命と暮らしを守る日本政府を作り上げなければならない。安倍は一刻も早く退場せよ!

辺野古埋め立て工事で新型コロナの感染者

政府防衛局はただちに埋め立て工事を中止せよ!


新型コロナウィルスの感染拡大が沖縄県にも及んでくる中で、辺野古現地闘争の取り組み団体・オール沖縄会議も四月一四日、辺野古ゲート前の座り込み、大浦湾の海上行動、安和桟橋・本部塩川港での抗議行動を当面の間中止する決定を行った。期間は連休明けの五月六日までで、それ以降については改めて判断するとしている。
翌一五日、キャンプ・シュワブゲート前と琉球セメント安和桟橋には自主的に集まった人々がプラカードを掲げ、防衛局の職員や警備員、県警、ダンプの運転手に対し、ゲート前の牛歩をしながら「感染防止のため、工事を中止しよう」と呼びかけた。
安倍政権は、「不要不急の外出自粛」「人と人との接触の八割削減」を呼び掛けている。ところが、辺野古新基地建設のための埋め立て工事の現場では、そうした感染防止の呼びかけなどお構いなしに作業が進められてきた。ヘリ基地反対協をはじめ運動団体による工事中止の申し入れに対し、沖縄防衛局は「業者からの申し入れがないので工事は中止しない」という業者に責任を転嫁する卑怯な態度をとり続けてきた。
しかし、案の定、辺野古埋め立て関連業者から感染者が発生した。海上工事に従事する六〇代の作業員との事だ。辺野古関連業者の中でも五洋建設や大林組、清水建設、防衛省の本省でも感染者が発生したという。沖縄防衛局は四月一六日になって、感染者の発生と関連職場に関する工事の中止を発表したが、一七日金曜日も安和桟橋や本部塩川港からの土砂の搬入は相変わらず続けられている。国にはリーダーシップを発揮し率先して感染防止のために公共工事を中止しようという考えがない。これでは国民の支持を得られるはずがない。
玉城デニー知事は四月一七日、菅官房長官に電話して工事の中止を求めた。既に謝花副知事が防衛省に工事の中止を求めていたが、返事がないため、改めて直接政府に申し入れたものである。
また、今年の二月一一、二三、二四日、辺野古埋め立て海上工事の行われていない休日に、大浦湾側のフロート周辺で、ジュゴンの鳴き声と思われる音声が一二回記録されていたことを、沖縄防衛局が四月一〇日に明らかにした。かつて辺野古・大浦湾に三頭いたジュゴンは、埋め立て工事により住処を追われ、一頭が古宇利島付近で死亡しあとの二頭は行方不明になっていた。ほんとうにジュゴンの鳴き声だとすると、喜ばしい。工事を中止し、調査を続ける必要がある。
辺野古・大浦湾は日本でジュゴンが生息するかけがえのない海だ。米軍基地をつくるよりもジュゴンの暮らす生物多様性の海として守り育てる方がはるかに生産的だ。戦後七五年間米軍基地によって苦しめられてきた沖縄に、これ以上米軍基地はいらない。我々はジュゴンとともにある。

