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    かけはし2020年6月22日号

辺野古埋立の中止は不変の民意


沖縄報告 6月14日

日本政府・安倍政権は民意を尊重し、工事を中止せよ

沖縄K・S

コロナ感染防止に留意しつつ現地闘争

  県議選から五日後の六月一二日、沖縄防衛局は四月一七日から中断していた辺野古埋立工事を再開した。米海兵隊キャンプ・シュワブの工事用ゲートからは資材を積んだ工事用車両一一一台が進入し、フロートで囲まれた大浦湾に本部半島からの土砂運搬船が入り、ダンプが列をなして辺野古側の埋め立て区域へ赤土を運び投入した。
 玉城デニー知事は「工事再開は極めて遺憾。新基地反対の民意は明確。辺野古断念を求める」と述べた。さらに、ジュゴンの鳴き声が再三確認されていることに関連して、「直ちに工事を止め、工事によるジュゴンへの影響を再調査すべし」と訴えた。
 オール沖縄会議傘下の各団体、個人は直ちに行動に取り組んだ。コロナ感染予防のため「マスク着用」「三密回避」などに留意しつつ、辺野古ゲート前には数十人が結集し、工事用ゲート前に座り込んだ。海上では、カヌー七艇と抗議船二隻で、埋立工事の再開に抗議した。沖縄にはもう新しい米軍基地はいらない! という県民の不変の決意を背景とした闘いは勝利を手にするまで終わらない。

民主主義的に示し続けている埋め立て反対の民意


 六月七日投開票の県議会選挙(定数48)は、玉城デニー知事を支持する与党が過半数の二五議席を占めたのに対し、野党の自民党一九議席、中立を掲げる公明・旧維新の四議席となった。四年前の県議選に比べて、与党は二減、野党は四増、中立は二減だ。
 その結果、知事や与党の周辺で「期待外れ」「事実上の敗北」という声が上がり、沖縄自民党は議席増を喜んだ。しかし、県議選の結果は単純に、玉城デニー知事の与党が多数を占めたことに尽きる。玉城知事が八日未明の記者会見で述べたように「民意は揺らいでいない」のだ。単一の政策に対する賛否を問う住民投票や意識調査と違って、議員選挙は国会議員、県議会、市町村議会となるにしたがって、政策以外の様々な要因がより強く作用する傾向が大きい。その中でやはり、県民は「辺野古新基地反対は県政の柱」と主張し続ける玉城デニー知事の県政与党を選んだのだ。
 二〇一四年の翁長知事を選出した知事選挙以来、足掛け七年にわたって県民は一貫して、知事選挙、衆参議院選挙、県議会選挙を通じた民主主義の方法で、辺野古新基地反対、埋立反対の意思表示を行ってきた。県知事も、県議会も、沖縄選出の国会議員も、県民投票もすべて、辺野古新基地に反対している。沖縄の民意は不変だ。ところが、日本政府・安倍政権は行政をねじ曲げて沖縄を踏みにじって恥じない。

坂本龍一さんのインタビュー


 琉球新報は、六月一〇・一一日号で「コロナ禍の先へ(特別版)」と題して松元剛編集局長による坂本龍一さんのインタビューを掲載した。坂本さんは今年一月、吉永小百合さんとのジョイント・コンサートで来沖した際、辺野古の海を船で視察し、「この美しい自然を壊して基地をつくる意義があるのか。引き返せるのに、回転し始めた歯車を止める勇気がこの国にはない」と指摘していた。
 今回のオンライン・インタビューで、坂本さんは次のように述べた。
 
 「辺野古の基地は常識的に考えると完成しない。仮に完成できても使い物にならないのでは。普通に考えたら機能しない。やってますという、ただのアリバイでしょう。貴重な国民の税金を無駄につぎ込むのか」
 「日本の民主主義は非常に特殊で、ねじれていると感じる。政府上層部が反民主主義的で、独裁的です」
 「日本はフランス革命前のような社会。市民革命が起きていない。台湾も韓国も、それまで軍事独裁という非常に過酷な状態だったのを、国民の汗と血でひっくり返した。……日本人はそのような経験がないので、民主主義の大切さが分からない」等々。
 民主主義は単なる形式、建前ではない。辺野古の闘いは沖縄と日本に主権在民、民主主義を根付かせる試金石でもある。辺野古新基地阻止の闘いを全県、全国の力で必ず勝利させよう。

