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    かけはし2020年7月6日号

戦後75年、軍靴の下から沖縄を解き放て


沖縄報告 6月28日

安保と沖縄は戦利品、が米軍の認識

沖縄 K・S

6.23

沖縄慰霊の日

摩文仁に集い、反戦平和を心に刻む


 六月二三日慰霊の日は、沖縄県だけの公休日であり、県民が戦争で亡くなった人々を追悼しあらためて命どぅ宝”を心に刻む特別な日だ。今年はとくに、戦後七五年という節目で、戦争体験と証言が新聞テレビで活発に取り上げられた。
 沖縄では、今なお不発弾と遺骨が出る。内閣府沖縄総合事務局の「不発弾等処理実績」によると、二〇一七年は年間五六三件、二〇一八年は年間六七八件にのぼる。一日平均二件近くだ。不発弾は中南部に集中している。至る所で、五インチ艦砲弾、黄燐弾、さらに今年四月には那覇空港で10・10空襲のものとみられる二五〇キロ爆弾が数発発見された。依然として全体で二〇〇〇トン以上残っているという。「鉄の暴風」はまだ終わっていないのだ。
 そして、遺骨。昨年一年で収容された沖縄戦犠牲者の遺骨は五九人で、過去三年で最多だった。このうち一人は、地元住民数人が米軍の砲撃により生き埋めになった糸満市の山城壕から発見された。厚生労働省によると約二八〇〇人の遺骨が未収容だという。
 県下の各学校では、全校規模の平和集会、アートメッセージ制作など、学年ごとやクラスごとの平和学習が行われてきた。また、慰霊の日に先立ち、地元の児童や保護者が平和の礎の刻銘版を一枚一枚きれいに拭き清める作業を行った。特に今年は、コロナの三密”回避ということもあって、数日前から平和の礎や各地の慰霊塔に追悼に訪れる人々が多かったが、当日はやはり早朝からひっきりなしに、平和の礎や魂魄の塔に人の波が途絶えることはなかった。
 例年数千人規模で開催される追悼式は、今回、限定二〇〇人の式として挙行された。玉城デニー知事は「戦争の恐ろしさと平和の尊さを風化させることなく、次の世代に伝え、世界に命どぅ宝の心を発信する」とのメッセージを述べた。さらに、紙上インタビューで、「戦争体験と琉球王国のルーツに根差した沖縄のアイデンティティー。チムグクル(真心)とユイマール(助け合い)を大切に万国津梁、多くの国との架け橋になりたい」と語った。
 米国政府も六月二二日、沖縄戦七五周年記念メッセージを発表した。それは「第二次世界大戦の最も激しい戦いの一つである沖縄戦で歴史的勝利を収めた」「この記念碑的な戦いで命を落とした一万二千人以上の米国の英雄をしのぶ」「愛国者たちの勇気が評価され、大統領は二三個の名誉勲章を授与した」「その犠牲の遺産には、日本との同盟が含まれている」などとしている。つまりアメリカにとって、日米安保と沖縄基地は米軍の戦利品なのだ。戦後七五年、もう十分ではないか。軍靴の下から沖縄を解き放て。

首里城再建と共に、第32軍司令部壕の保存公開を


首里城の再建に取り組む中で、この間、首里城地下の第32軍司令部壕跡をどうするのか、という議論が活発に交わされてきた。一九四四年10・10空襲の後首里城地下に造られた第32軍司令部壕こそ、本土防衛の盾として戦争を引き延ばし、「軍官民共生共死の一体化」のもとで沖縄を廃墟にし二〇万人を越える人々を死に至らしめた戦争犯罪の現場なのだ。昨年首里城が炎上した後、再建が議論されはじめるや、戦争体験者、平和ガイド、学校教育現場、沖縄戦研究者、県内マスコミなどから、地下壕の保存公開を求める声が大きく上がり始めた。