4.13

住民の抗告訴訟の判決

11人が原告不適格、4人が適格

 辺野古・大浦湾沿岸住民一五人が原告となり、沖縄県の埋立承認撤回を取り消した国土交通相の裁決は違法だとして「裁決の取り消し」と「裁決の効力の執行停止」を求めた訴訟の判決は、当初三月一九日に予定されていた。ところが、前日になって急に判決期日の延期が通知された。
この日の判決で、平山馨裁判長は、二見以北の一一人の原告について原告適格を否認し訴えを却下したが、辺野古の住民ら四人については「米軍機の騒音被害を受ける可能性や周辺の高さ制限に抵触して航空機事故に遭う恐れがある」として原告適格を認め審理が継続されることになった。ただし、次回弁論期日は未定。裁判所は原告の概念をあまりにも狭くとらえている。辺野古新基地建設により被害を受けるのは沖縄県民全体だ。一一人の訴えの却下は不当である。
判決では「軟弱地盤問題が実際に存在していることが、公知の事実となっていて、本来、これに伴う設計の概要の変更につき沖縄県知事の承認を受ける必要があり、それに際して改めて環境影響評価が実施されるべきことが考慮されなければならない」としている。
軟弱地盤のために再度のアセスメントが必要で、県知事の承認を受ける必要のあることを指摘したのである。桜井国俊沖大名誉教授は「アセス調査は方法書から実施すべき」と強調している。
大浦湾の軟弱地盤に手を付けてはならない。海面下九〇mに及ぶ軟弱地盤の改良工事を強行すれば、とてつもない環境破壊と期間・予算の浪費が火を見るより明らかだ。これまで工事を進めてきたからこれからも続けようという惰性ではなく、理性的に立ち止まり引き返す選択をすることが合理的な判断だ。
安倍政権は埋め立て工事を中止し、設計変更申請を断念し、辺野古新基地建設から撤退せよ。

県内市町村の中国での戦争体験記を読む(14)

日本軍の戦時暴力の赤裸々な描写


中国侵略の日本軍には、県内各地からも多くの青年たちが動員されて命を落とし、また、戦争の実態を目撃し記録した。県内各地の市町村史の戦争体験記録にはそうした証言が数多く掲載されており、日本軍による戦争の姿を赤裸々に描いている。今回は玉城村(現在は南城市)の大城さんと糸数さんの証言を見る。
大城さんは一九四〇年、南京に派兵され、武漢、長沙の戦闘から、タイ、マレー、シンガポールを経て、一九四五年、スマトラで終戦を迎えた。一方、糸数さんは盧溝橋事件の一九三七年、釜山経由「北支」に派遣され、その後上海の杭州湾上陸、南京攻撃に参加した。

『玉城村史』第6巻「戦時記録編」(2004年発行)

大城宜文「中支から南方へ」

 父は私が五歳の時に亡くなり、一人息子として母は大事に育ててくれた。昭和十五年七月一日に熊本六連隊輜重兵として召集され、陸軍二等兵として厳しい訓練をうけた。 その月の三十一日に召集解除となり、帰郷していたが、その年の八月二十四日に臨時召集をうけ輜重兵第六連隊補充隊に配属された。中支の戦地へ行くため営内で自分の頭髪と爪を切って袋に入れ、戦死した場合の形見とした。これは故郷へ届いて、母はこれを見てびっくりし大事に保管していた。
昭和十五年八月二七日に門司港出帆、二九日に中支の揚子江口を通過、九月二日に南京へ上陸した。五日に南京を出発して八日に武昌着、十日に武昌を出発して同日趙李橋(チャウリィチョウ)着、輜重兵第六連隊に転属。昭和十六年二月一日に陸軍一等兵に進級す。……
また転戦のため荷物を捕虜に持たしていたが、あまり協力しないのは、そこに藁がたくさんあったので、これでしばり、藁をかぶせて火をつけ焼死させた場面も見た。また怪しいものは「スパイだ」と言って上官が首切りをする場面も見た。同年十月三十日に第二十三野戦自動車廠に転属、その後南京で警備に従事する。
昭和十七年一月十日に南京出発、十四日に呉淞沖を通過して二月四日にタイ国のシンゴラに上陸、 六日にタイ・マレー国境を通過し、昭和十七年二月四日から十五日まで 「シンゴラ攻略作戦」に参加、……
終戦と同時に大混乱になり、敵がここに進駐してくると殺されると思い、遠くへ逃げたり山の中にかくれたりした。中には捕虜になるより死んだ方がよいといって小銃を喉(のど)にあて、足で引き金を引いて自殺したのも多数いた。私は山の中に逃げた。山にいるときは食糧もないので付近の畑から稲穂を取ってきて、これをしごいて壜に入れ、棒でつついて米にして食べた。また付近にはキャッサバ (タピオカの木)やイモ、山イモが植えつけられていたので、これを取って食べ飢えをしのいだ。また煙草もなかったのでパパイアの葉を吸うたこともあった。
昭和二十年九月一日に軍曹に進級し、昭和二十一年三月二十九日スマトラのべラワンを出帆し、四月一日にマレーのバトババに上陸した。五月一日から二十二日までマレーのメンキポールで連合国の作業に従事、その後はマレーのセランゴール州のスポンで第四七大隊の連合国作業に従事した。私達は捕虜の身であり、ドブ水の汚い所の掃除をたびたびさせられる事があった。
昭和二十二年に日本に帰る事になった。シンガポールから日本へ帰還する時、船中で兵隊が暴れ、「もう軍隊はない。上官も兵も同じ人間だ。今日は私達が裁判をする」と言って、自分達をいじめた上官を呼び出して皆でたたき、特に兵をひどくいじめた上官は海に投げ捨てられるのもいた。ある中尉は「私が悪かった、ゆるしてくれ」と皆に泣きながらわびて、海に投げられないでゆるされた上官もいた。

