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    かけはし2020年6月29日号

辺野古新基地建設白紙撤回へ


沖縄報告 6月21日

破綻した埋立工事の中止を!

沖縄 K・S

6.19

国地方係争処理委がおかしな結論

“農水相の指示は適法”
“県の判断引き延ばしは違法”


 沖縄防衛局が昨年沖縄県に対して行った辺野古・大浦湾のサンゴ移植申請について、農水相は、県が標準処理期間を過ぎても判断を示さないのは違法だとして、今年二月二八日に、早く許可をおろすようにとの是正の指示を行った。沖縄県は三月三〇日、「国の違法な関与にあたり、県の自主的な行政権を踏みにじるもの」と、農水相の是正の指示の撤回を求めて、国地方係争処理委員会に審査を申し出た。その審査結果が今回明らかにされたのである。
 国地方係争処理委員会は公平中立な第三者機関とされるが、審査結果を見ると、政府の行政の一部にすぎない実態が浮かび上がる。係争委は、県と国が地方自治をめぐってきびしく争っている現実の争点から目をそむけ、@二〇一三年の仲井真知事の埋立承認は有効、A農水省の是正の指示は適法、B県が標準処理期間を引き伸ばして判断しないのは違法、と述べる。
 係争委を構成する委員は五人。国会の承認を得て総務相が任命する。行政が歪められることのないようしっかりと役割を果たすべきところだが、情けないことに、全員政府の提灯持ちだ。玉城デニー知事は「国の違法な関与を容認するもので、誠に残念」と述べた。沖縄の闘いは続く。県は七月中に提訴する見通しだ。

琉球新報が世論調査

70%が普天間閉鎖 県外・国外へ

 琉球新報は、六月中旬までに、沖縄テレビ・JX通信社と共同で県民意識調査を実施した。その中で、三つの質問に対する回答を紹介しよう。
@あなたは安倍内閣を支持しますか。
支持する  18・73%
支持しない 66・33%
分からない 14・94%

Aあなたは玉城デニー知事を支持しますか。
支持する  61・55%
支持しない 21・31%
分からない 17・13%

Bあなたは、普天間飛行場の返還・移設問題について、どのように解決すべきだと思いますか。
沖縄以外の国内移設 19・72%
国外移設 19・52%
辺野古に移設 17・13%
辺野古外の県内移設  2・99%
無条件の閉鎖撤去 30・28%
その他 10・36%

 沖縄の民意は明確だ。「主権在民」は単なる飾りであってはならない。沖縄に民主主義を!

政府与党からも出る辺野古見直し論


六月一六日、県議会の会派が決まった。与党は、沖縄・平和(旧社民・社大・結連合、仲村未央代表)八人、共産(渡久地修代表)七人、てぃーだネット(瑞慶覧功代表)七人、おきなわ(赤嶺昇代表)三人、合計二五人。対する野党は、自民党一九人、公明二人、無所属の会(旧維新)二人である。こうして、県知事も県議会も県民投票で示された県民の総意もすべて辺野古NO!を県民ぐるみで訴える闘いが継続する。
辺野古・大浦湾の埋立工事は破綻している。不可能だ。敢えて強行しようとすれば、とてつもない環境破壊、気の遠くなるような工期と費用を要するだろう。そのため最近、政府与党の周辺からも見直し論が出ている。

埋め立て工事
の即時中止を
中谷元防衛相は「十数年、一兆円かかる。完成までに国際情勢が変わる」と述べ、辺野古移設の不合理性を指摘した。民主党政権で防衛副大臣を務めた長島衆院議員(自民)は「あと一五年、コストは青天井の辺野古も、イージス・アショアのように見直すべき」と述べ、国民民主党の玉木代表は「以前は辺野古基地賛成だったが、軟弱地盤が発見され、工期もコストも目途が立たない。冷静に分析すべき」と述べた。
かれらはみな「日米同盟」派だが、辺野古新基地建設の破綻が誰の目にも明らかになっていることを反映している。埋立工事を一刻も早く中止せよ!

