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    かけはし2020年5月25日号

全国の力で辺野古埋め立てストップを


沖縄報告 5月17日

辺野古新基地阻止

沖縄 K・S

沖縄の本土復帰から48年
県民の願いは基地のない平和な島


 五月一五日がやって来た。一九七二年の沖縄返還、沖縄の本土復帰から四八年。早いものだ。米軍政下の四半世紀の倍近い期間、沖縄の復帰後が経過したことになる。

沖縄が復帰して変わったこと変わらないこと

 この四八年間で、沖縄は変わったこともあり、変わらなかったこともある。人口は一九七二年の九六万人から一四五万人に増えた。平均すると一年に一万人増えた計算だ。観光客は五五万人から一〇〇〇万人時代にと約二〇倍近く拡大した。県経済の軍事基地依存度は、約一五%から五%に低下したが、近年また六%程度に上昇しているという。辺野古新基地建設のためだが、沖縄防衛局の工事の五〇%以上が本土企業で県外に流れる構造になっている。一人当たり県民所得、失業率、高校大学進学率などは依然として全国最下位近くから抜け出ることができない。
沖縄がダントツで全国一、が二つある。一つは出生率である。大分下がって来ているが、二〇一八年で一・八九、やはり全国一であり、社会の健全な在り方の一つの指標と言ってよいだろう。もう一つは米軍専用施設であり、多くの人は意外に感じるだろうが、復帰時の五八・七%から七〇・三%に拡大した。米軍の再編過程で、沖縄基地の日本全国での比重はかえって増えたことになる。負担軽減とは何か。政治の嘘を示す言葉だ。

日本政府を沖縄県民との連合政府に

 米陸・海・空・海兵隊の四軍の軍人・軍属・家族合わせて五万人が、米軍基地内外に、住民登録なしに暮らし、事件事故、犯罪、騒音、環境汚染を生み出し続けている。復帰後四八年の間に、米軍機・ヘリコプターの墜落事故は一年に一回の割合で発生している。何時どこに落ちるかわからないが、海上、山中、大学、海岸などに落ちた。必ずどこかに落ちる。こんなに危険なことはない。
米軍の犯罪は復帰後六〇〇〇件以上にのぼる。普天間基地と嘉手納基地からの騒音や有害物質の流出はとどまることがない。その上に日本政府は与那国、石垣、宮古、沖縄、奄美での自衛隊基地建設を住民の反対を押し切って強行している。
復帰後四八年になるにもかかわらず、こうした沖縄の現状は、沖縄を軍事利用する日本の政治の貧困・堕落を示すものに他ならない。沖縄は中央政府の道具ではない。沖縄をこうした状態にしている日本の政治を変えなければならない。変えることの出来る権限も責任も日本国民にある。5・15の復帰記念日を機に、沖縄県民に寄り添い、県民ぐるみの要望を実現する日本政府をつくる道筋を考えよう。その様な日本政府とは沖縄県民との連合政府でなければならない。そうでなければ、人口で全国の一%余りにしかならない沖縄は必ず少数派になる運命にある。

「沖縄は日本に期待しすぎていたのではないか」

 『沖縄タイムス』の復帰関連企画「五・一五を考える」の第一回で、県民投票の会の元山仁士郎さんは「沖縄は『日本』に期待しすぎていたのではないか」と書いた。多くの沖縄県民は日本がもっとましな、まともな国だと考えていたのだ。なぜなら、戦争放棄と国民主権、地方自治と民主主義の平和憲法を持っている、世界でもまれな国なのだから。ところが、うわべとは違ってその内実は、虫食い状態。日本は逆に、平和と人権をむしばむ国家になっていた。
昨年二月の県民投票は、辺野古新基地のための埋め立てに関する賛否について、投票率約五二%で、賛成約一九%、反対約七二%、どちらでもない約九%との結果だった。ところが、政府・防衛局は開票日翌日も埋め立て工事を強行した。元山さんは「日本国憲法に明記され、民主主義の一つの柱をなす住民投票の結果をないがしろにしたにもかかわらず、そのことに対して日本では、韓国や香港のような大規模なデモは起きなかった。県民投票の結果は、現政権のみならず、日本という国全体に無視されてしまったように感じざるをえない」と書いた。

