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    かけはし2020年6月8日号

工事予算はコロナ対策費に回せ!


沖縄報告 5月31日

破綻した辺野古埋め立て工事は即刻中止!

沖縄 K・S

沖縄県が防衛局に56項目の修正指示

 沖縄防衛局が四月二一日に提出した辺野古埋め立てに関する設計概要変更申請に対し、沖縄県は五月二五日、説明が不明確な点をはじめ、誤字脱字、他の資料との矛盾点など五六項目について修正を求める補正指示書を出した。
 その結果明らかになったことは、@埋め立て用土砂は県内だけでなく、県外からも調達予定とされていること。防衛局はやはり、全国から搬入するつもりだ。候補地はこれまで防衛局が調べてきた通り、鹿児島、熊本、長崎、佐賀など九州各県だろう。A県内の場合も、本部町・名護市・国頭村の「北部地区」だけでなく、「南部地区」が明記されている。糸満市や八重瀬町から埋め立て土砂搬出が計画されているのだろう。
 沖縄県はその他、@サンゴ類を移植したのちの影響、A埋め立てに使用とされる「公共用残土」「リサイクル材」の具体的な種類・品目、B「北回り」および「南回り」とされている土砂運搬の経路、などについて明らかにするよう求めた。一カ月の回答期間の後、七月に埋め立て変更申請書が告示・縦覧される予定だ。

中断した埋立工事を再開せず中止せよ

 埋め立て工事は五月三一日現在中断されたままだ。ダンプや重機の動きもなく、海保も警備船もいない辺野古・大浦湾の海は静けさを取り戻している。護岸やフロートはそのままだが、おそらくジュゴンも回遊してきているに違いない。
六月七日の県議選が終われば政府は工事を再開しようとするだろう。当面水深の浅い辺野古側の埋め立てを継続するだろうが、変更申請では軟弱地盤の地盤改良工事の計画を明らかにした。大浦湾の軟弱地盤に手を付けてはならない。埋め立て区域内に広範囲にわたり一部は水深九〇mにおよぶ軟弱地盤の改良工事はとてつもなく大きな負荷を環境に与える無謀で危険な工事だ。防衛局の試算でも九三〇〇億円という巨額の費用はおそらくもっと天文学的に膨らむのは確実だろう。
この間の全国民を巻き込んだ新型コロナ感染防止と命を守る取り組みの中で、アベノマスクに象徴されるように、日本政府がいかに無能で無責任かということが明らかになった。税金の無駄遣いを一番やっているのは安倍政権だ。コロナで壊れた人々の生活を立て直すのはこれからだ。仕事やバイトがなくなった人、売り上げが急落した業者、学生生徒、外国からの留学生など、たくさんの人が生活苦で困っている。
コロナで中断されている辺野古埋め立て工事を再開せずに中止せよ。埋め立て予算をそっくりそのままコロナで苦しむ人々を救うための対策費とせよ。米軍のために使う金は一円もない。県民がこぞって反対する辺野古埋め立てを中止し、子供の貧困率が全国平均の二倍に象徴される沖縄の現状を打開するために予算を投入せよ。

強盗犯の米軍人軍属を逮捕できない日本の現実


全国の米軍専用施設の七〇%以上を占める沖縄では、繰り返される事件事故、米軍犯罪、騒音、環境汚染が起きている。普天間飛行場から有害物質・有機フッ素化合物の泡消火剤が大量に流出した事故に続き、五月中旬には二人の米軍人軍属が北谷町の外貨両替所から六九〇万円を奪う強盗事件が起こった。復帰後の米軍犯罪は六千件以上にのぼる。今度の犯人は、嘉手納基地の陸軍一等兵と軍属であることが分かっている。しかし、県警は逮捕できない。
なぜか。日米地位協定でそう決まっているからだ。国民は、日本は独立国で米国との関係は対等の「同盟国」と思っているかもしれないが、事実はそうではない。歴代自民党政府は、米国に従属した日本の現状を打ち破ろうとはせず、ただ言葉の上でだけ「対等」「同盟」を言い繕うことに努力してきた。欺瞞の政治はもうやめよう。安保条約と地位協定で米軍に従属した日本の現実を真剣に見つめ、打破する道筋を考えよう。