〈カヌーチームTさんの報告〉

感染防止を海上保安官に迫る


6月12日(金)辺野古・大浦湾
 
 朝八時過ぎから大浦湾にランプウェイ台船四隻、ガット輸送船三隻が入った。私たちは長島を越えて大浦湾に入り抗議を行った。目の前を通過する超大型台船、輸送船を見ながら本当にやるせなく悔しい思いをした。
 大浦湾に入ったガット輸送船からランプウェイ台船に赤土が移され一一時四五分ごろK9護岸に接岸した。私たちはフロートを超えて抗議&阻止行動をした。拘束されて解放されるまでGB(ゴムボート)上では今までとは違った対応をしなければならない。すなわち狭いGB上でいかに “密” を避けるか、マスクの着用は当然だが海上保安官の協力も必要である。さいわい、GB上では定員八人のところ六人で乗船、今まで一時間ぐらい拘束されて運ばれたのが約三五分と短縮された。これで十分ではないが徐々に話し合いをして改善していきたい。
 
6月13日(土)辺野古

 梅雨が明け青い空が現れた。
八時二〇分、松田ぬ浜(辺野古の浜)を出艇した。K8護岸ではランプウェイ台船が接岸していてダンプカーがひっきりなしに乗り込んで赤土を運んでいる。このような状態だと私たちはプラカードを上げて抗議する以外は、なすすべがない。
台船には赤土が半分ぐらい残っているので私たちは待つことにした。これが空になり赤土満載の台船がK8護岸に接岸する時、わずかな阻止行動のチャンスだ。
待つこと二時間強、昼近くなって台船の入れ替え作業が始まった。いつものように阻止行動を行ったがすぐに拘束される。

6・23 75年目の慰霊の日
彦山丸の陸軍軍属・横田茂さんも刻銘


また、慰霊の日がめぐりくる。日本が天皇制を守るために遂行した沖縄戦から七五年、今年も平和の礎には新しい犠牲者の名前が三〇人刻銘される。内訳は沖縄県二〇人、県外九人、米国一人との事だ。現在刻銘作業に入っていて、二三日の慰霊の碑には新しい刻銘版が設置される。一九九五年の平和の礎の設立から二五年を経てもなお、新たな犠牲者の名前の刻銘が終わらないのだ。

県内市町村の中国での戦争体験記を読む(19)
 日本軍の戦時暴力の赤裸々な描写


県外の九人の中に、本部町健堅の彦山丸の一四人のうち、当時一五歳の陸軍軍属・横田茂さんの名前が、三重県在住の弟さんが遺族として申請し、刻銘されることになった。彦山丸犠牲者の中では、朝鮮半島から連行された二人の陸軍軍属、明長模(ミョン・チャンモ)さん、金萬斗(キム・マントゥ)さんが刻銘されたが、日本人の軍人軍属はどういう訳か数人を除いて、刻銘されていなかった。
健堅の遺骨を故郷に帰す会では、有志が当日三重県の刻銘版の横田さんのところで、献花し、そののち、朝鮮・韓国の刻銘版の前でも献花する計画だ。
中国侵略の日本軍には、県内各地からも多くの青年たちが動員されて命を落とし、また、戦争の実態を目撃し記録した。今回は恩納村の『字誌山田』を紹介する。『字誌山田』は発行が二〇一九年だが、証言の採録はほとんど一九九一年に行われた。今回の上原幸成さんの証言は、高等小学校を卒業してからの様々なできことと軍隊生活、マレー半島での終戦と捕虜生活、帰還までを語っている。

恩納村『字誌山田』(2019年発行)