設計変更の縦覧に全国から多数の意見書を

 沖縄防衛局は六月一八日、県が求めていた五六項目に関する補正書を県土木建築部に提出した。その結果、次の手続きは、設計変更書の告示・縦覧に移る。おそらく七月初旬ごろになる可能性が高い。
二〇一三年の埋立承認申請に際しては、全県全国で意見書の取り組みを行い、三三七一通の意見書を県に提出した。今回もたくさんの意見が集まれば、埋め立てを止める力になる。
防衛省が提出した設計変更申請書は、間もなく沖縄県のHPに掲載される。意見書の形式は、県のHPからダウンロードできる。見出しは例えば、「設計概要変更申請書(名護市辺野古)にかかわる利害関係人の意見書」というようにする。記入上の要点は、@個人でも団体でも提出可能。団体の場合は、団体名、代表者、事務所の所在地を記入、A期限は縦覧期間中の三週間。郵送or持参、Bあて先は、沖縄県知事玉城デニー、C利害関係の内容および意見について書く。利害関係人とは自ら利害関係があると思う人で、誰でもなることができる、Dあて先は、〒900―8570 沖縄県那覇市泉崎1―2―2 沖縄県土木建築部海岸防災課(電話098-866-2410)
全県全国からたくさんの意見を集中しよう。

辺野古、安和、塩川、海上で連日断固とした闘い

 六月一五日から、コロナ感染防止のための自粛が解除となり、辺野古埋立工事が再開されると共に、新基地に反対する現地闘争もまた始まった。キャンプ・シュワブの工事用ゲート前、土砂搬出の琉球セメント安和桟橋と本部塩川港、辺野古・大浦湾および安和の浜でのカヌーチームの海上行動が連日展開されている。本土・沖縄間の移動制限も解除された。全県全国から辺野古現地行動に結集しよう。

〈カヌーチームTさんの報告〉

六月一五日(月)辺野古・大浦湾

晴れ、日中の気温三〇℃を越えて暑い。
八時二〇分:松田ぬ浜(辺野古の浜)を出艇してK8護岸に向かった。
K8護岸ではすでにランプウェイ台船が離岸しつつあった。空の台船と赤土満載のランプウェイ台船の入れ替え作業が始まり、フロートを越え抗議&阻止行動をした。たちまち拘束され松田ぬ浜に送り返されるが、ただちに抗議船に乗り、K9護岸に向かう。
台船には赤土が1/4ぐらい残っている。ダンプカーがひっきりなしに船に乗り込み赤土を運んで行く。待つこと二時間、赤土満載の台船がK9護岸に接岸する時のワンチャンスに対して、フロートを越えて阻止活動を行い、拘束される。

六月一七日(水)安和

 今日も晴れ、日中の気温は三一℃と暑い。ただし、風が強く安和の海上では八m/s、波も高く約一mはあった。今日の参加は九人+サポートのゴムボート二人での海上行動である。カヌーを九隻積んで安和を目指す。
現場に到着するとすでにガット船に赤土の積み込みを開始していた。およそ一〇時半には赤土の積み込みが終了すると予想。
カヌーは通常は予想の一時間前に浜を出ることにしているので九時半には出艇する。
現場に着くと各自思い思いの場所に取り付き、カヌーを固定する。実際、海上保安官が海に飛び込んできて、全員が拘束されるまで約一時間粘った。暑い中、二カ月ぶりの闘いとしてはかなり頑張ったと思う。
一〇時半ごろから船上より大音量の音声を浴びせられる。三分に一回程度、同じ内容を三回「危険です。直ちに船から離れてください」と叫ぶ。すぐ近くににスピーカーがあるのでとても耐えきれない。騒音計で測定すると、なんと一〇六・九デシベルあった。
*一〇〇デシベル:地下鉄の電車の中。

 ちなみに六デシベル違うと音の大きさ(音圧)は二倍になります。すなわち一〇六・九デシベルは地下鉄の電車の中の二倍の音を約1時間にわたって浴びせられたと言うことです。これほどの音の暴力に対して私は強く抗議します。

県内市町村の中国での戦争体験記を読む(20)
日本軍の戦時暴力の赤裸々な描写


中国侵略の日本軍には、県内各地からも多くの青年たちが動員されて命を落とし、また、戦争の実態を目撃し記録した。県内各地の市町村史の戦争体験記録にはそうした証言が数多く掲載されており、日本軍による戦争の姿を赤裸々に描いている。
省略は……で示し、補足は〔 〕に入れた。