糸数太吉「北支・中支・南支の思い出」

 私は昭和十一年一月十日、二十二歳の時に召集令状を受けて出征し、鹿児島歩兵第四十五連隊第二大隊第七中隊(第六師団)に入隊して鹿児島県市来町に駐屯しましたが、 昭和十二年七月十八日に前線への出陣命令が下り、直ちに鹿児島を出発して朝鮮の釜山を経由し、北支の蘆溝橋に行きました。途中の朝鮮には四日間滞在しての旅でありました。……
十四日後に千軍台引き揚げの命令が下り、我が軍は四日間で岩山を下りました。 ロバと言う小さい馬を見つけ、それに荷をのせて運ぶなど大変難儀な後退でありました。その時、何処からともなく勝戦で帰るんだよ、と言って喜ぶ声が聞こえていました。
北支からの撤退行動はすべて夜行われました。私達は船に乗せられ、いよいよ凱旋と喜んで北支を後にしました。ところが、私達を乗せた船は朝鮮沖まで来ると停まってしまい、動きません。四日後の夜になって、ようやく船は動き出しましたが、行き先は日本ではありませんでした。
我が部隊は第二次作戦参加命令を受け中支へ向かっていました。日時は定かではないが、夜明けに杭州湾上陸の命令が下り、杭州湾への苦しい敵前上陸を敢行しました。
我が軍は休む事もなく、杭州、松江、混山へと南京攻撃に向いました。その間、我が部隊は野営地の警備や近くのゲリラ兵の討伐作戦にも何度か参加しました。
いよいよ南京城総攻撃の日がきました。我が部隊は南京城の北門攻撃として下關〔シャークァン〕には四方から移動してきた敵兵と住民が何千、何万人も逃げ場を失って集まってきていました。
南京城攻撃は、空からの爆弾投下、揚子江からの駆逐艦砲撃にあわせて、陸上では長距離砲、臼砲、大隊砲、直射砲とあらゆる戦力を駆使しての集中攻撃でありました。南京城攻撃は昔の沖縄の話ことばにある「イクサハナアシビ」のように、あっと言う間に終わり、南京城を占領してしまいました。
ところが、我が第二大隊はこの戦闘で砲手二人と兵隊二人を敵のゲリラ兵に討たれて戦死させた。大隊砲の中隊長〇〇中尉は怒り狂い、自分の部下に命令。重機関銃と軽機関銃前進し、橋を渡って来る大勢の兵隊や住民が射殺されました。その死体は側を流れる川に捨てたら、流れの水が止ってしまった。
私達は南京城内で夜は柔らかくてふわふわした布団を被って休む事が出来、久しぶりの楽しい四日間を過ごしました。五日目の朝五時、今度は長沙進攻のための武昌、漢陽、漢口への攻撃命令が下り、我が軍は南京を出発しました。
武昌、漢陽、漢口三鎮への進攻は六年の歳月を要し、楽しい事は無く、毎日が大変でした。それでも向かうところに敵なしで進撃して武漢三鎮を占領することが出来、無事に終わりました。



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