辺野古埋め立てを中止し関連予算をコロナ対策へ

 一国の政府が国民生活といかに深く結びつきいかに大きな影響を与えるかを示したのが、この間の新型コロナウィルスの感染防止に全国が懸命になった三カ月間だった。日本の政治の貧困・無能ぶりがいやという程あらわになった。国の金をどう使うのか。無能な政府の政治家や官僚に任しておけないと多くの人々が感じたことだろう。自分たちのための自分たちの政府をつくる権限と責任は国民が持っている。
コロナの感染防止の非常事態宣言が縮小され、様々な自粛要請も徐々に解除され通常の日常生活に戻りつつある中で、辺野古の埋め立て工事をどうするのかということが重大な問題として浮上してきている。埋め立て工事を再開してはならない。辺野古の工事費を丸ごとコロナ対策費に回すべきだ。大浦湾の軟弱地盤に手を付けてはならない。地盤改良工事は無謀で危険な工事だ。
コロナ禍の最中提出された設計概要変更申請に対し、五月一五日、沖縄県は沖縄防衛局に対し、審査期間の目途を「一六三〜二二三日」と通知した。告示・縦覧に四五日、関係機関の意見聴取に六〇〜一二〇日、告示手続きに一四日、さらに修正・補正期間が加わるという。防衛局が書類を提出した四月二一日が起点となるので、県の判断が出るのは今年の年末から来年初めになるという。

県の設計変更の審査が終わるまで埋立工事を自粛せよ

 沖縄防衛局の報告によると、大浦湾でジュゴンの鳴き声が、二月に続き三月にも、六、九、一三、二五、二九日に確認されたという。ジュゴンが辺野古・大浦湾に戻って来たがっている。工事を止めてジュゴンを迎えよう。
政府防衛局は最低限、沖縄県の行政指導に従う次のようなルールを守るべきだ。すなわち、@年末から来年初め、県の審査が終わるまで、一切の埋め立て関連工事を自粛する、A県が変更申請を認可すればその時工事に取りかかり、県が不許可にすれば埋め立て工事を中止する。沖縄県の主権者は沖縄県民であり、沖縄県知事、沖縄県議会だ。日本政府は沖縄の主権者の意思に従え!
しかし、安倍政権があくまで埋め立て工事を再開しようとするなら、辺野古の現場で決して屈しない闘いを続けるまでだ。全県・全国から辺野古に結集しよう!

県内市町村の中国での戦争体験記を読む(一六)
日本軍の戦時暴力の赤裸々な描写

 中国侵略の日本軍には、県内各地からも多くの青年たちが動員されて命を落とし、また、戦争の実態を目撃し記録した。今回も前号に続き『宜野湾市史』から三人を紹介する。引用は原文のまま、省略は……で示し、補足は〔 〕で示した。敬称略。
仲村さんは一五歳で満州に渡り国策農業に従事していたが、敗戦後、収容所に入ったあと各地で色んな仕事をさせられた。『鉄の暴風』を読んだのも中国でだった。多和田さんは召集が一九四〇年、中支からソロモン島に転属となり、敗戦までいた。澤岻さんは一九四三年入隊、北支から大陸縦断しベトナムに到着、仏軍との戦闘で負傷し長期間入院治療した。
三人とも激しい戦闘や日本軍の残虐行為に関する言及は少ないが、収容所の惨状、苦しい行軍、栄養失調で次々と死ぬ兵隊、軍隊内暴力等、戦争の実態を明らかにしている。「聖戦」という名の不義の戦争に動員された兵隊たちは哀れであった。