上原幸成「砲弾の中をくぐり抜けて帰ってきたら」


……山田尋常高等小学校二年(現在の中学校にあたる)を十五歳で卒業し、しばらくは家の手伝いをしていました。十九歳の時、大阪に行きました。約一か年間働き帰ってきました。二十歳になると徴兵検査があったからです。徴兵検査の結果は第一乙種でした。しばらくは軍属として伊計島の陣地構築作業をしました。二十一歳には開拓移民として満州に行き、約八か月間働きました。食料増産隊と呼んでいました。
召集令状の赤紙をもらって入隊したのは、昭和十八年(1943年)、私が二十二歳の時でした。戦争が激しくなってからの補充兵召集で、山田からは糸数世永氏と二人でした。当時の山田の戸数は百二十戸ぐらいでしたので、村中の人、七、八十人ほどが、アジマー(現在の山田十字路)に集まっていました。婦人会が中心になり、いわゆる出征軍人を送る集会です。日の丸の旗が振られ、軍歌を聞きながら山田を後にしたものです。
……誰の荷馬車かは忘れたが、荷馬車に乗って嘉手納まで行き、嘉手納からは、軽便鉄道の汽車で那覇まで行きました。父親は、私が三歳の時亡くなっていましたが、母親は健在だったから、出征の時は、チャーンナラン、イカシカタ(どうしようもない、見送り)だったと思います。那覇港から宮崎の都城に着き、そこで約二週間仮入隊して、戦地である中国の北支(現在の華北地方)にむかいました。北支までは、都城から朝鮮の釜山に着き、釜山から約二週間ぐらい汽車に乗ってやっと着く長い道のりでした。
北支で私が所属した部隊は、光3544部隊の226連隊でした。九州師団の中でも最強師団だといわれている部隊でしたから、中国では約一か年半ぐらい第一線で戦争にかり出されました。北支にいる頃、私は上等兵の階級になり、機関銃(軽機銃)班でありましたので、それこそ大変な目にあいました。食事はない日の方が多く、現地中国から卵や野菜に米等を強奪して飢えをしのぎました。三日ぐらい何も食べない時もあり、人間は、三日ほど食べないと目がかすんで見えなくなるものです。……
北支から中支、南支と砲弾の中をくぐりぬけて南下しました。強行突破する時は十六里 (六十四キロ)ぐらいはずっと歩きばなしで、しかも重装備をして重い荷を背負っての行軍は、ついていけない兵隊がかなり出ました。衣類、野戦食(カンメンボウ)、洗面具等が入っている背のうの上に毛布をくるみ、擲弾筒六発(一発二キロぐらい)、小銃の弾、ショベル、直足袋や軍靴の予備といったものが重装備の内容です。また、戦地では、食料用の米を靴下の中に入れて持っていたし、だいたいの兵隊が遺骨を持っての行軍でしたから、約五十キロの重さになります。……
中支(華中地方) では、日高軍曹が目の前で銃弾に撃たれ即死しました。……戦死すると遺体は焼き、弁当箱(ヤナギゴウリ)の中に遺骨を入れ、駐屯地まで運び、駐屯地にある遺骨収集所に届けました。そこから日本へ送るという仕組みになっていたようです。……
南支(華南地方) では水田が多く、南京米がわりと多く北支ほどの食糧難ではありませんでしたが、四十人ほどの選抜上等兵が四人位しか残らない有様でした。そのほとんどが戦死か、ついていけない敗残兵で、第一線からいなくなりました。中には、日本軍の上級官のしごきに耐えられず自殺した兵隊もいました。
南支からは、仏領インドシナ半島(現在のベトナム)に入り、タイ・マレー半島と進み、私はマレー半島で終戦を迎えました。……

シンガポールにおける収容所では、港湾労務にかり出され、しこたまこき使われました。ビスケット三枚だけの食事であるとか、一食分に相当する量の食事が三食に分けられたり、捕虜のほとんどが重労働と空腹にあえいでいました。ですから、港湾での荷運搬の荷物に食用類があるとそれを失敬していたし、ミルク缶があるとわざとこぼしたりで、奴隷同然の生活でした。山手の弾薬処理場に行く時は、その周辺にくだものや、タピオカがあったのでそれを食べて飢えをしのいだものです。……
捕虜生活二年後に、輝山丸という舟に乗り、長崎に着き、約一週間滞在した後、沖縄の久場崎に帰ってきました。昭和二十二年の八月でした。
兵隊から帰って山田に着いてみると、家は焼けて跡形もなく、誰もいませんでした。母は戦争中に栄養失調で病死したことを知らされました。長男もフィリピンで戦死したとのことでした。……
いま考えてみると、在学中は修身で、入隊してからは軍人勅諭と人殺しの教育をされ、とんでもない教育だったと思います。戦争は損ナティン絶対スセーアラン(損をしても絶対にやってはいけない)
戦後しばらくして琉球政府に恩給の陳情をしに行きましたが、戦地に行ったら一年が四年の計算をやり、合計十二年以上でないと恩給は受けられない説明をうけました。私は、戦地に二年半いましたから、十年の計算になり「六か月足りませんね」と言われて帰されました。実に情けない恩給制度ではありませんか!(聞き書き1991年2月4日)



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