地下司令部壕の
保存公開は %
琉球新報、沖縄テレビ、JX通信社が慰霊の日を前に共同で実施した県民意識調査がある。
【問5】首里城の再建について、どこが主導して進めるべきですか。
@県の主導 63・62%
A国の主導 27・24%
Bその他  9・15%
【問6】首里城の地下にある日本軍第32軍壕は、沖縄戦での日本軍の拠点で重要な戦争遺跡ともいわれていますが、現在、崩落の恐れがあるとして立ち入りできません。今後、壕をどうすべきだと思いますか。
@保存し、公開すべきだ         74・16%
A保存すべきだが、公開する必要はない  11・53%
B保存する必要はない          5・37%
Cわからない  8・95%

 県民の意思は明確に、県が責任を持って保存公開することを求めるものだ。

県が保存公開の
検討委設置方針


玉城デニー知事は六月二六日、城間那覇市長、久高那覇市議会議長らの要請の場で、「安全確保の観点から、現状では一般公開は困難」としながらも、「専門家による新たな検討委員会を設置し壕の保存公開や平和発信の在り方などを議論したい」と述べた。事態は今後、保存公開へ進むことになる。
歴史教育の専門家、新城俊昭さん(沖大客員教授)さんは「首里城の地下司令部壕は沖縄戦の本拠地だ。首里城近くに資料館を建設し、32軍がどんな役割を果たしたかを学ぶ場所にすべき」と述べている。
一九九〇年代の大田昌秀県政の時代に首里城地下の司令部壕の公開が検討されたことがあったが、一九九八年の知事選挙で保守県政に移行すると共に立ち消えになってしまった。今回は、@地上の再建と合わせて本格的に、A翁長知事以来強化されてきている沖縄のアイデンティティーを基盤にしていることによって、より強い県民運動というべきものになっているところに特徴がある。
首里城を再建し、地下司令部を資料館とともに保存公開し、沖縄の歴史と平和の発信地としていこう。

県内市町村の中国での戦争体験記を読む(21)

日本軍の戦時暴力の赤裸々な描写

 中国侵略の日本軍には、県内各地からも多くの青年たちが動員されて命を落とし、また、戦争の実態を目撃し記録した。県内各地の市町村史の戦争体験記録にはそうした証言が数多く掲載されており、日本軍による戦争の姿を赤裸々に描いている。
松田さんの戦争体験記録の見出しは「針〔ハイ〕ぬ目〔ミ〕んふきて」だ。「針の目もふく」とはどういう意味か。私の友人の文芸評論家・玉代勢章さんに伺ったところ、次のような返事をいただいた。
「沖縄本島全体の言い回しではなく、具志川村の地域性のある言い回しでしょうね。
平和で平穏な人生であれば、しなかったであろう@『針の穴を掃除する(針の穴を布で拭き取る)辛労・あわれ・ばかげたこと』さえ、あるいはA『針の穴に息を吹きかける 余計なこと・ばかげたこと』さえ、戦争や兵役のために、した、させられたという趣旨でしょうか」。