『宜野湾市史』第3巻 資料編2
「市民の戦争体験記録」(一九八二年)
仲村春信「中国大陸で
『鉄の暴風』を読む」


我々は吉林省新京市〔満州国の首都の名前。現在、吉林省長春市〕の近くの東京奉国農場でジャガイモやトウモロコシを作って暮していた。
終戦だということで、新京に引き揚げになった。引き揚げ列車は超満員で、列車の屋根に乗って新京まで行った。新京では南冥寮という収容所に収容された。それは昭和二〇年九月から翌年四月まで、およそ七か月であったが、衛生状態が悪く、シラミが異常発生し、発疹チフスが流行して、人々はどんどん死んでいった。その数は一日に一五人ぐらいで、新京郊外に五万の穴が掘られ、死体はソリに乗せられ、毎日二往復運搬された。死体処理場では、穴は掘ってあったが、土が凍っていたため雪だけ被せて処理された。……
そのうち中共は昭和二四年十月一日、中華人民共和国として建国した。ところが日本は中共の存在を認めていなかったので、国交がなく帰国のすべはなかった。
……昭和二六年七月、初めて郷里に便りを出した。……懐かしい父からの返事は、母と弟を失ったという知らせであった。……
その時、最も印象に残ったことは、叔父の仲村春勝から『鉄の暴風』という書籍が送られてきたことである。それは貴重な書籍として重宝がられ、六〇人ぐらいの日本人がたらい回しにして読みふけったものである。四キロ離れた工場でも回し読みされたが、私のところに戻ってきた時は、表紙はぼろぼろになっていた。私たちはこの本を手にして故郷沖縄の悲惨を初めて知った。……

多和田真勇
「中国からソロモン諸島へ」

 戦争前、農業をしていた私にも軍から出頭命令があり、徴兵検査を受けることになった。しかし体の細い私は甲種合格ではなく第一補充兵であった。
そして、昭和一五年三月には熊本県黒石原在第六輸送連隊で一か月の訓練を受けることになった。……三か月後の七月には召集を受け中支……に配属された。
そこでは訓練も厳しかったが、何よりも冬の寒さがこたえた。それに食糧も満足に行き渡らず、ほとんどが自給自足を余儀なくされた。そのため兵士たちは栄養失調でバタバタ倒れ悲惨な状況となった。沖縄から派遣された一二人の戦友のうち生き残ったのは私を含めてたった三人だけだった。
中支には昭和一七年九月までいた。今まで日本軍が占領していた南洋の島々も敵の攻撃にあい苦戦続きとの情報が連日飛び交っていた。
一〇月に私たちの隊もいよいよソロモン諸島に転属されることになった。しかしソロモンでの日本軍の戦いは惨憺たるありさまであった。
ある日、敵の艦砲射撃がピタリと止んだ。私たちがヤシの木の間から空を見ていると敵の飛行機が上空を大きく旋回したかと思うと、急に地上すれすれに低空飛行してきた。すると飛行機から大きな白い布が垂らされた。その布には大きく「日本ハ降伏シタ、早クデテコイ」と書かれていた。まさか日本が負けるはずがないと、一瞬目をうたがい、目の前がくらくらとし動けなくなった。

澤岻安一
「連日一〇時間の強行軍」

 私が所属していた連隊は37師団の225連隊であったが、日本軍の最西部にあってそこの警備に当たっていた。私たちは訓練が終ると直ちに河南作戦に参加することになった。沖縄を出発してから約一年、北支に就いたばかりの頃は二等兵であった私も、すでに伍長になって小隊の分隊長を務めていた。
河南作戦に参加したのは昭和一九年二月であった。黄河を渡った私たちの部隊は、中国軍にくさびを打ち込むような形で前進を続けていた。……。
一日に約一〇時間も歩き続けるのだから、兵隊はすっかりくたびれて歩きながら眠っていた。雨に濡れても着替えることもできず、靴が破れると現地でそれを調達しなくてはならなかった。体は痩せ細って汗と埃にまみれていた。時には大きな民家に入って、水甕の水を使ってお湯を沸かして入浴したこともあった。衣服を釜ゆでにするとお湯の表面にシラミが沢山浮いていたものだ。
私たちは最前線部隊に属していたので、しばしば危険な目にあった。約二キロも離れた大隊本部へ命令を受領しに行って帰る途中、中国軍に追っかけられたこともあった。また、河南作戦の時は城壁の中へ斥候に行き、中国兵に襲撃されて命からがら逃げてきたことがあった。……
中隊は正規の編成では約一六〇人であったが、行軍の途中で死者があいつぎ、無事仏印(仏領インドシナ、現在のベトナム) に着いたのは百人ぐらいであった。戦闘で死んだのは十二、三人で、その他はほとんど生水を飲んで下痢を起し、それがもとで栄養失調になって死んだのである。その大部分は初年兵たちであった。
初年兵にとっては行軍もきつかったが、宿舎でも古参兵らが幅を利かしていたので、ほとんど休む間もなくこき使われていた。だから喉が渇くと生水をガブ飲みして下痢を起したのであった。昭和一九年に入営した初年兵は、私たちの中隊に約八〇人いたが、無事に仏印まで到着することができたのは、わずか七、八人であった。



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