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    かけはし2020年5月4日号

卑劣きわまる安倍政権に怒り


沖縄報告 4月26日

政府が「辺野古新基地」設計概要変更申請

コロナ危機の中で基地建設に固執

沖縄K・S

4.21

なぜ今になって「変更」か?

コロナ危機の中で基地建設に固執

 

 日本政府・安倍政権による設計概要変更申請は、休業補償や在宅勤務の取り組みなど、コロナ対策に県行政が忙殺される中、突如として行われた。四月二一日午前八時半過ぎ、沖縄防衛局の職員四人が事前連絡なく県北部土木事務所を訪れ、約一八〇〇ページの「公有水面埋立変更承認申請書」を運び込んだ。安倍や河野にとっては、国民・県民が苦しむコロナより埋め立ての方が大事なのだろう。

4.23

沖縄防衛局に抗議行動

マスク姿で手作り プラカード手に


 四月二三日午後、嘉手納ロータリーにある沖縄防衛局前で、平和市民連絡会の呼びかけによる緊急抗議行動が行われた。「暴挙!設計概要変更申請を直ちに撤回せよ!」「辺野古工事費を国民のコロナ救済に回せ!」の横断幕を掲げ、一〇〇人以上が集まった。マスク姿の参加者は各自プラカードを手にし、人との距離を数メートル置いて広がり、感染防止に気を配りつつ、政府防衛局に対する強い抗議の意思をあらわした。
 参加者が持参したプラカードには参加者それぞれの気持ちが込められている。「不意打ち、ひどい」「県民はコロナで苦しんでいる。今基地必要か。血も涙もないアベ政治」「軟弱地盤説明しろ」「命どぅ宝。辺野古の設計変更許さない」「辺野古新基地こそ不要不急」「設計変更はアセスが必要」「卑劣」「防衛局は自分の頭を設計変更せよ!」「怒」「設計かえても軟弱地盤は変わらない」「沈む基地をなぜ造る。今こそ国民に税金を返す時」など。いつもより多い手作りプラカードが防衛局前の広場に広がった。
 集会は、城間勝さんの進行で、高里鈴代さん、北上田毅さん、真喜志好一さん、うるま市島ぐるみの宮城さんなどが発言した。集会の終盤、沖縄防衛局の職員に緊急抗議要請文を読み上げて手渡し、最後に参加者全員でシュプレヒコールの声を上げ、一時間余にわたる集会の幕を閉じた。

「辺野古設計概要変更申請」の
撤回を求める緊急抗議・要請 (抜粋)

 現在、去る四月一六日に安倍晋三首相自ら新型コロナウイルスの感染増加に対応する緊急事態宣言の対象地域を全国に拡大し、玉城デニー知事も県独自の「緊急事態宣言」を四月二〇日に発出して、全国民・県民あげてコロナ対策に奔走している状況にある。その矢先、どさくさに紛れて、沖縄防衛局は四月二一日早朝八時三七分に「辺野古設計概要変更申請」を沖縄県北部土木事務所に投げ入れた。
まず、沖縄防衛局のこの火事場泥棒的行為を弾劾する。………
現在、日本は新型コロナウイルス感染防止対策で国民は困窮し一刻も早い救援が求められており、辺野古新基地建設などの無駄な予算支出の余裕が全くない状況になっている。また、辺野古新基地建設工事業者の中にもコロナ感染者が発生し、直ちに辺野古新基地建設関連工事の中断が求められている。
以上のことから緊急に以下のことを要求する
1.今回の辺野古設計概要変更申請を撤回すること。
2.コロナ禍が終息するまで全ての辺野古新基地建設工事を中断すること。
3.辺野古新基地建設予算を「コロナ救援」の国民救済に回すこと。

大浦湾の軟弱地盤に手を付けてはならない!


この埋め立て計画の設計変更は、大浦湾の辺野古断層の周囲に大きく広がる軟弱地盤に対する工法と工程、工期と予算を全面的に変えるものだ。そのため、沖縄防衛局はこれまで五年にわたって進めてきた大浦湾での護岸、ケーソン工事七件のうち、六件を三月三一日付で契約を解除した。工事は調査だけで、ほとんど行われていないが、三〇〇億円余りが支出された。つまり、これまでの計画では埋め立て工事は不可能だということが示されたのである。