恩納村『字誌山田』(2019年発行)
糸数豊吉「戦争にあけくれた青年時代」


私は大正六年(一九一七)六月六日生まれです。昭和一二年(一九三七)私が二〇歳の時、徴兵検査を受けました。名護の東江尋常高等小学校がその検査場で、パンツ一本になり身長や体重等の測定や性病などの検査を受けました。第一乙種合格でしたが、すぐ兵役にかり出されたのではなく、しばらくは農業をしていました。……
昭和一三年(一九三八年)四月一日、 熊本の輜重隊に入隊し、約四か月の軍隊教育を受け、それから同じ熊本の工兵隊に転属、二〇日ほどして戦地へとかりだされた。熊本輜重隊での教育は、軍人として一通りの基礎訓練が主であり、軍規がたたきこまれ、特に軍人勅喩は徹底して暗記させられたものである。
門司港から出発したが、船の中で冨着出身の冨着和政氏も一緒だった。玄界灘を通り約三日間上海入口で停泊するまで揚子江を通っていることは知らなかった。水が赤く濁っているので変だとばかり思っていた。
そこからまず南京に駐屯した。私たちは後方部隊で南京陥落の後だったので激しい戦闘は避けられた。が、作業を終え山道を通る途中、中国兵のまちぶせでやがてやられることもしばしばあった。南京では作井隊に属し、水道をうちこみ水脈をあて、手動ポンプを造り前線に水をおくりこむ仕事をやった。南京は糧秣輸送の中継地や、配転(属) の要地になっていた。移動もトラックでおこなわれた。
約一か年位、南京にいたが、そこから次は安慶〔アンチン、安徽省の地方都市〕に移動し、安慶では炊事にまわされた。戦友二人で現地から徴発した肉用の豚をトラックから逃がしてしまい、それを探すのにとんだ目にあったりした。……
南京では、相当の死者が出た。シシ山には野ざらしの遺骨がゴロゴロしていた。
南京からシシ山に待機し、一時帰国する輸送船に乗って広島の宇品に着いた。検疫を受けてから後上陸し、熊本の工兵隊にて解散した。……
昭和一九年には伊江島へ徴用され、再び召集令状(赤紙) がきて、郷土防衛隊として悲惨な沖縄戦にかり出されていった。

上間幸成「父、母、妹を戦争で亡くす」
父は、私が八歳の時(一九二八年)、母と妹は私が一二歳の頃、南洋(サイバン)に出稼ぎに行っていましたから、出征の見送りに家族は一人もいませんでした。親戚のおじさん(上間幸一氏)等がかけつけ、村の人たちに見送られました。区長や字出乗の議員から、「頑張って来い」とか盃をかわされ、木炭バスに乗って那覇まで行きました。山田からは私一人で軍歌は歌われませんでした。村役場の兵事係が九州まで一緒に行き、九州で軍服に着替えると、私服はその兵事係が山田まで届けてくれました。
……九州で三か月ほど訓練を受けた後、南支の〔広東省東部の沿海部の都市〕汕頭(スワトウ)に上陸しました。潮陽〔チャオヤン〕には司令部があり、私の入隊した第4中隊は駐屯軍であったので、汕頭周辺の警備を主に、ずっと終戦までそこにいました。
南支はやや沖縄に気候も似ていました。私の階級は兵長で、部隊の監視が主な任務でしたが、食料物資の買い出しなどもやりました。
……
横須賀で兵役解除になると私は横浜に行き土方を半年近くやりました。沖縄は玉砕して何も残っていないという噂でした。やがて、広島県宇品に沖縄引揚者の収容所があることを聞き行ってみると、山田出身の曹長だった久場厚徳氏が引き揚げ者の係をしていました。昭和二一年、宇品港より故東励冨氏、大城武夫氏の三人、先発組で帰ってきたわけです。……
帰ってきてから、父も母も妹もサイパンで戦死したことを知らされました。父とは、私が徴兵検査に合格したのをサイパンに連絡したところ二一歳の時会いましたが、母と妹は私が十二歳の時に別れた切りになってしまいました。だから、私はこの年になるまで本当の親兄弟の愛情がどんなものか実感できないところがあります。


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