県議選で新基地NO!の
県民の意思を突き付けよう


五月二九日告示された沖縄県議会選挙は六月七日投開票で結果が出る。定数四八の議席の内訳がどうなるか、辺野古新基地反対を県政の柱とする玉城デニー知事を支持する与党が引き続き多数派を占めるか、野党自民・公明との差をどの程度維持するか、ということが焦点になる。社民・社大・結連合と共産党、翁長知事の流れをくむ保守系の「にぬふぁぶし」、そして基地反対の無所属を含めた力が新たな県議会の圧倒的多数を占めることができるために全力を尽くそう。
県議選で玉城デニー県政の与党連合が勝利すれば、県民ぐるみの新基地反対の闘いはさらに一歩前進する。県民投票で示された確固たる民意、県知事、県議会がそろって、文字通り県民ぐるみで、新基地反対、埋め立て中止の声をあげることになる。これまで、県民の声を無視して埋め立てを強行してきた日本政府・安倍政権に対する大きな圧力になり、たやすく沖縄の声を無視できなくなる。
その後はまた近いうちに衆院選挙が控えている。そうしたらまた、辺野古NO!の県民の意思を突き付ければいい。屈せずあきらめず粘り強く、沖縄の声を大きく上げ続けて行けば、必ず政治は変わるし、変えられる。この間の一律一〇万円支給、検察官定年法案の見送りなどは、広範な声が盛り上がれば政権の横暴を止めることができることを示した。主権者は県民、国民だ。堂々と声をあげ政治に参加しよう。

首里城地下の日本軍司令部と
1945年5・22軍会議

 県民の大きな再建への願いを背景に、首里城は今再建へ向けた動きを加速している。沖縄県は首里城復興基本方針に、首里城地下の日本軍司令部壕の保存を明記、公開はバーチャル映像で行うとの考えを明らかにした。それに対し、実物を保存・公開すべきだという、各地の平和ガイドをはじめとした県民各層の声が大きくなっている。
一九四四年一〇・一〇空襲の後、長野県の松代大本営と並んで、建設が始まった首里城地下の日本軍司令部壕は、沖縄全土を廃墟と化し、一五万人の県民の命を奪った沖縄戦の物証である。一九四五年五月二二日、この地下司令部壕の会議で、大本営の意向を受けて、住民十数万人が避難している南部へ撤退し戦争を引き延ばすことを決めた。こうした戦争犯罪の現場でもある。
瀬名波栄喜元名桜大学長などをメンバーとする「第32軍司令部壕保存・公開を求める会」は、県のバーチャル・リアリティの方法では「地上戦の恐ろしさは伝わらない」「残虐な沖縄戦の実相を伝える平和の砦としなければならない」として、あくまで壕そのものの公開を強く求めている。
首里城地下の日本軍司令部壕は地上の首里城と一体で再建されなければならない。地上の首里城がユネスコの世界遺産であるなら、地下の日本軍壕は凄惨な沖縄戦の戦争遺跡として再建・公開されてこそ、沖縄の歴史をトータルに示すことになる。再建された首里城地下に公開される第32軍司令部壕は、摩文仁の平和の礎と共に、沖縄からの強い平和の発信地になるに違いない。

県内市町村の中国での戦争体験記を読む(18)

日本軍の戦時暴力の赤裸々な描写


中国侵略の日本軍には、県内各地からも多くの青年たちが動員されて命を落とし、また、戦争の実態を目撃し記録した。県内各地の市町村史の戦争体験記録にはそうした証言が数多く掲載されており、日本軍による戦争の姿を赤裸々に描いている。今回は前号に続き『具志川市史』を紹介する。
安慶名さんは一九四二年徴兵検査を受け、翌年一月、宮崎県の歩兵23連隊に入隊し、中国へ派兵。中国軍との戦闘、捕虜殺害、略奪、インドシナ半島への行軍、マラリア、捕虜生活などについて証言している。

『具志川市史』第5巻
「戦争編 戦時体験U」(2005年)