破綻した計画を
小手先で手直し


空前の難工事であることが明らかになった辺野古・大浦湾の埋め立て工事。ところが、安倍政権は立ち止まって再考することをしないし、別の道があることを考慮しない。硬直した既定方針通りに、破綻した計画を小手先で手直しし表面を繕うだけだ。技術検討会と環境監視等委員会、二つの諮問機関に名を連ねた御用学者の「工事は可能」「環境へ与える影響は以前の計画に比べて同じかそれ以下」として、防衛局は改めて環境影響評価を行わず、無謀で危険な埋め立て工事に突き進んでいるのである。
設計変更では、大浦湾の軟弱地盤に砂杭など七万一千本を打ち込む。工法はサンドコンパクションパイル、サンドドレーン、ペーパードレーンの三工法となる。丁度滑走路端辺りにあたる最深九〇mの地点周辺の地盤調査はできていないが、数一〇〇m離れた他の地点の数値があてはめられて糊塗された。埋め立て用の土砂には、公共工事で発生する残土やリサイクル材の使用が盛り込まれた。埋め立ては、護岸を造る前に土砂を投入するように変更された。元々埋め立ては大浦湾から着手される予定であったが、大浦湾の目途が全く立たないため、埋め立て工事区域A―1およびAの水深の浅い辺野古側の沿岸部から始めたように、大浦湾でも海岸の方からとにかく土砂を投入しようとしているのである。
埋め立て工事がいつ完成するか。設計変更を知事が許可してから一〇年近く、基地施設工事を含めれば一二年とされている。現在の官邸メンバーや官僚は誰も残っていないだろう。工費は当初の二・五倍以上、九三〇〇億円に膨れ上がったが、それに収まる保証はない。大浦湾の軟弱地盤に手を付けてはならない。勇気をもって引き返そう。

米軍主人の日本
の政治変えよう


日本の政治は本当におかしい。日本という国の中にもう一つの国・米軍があり主人のように振る舞っている。戦後日本の政治家、裁判官を含む官僚、マスコミはこの不条理をずっと受け入れてきた。PFOA、PFOSなど有機フッ素化合物の深刻な汚染にもかかわらず米軍基地の土壌調査さえできない現状、羽田や那覇空港の民間航空ルートをねじ曲げ危険に追いやる横田および嘉手納空域、米軍のために支出される毎年数千億円の税金、等々。そのため、国民、県民がどれほど不利益と人権侵害を被っているか。
政治を変えよう。

<沖縄ドローンプロジェクト>

ドローンの活動を皆で支えよう!


この間毎号ごとに、沖縄ドローンプロジェクトが撮影した米海兵隊キャンプ・シュワブと辺野古・大浦湾の埋め立て工事現場の映像を紹介している。日本政府・米軍が国民・県民の目を塞ごうとしている中、ドローンの活動は基地と工事の実態を知るうえで重要な作業だ。
昨年発行された「ドローンの眼」(一時間一〇分)はドローン規制法の問題と辺野古新基地工事現場、宮古、八重山、嘉手納、伊江島、高江、奄美大島など琉球弧の島々の米軍基地・自衛隊基地の姿を映し出している。ドローンを支えよう。
申込・連絡先=FAX 011-351-1068
Email=okinawa.drone.project@gmail.com

高江・刑特法による不当逮捕を許さない会

差別・抑圧・脅迫はね返せ


昨年一二月二一日、高江の米海兵隊北部訓練場N1ゲート出口で六人が刑特法違反で逮捕され三〇日まで不当に勾留されたが、二月一九日またも、昨年一一月三日北部訓練場に「正当な理由なく侵入した」との容疑で、六人が家宅捜索、五人が逮捕された。
弁護団、支援者の精力的な活動により、五人は三日後に釈放されたが、処分保留の状態で「接触制限」がつけられている。いつまた弾圧があるかわからない。会の代表・稲垣絹代さんは「米軍と防衛局、警察、検察、裁判所などが一体となった沖縄への差別・抑圧・脅迫」だと訴え、弁護士費用や罰金刑などの準備のためにカンパを呼びかけている。
(ゆうちょ銀行 振替口座:01750-6-151881 高江・刑特法による不当逮捕を許さない会)
連絡先=〒沖縄県名護市辺野古198-2 沖縄平和サポート 
電話 0980-55-2244 FAX 0980-55-2245

県内市町村の中国での戦争体験記を読む(一五)

「宜野湾市史」での証言

 中国侵略の日本軍には、県内各地からも多くの青年たちが動員されて命を落とし、また、戦争の実態を目撃し記録した。県内各地の市町村史の戦争体験記録にはそうした証言が数多く掲載されており、日本軍による戦争の姿を赤裸々に描いている。今回は『宜野湾市史』に掲載された米須さんの証言を紹介する。米須さんは、すでに日本軍の敗色濃い一九四四年頃、現役兵として入隊したが、体が弱く病気がちであったため、残留部隊にまわされることが多かったという。中国では、南京、武漢、長沙、桂林、上海などを移動し、戦場となった各地の様子を詳細に語っている。直接戦闘に言及した個所はないが、「戦死が多かったから中隊長がよく変わった」という文言からは、中国軍との戦闘の激しさがうかがわれる。省略は……で示し、補足は〔 〕に入れた。

宜野湾市史』第3巻 資料編2
「市民の戦争体験記録」(1982年)

 米須清信「広大なる揚子江のほとりで」

 私は昭和一五年から二か年間、福岡県の八幡製鉄所で働いていた。そこでは鉱石をバケツに入れて積み込む仕事をしていた。昭和一八年に沖縄に帰って来たが、食糧はすでに配給制になっていたし、戦時色が強まっていた。
出稼ぎから帰って一、二年で徴兵検査があった。……都城に召集されてからこれといった訓練もなく、一週間ぐらいですぐ大陸に派兵された。都城から朝鮮半島の釜山に行き、それから汽車に乗って陸路で中国に入った。汽車に乗れない連中は後方で待機していた。そして、汽車が何回か往復して師団全部がそろうのを待ったのである。
こうして満州から南京まで汽車で一〇日位かかった。……
私たちは、南京から揚子江をさかのぼって漢口〔ハンコウ〕に着いた。漢口は武昌〔ウーチャン〕の向いにあって、そこから武漢大学などが見えた。揚子江をはさんで武昌と漢口とが向き合うような形であった。見渡すかぎりの平坦地である。
私の属する部隊は戦闘部隊であったから、ここでもまた検査を受けなくてはならなかったが、けっきょく私は神経痛のために不合格になった。そのため残留部隊として半年かあるいは七、八カ月も漢口に残留することになった。残留兵として残されていたのは、各中隊にそれそれ四、五人ずついた。その後、私たちは中隊に復帰して、長沙〔チャンシャ、湖南省の省都〕、衡陽〔ホンヤン、湖南省第二の都市〕、桂林〔グィリン、江西省のカルスト地形で有名な地〕を通って原隊に合流した。
私は漢口で神経痛のために残留部隊として残され、やっと原隊と合流したかと思うと、今度は赤痢に罹って病院に送られた。野戦病院は木を倒してきて仮の病棟を造ってあったが、私はそのひとつに収容された。……
師団といっても師団全体が一か所に集結し行動するということはほとんどなく、中隊あるいは小隊ごとに分散していた。そのため私の部隊は中国大陸をあちこちと歩いて移動した。……
中国は広大な国であった。行軍で八か月歩いて移動したことがあるが、まるで海の上を歩いているような感じであった。歩いても歩いても果てのない大平原であった。正月も歩きながら祝ったほどである。部隊が一か所に長期間駐屯するということはなかったが、私が行った所で大きな都市は南京、漢口、武昌などがあり、長沙、桂林などは田舎であった。
中国は海のように広い国なので天候もさまざまであった。南京・漢口あたりは非常に寒く、冬になれば雪も降った。しかし、柳州〔リュウジョウ〕・南寧〔ナンニン〕あたりは暖かく、バナナなどもあって亜熱帯のようであった。
農家には放し飼いにされた豚が多かった。農家にタバコを持って行くと、芋や米などの食料と交換できた。土地が肥沃なため農作物はよく実っていた。
漢口の近くには揚子江の支流があった。この川はきれいな水が流れていてススルーグワー(きびなご)のような小魚がいて、網で掬うと一時間もあれば小隊全部の分はとれた。……
私たちは梱包整理などで市場に出る時には、腕に「公用」という腕章をはめて出た。作業を早く済ますと私たちはスイカなどを買って食べたりした。……
同じ大隊に沖縄の人が二十人近くはいた。……中隊の隊長はよく変わった。戦死が多かったからである。……
私たちは食料を徴発して調達することもあった。山奥の村に入りそこで戦闘をまじえ、食料などを手に入れて来るのである。つまり、略奪である。私たちは一つの村を占領したこともあった。歩兵隊には歩兵砲というのがあり、機関銃やてき弾などが装備されていた。中国人は日本軍が来るのを知ると、持てるだけの荷物を持つとサッとどこかへ逃げた。すると私たちがこの部落に住みつくのである。しかし、そのあと彼らが部落に帰って来ると、私たちは彼らが部落に住むことを許可した。
中隊は検閲が終わると一か所に駐屯し戦闘準備に入るのであるが、私は体が弱かったため役に立たない兵士とされ、残留部隊として軍司令部の当番兵にまわされた。……
軍司令部は中国大陸全体に展開する第11軍の総元締めであった。日本製のトラックや乗用車がたくさんあって、普通、部隊の移動などは荷物を肩に担いで行軍していたが、軍司令部はすべてトラックに積み込んでいた。場所は柳州か南寧あたりであった。そして柳州から自分の中隊に帰り上海で原隊に合流したのである。
昭和二〇年に終戦を迎えた。戦争は終ったという詔書が下り、私たちは蒋介石の率いる国民党軍によって武装解除された。…収容所では全く仕事はさせなかった。金網で囲うということもなく、個人の家に割り当てられた。金網さえないからましてやゲートもなく、見張りさえいなかった。しかし、家からは出さなかった。……
いよいよ復員の時が来た。……引き揚げは昭和二十三年であった。私は夏の頃、上海から佐世保に着いた。そこで今度はマラリアにかかり入院するはめになった。



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