安慶名正信


冲縄にいたら兵隊にとられるので、一九三九年(昭和一四)に南洋へ行った。南洋では飛行場造りをやった。戦争がきびしくなって、日本軍はアスリート飛行場を造ることになった。石山砕石の現場で働いて、台車一台いくらと給料をもらった。……
昭和一七年四月に徴兵検査を受けるため沖縄に帰ってきた。帰るときはサイパン支庁に申請をするが、徴兵検査で帰るというと優先的に帰れた。まず大阪へ行き、そこから沖縄に帰ってきた。
徴兵検査は嘉手納の農林学校で受けた。徴兵検査を二か年延期願いしてあったので、数えで二四歳になっていた。検査にいったのは昭和一七年五月半ばごろで、……その結果は甲種、乙種、丙種の三段階に分かれていた。友治は甲種合格で、私と順吉は乙種合格であった。身長は高いが痩せていたからだと思う。……
徴兵検査のあと、入隊まで平良川の記念運動場で兵隊の訓練があった。……福原兼秀さんと平良川の岡本という方が指導者で、在郷軍人会の指導者であった。訓練は行軍や射撃とか軍隊にあるものは何でもあった。また、軍人勅論の教育もあった。入隊してから衛兵とか初年兵になるから、向こうにいってからの心得などいろんなことを教えられた。毎日午後三時ごろにいってタ方までやった。
役場から通知の赤札が郵便で届いて、一九四三年(昭和一八) 一月一一日に入隊した。入隊式は那覇の桟橋で行われ、県知事や各市町村長もいらしていた。現役兵として歩兵第23連隊に宮崎県の都城で入隊した。それから五、六日してすぐ都城を出発した。……
朝鮮に上陸して朝鮮と満州の国境を汽車で通過し、最終的に北支に着いた。3544部隊第2大隊第5中隊。第5中隊に編入された時点までは教育の期間で、六月一日からは陸軍の一等兵になった。……
私たちが入隊するときには五〇名いたが、最後まで生き残ったのは十三名しかいない。戦闘だけじゃなく、病気で死んだり転属になったりした者もいた。
河南作戦というのは、中国に河南という大きな町があって、その町を占領する戦い。河南作戦は中国ではすごい激戦となった。日本軍は五〜六千名ぐらいいて、全部日本が占領した。そのときの中国人の兵隊も捕虜として捕らえた。その兵隊をチュンゴピン(中国兵)といっていた。捕虜は四、五日は一緒に連れて、あとは捕虜がいっぱいになるから銃殺した。捕虜は連れていっても必要ないから四、五日に一回は全部殺す。銃剣で刺すとあとで手入れしないといけないから、具志川グスクみたいな高い山に連れていって、四〜五〇名逃げられないように手を紐(ひも)でしばって崖から一回に突き落としていた 。捕虜を殺すのは日本軍の作業班がいて、私たちは直接かかわらなかった。
部隊は捕虜を連れていくと食糧もあげないといけないから、多く連れていったら自分たちの食糧に影響するから、殺さないといけない。食糧も日本軍がずっと送ったらいいんだが、占領したらこっちにあるものは全部徴発する。そこにある食べ物を全部徴発しないとこれだけの兵隊はまかなえない。自分たちも徴発をかなりやった。……
河南作戦を乗り切ってつぎはショウケイ作戦。ここでは特に印象に残る戦いはないが、日本軍は勝ち戦であった。ここでも捕虜をとったらまかないきれないから、作業班が処理をしてつぎに進むという具合であった。捕虜を逃がしたら逃がした人が罰を受ける。これが日本の軍隊のやり方だった。
一九四四年(昭和一九)六月に陸軍上等兵となり、翌四五年一月には兵長になった。……
だんだん支那、仏印(フランス領インドシナ)国境へ、支那とマレー半島の国境を通過する。その間ずっと行軍だけで戦闘はなかった。ハジャイからタイの国境を通過した。私はマラリアに罹って野戦病院に入院し、一一日間意識不明になっていたそうだ。……
国境を通過していると、本土から無線が来て、終戦になった。日本は負けたということがわかった。
武装解除は仏印のハジャイでだった。……収容されたところがスンガーバタンである。連合国はイギリス軍であった。……作業は山を開拓したり、自分たちで耕してタピオカや自分たちが食べる物を作った。……イギリス軍に捕虜になった時は乱暴は受けてないし、病気をしたら治療もしてくれた。……イギリス軍から尋問はなかったが、下士官だと尋問されるから、階級は全部とっていた。一等兵も二等兵も階級は全部外した。預金通帳も全部焼いてしまった。隊長命令だから仕方がない。
一九四七年(昭和二二)四月二九日までイギリス軍の作業をして帰ってきた。




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