恩納村『字誌山田』(二〇一九年発行)
比嘉吉盛「トラック島沖で魚雷に会い船は爆破」


昭和一六年の六月に再び臨時召集令状が沖縄から大阪に転送され、熊本の輜重兵第6連隊に編入しました。六月一七日に門司から出発し揚子江を通って中国の武昌に上陸しました。……
中支の山中で老人と出会い、「私を殺せ」と言われたが、武器も何一つ持ってない民間人だったので、天に向かって銃を放ち逃がしたこともありました。中支からひきあげる際、第6師団のマーク(襟章)を、士気をあげるためにとって、大阪の第40師団(弱い師団であった)の兵隊たちにあげたが、現地中国人でも言葉を聞いて見抜いていたとの事でした。また、家ほど積まれた日本兵の死体を焼いたのも中支でした。
中支からはひきあげて上海のウースンに行きました。最初は内地凱旋に配属される予定でした。沖縄に行くつもりが、夏服の軍服を見せられ、南方行きが解った時は本当に「アギジャミヨー」(大変なことになった)と思ったものです。上海のウースンでは、汽車待ちしている中国の民間人を、日本の憲兵が縄を張りめぐらして強制連行しました。南方での荷役労務に隷属させるためで、日本軍の戦地へむかう船底にはたいていそういった現地人が強制的に乗せられていました。
ウースンからは南洋に向かいました。パラオに着いた時、モチが配給され、正月用のモチだという事で、その日が一月一日だという事を知りました。二日には、トラック島に夕方五時頃立ち寄り、そこを出港して出席点検をしている最中に魚雷を受け船は爆破されました。
先頭は駆逐艦、後尾は特務艦(糧秣船)。その間に六隻の輸送船という隊列でしたが、六隻の輸送船のうち、私が乗っていた船も含め四隻がやられパニック状態になりました。
沈んだ船の名前は、スラバヤ丸、一隻に約二〇〇人ほど乗っていました。被爆後、一分三〇秒には沈んだので多くの犠牲者が出ました。船が沈む時、私は巻き込まれそうになりましたが、本当に九死に一生を得て助かりました。戦死した遺体は、坊さん(戦地には僧侶も同伴)がお経をあげた後、砂利をくびり海葬しました。翌日(三日)の正午までかかりました。
海葬を終え、私たちは特務艦に乗り移り、ブーゲンビル島エレベンダーに着いたのが昭和一八年(一九四三)一月二四日でした。日本軍が上陸した時は米軍はいず、無抵抗でした。しばらく私は木工場の製材班に入り、遺骨入れ箱を作ったり、かれいこう(糧秣を入れるもの)等を作っていました。約半年後に米軍が上陸してきました。
九死に一生を得た伊藤軍曹も、土人農園に行く途中に地雷にあい即死しました。また、山田出身の松田建二伍長が負傷して入院している病院で「イヤーや、吉盛やあらんなー」(あんたは吉盛じゃないか)と声をかけられたのもこの島でした。松田氏は13連隊に所属していました。退院した後、現役復帰したが、戦死したという事でした。久良波の外間武栄氏(第45中隊所属)もこのブーゲンビル島で戦死したと後で聞きました。ブーゲンビル島での日本軍はかなり弱体化していました。……ブーゲンビル島には昭和一八年から昭和二〇年の敗戦まで約二年間いたことになります。
米軍によって武装解除され、捕虜となってファウロ島に連れて行かれました。そこでは六か月ほど兵舎を造る大工仕事を主にさせられました。日本の将校たちは、一般兵とは別に無人島に連れて行かれ、その捕虜地を将校島と呼んでいました。階級の上の将校たちは隔離されていたわけです。
昭和二一年(1946)二月一七日、ファロウ島を出発して、二月二六日、佐世保に着き、二七日に現地解散をしました。……
イクサニ行ケー、人ガ変インドー。殺サンレー殺サリールスグトゥ(戦争に行ったら人が変わる。なぜなら、相手を殺さんと自分が殺られるのだから)。本当に、二度と戦争をやるものではない。

松田建信
 「針ぬ目んふきて」


不幸にも両親は私が三才の頃離婚。父は大工で各地に住み込んで仕事をしていたため、目の不自由な祖母と二人暮らしであった。一三才の頃には都合で読谷村大湾に移り住むことになった。
昭和一三年、具志川村(当時)の平良川で兵役検査を受けた。歩兵甲種合格であった。その後しばらく大阪に出稼ぎに行ったが、父の具合が思わしくないとの事で帰郷。薬石の効なく入隊も間近に控えた昭和一四年四月一四日父他界。一人残される祖母の面倒を見てもらうため、一度は離婚した母を復籍する手続きをとった。当時は死亡した夫への復籍も認められる時代であった。初七日もそこそこに四月二六日、大湾公民館前で見送りを受けた後、読谷村の兵事係知花氏と共に軽便鉄道を利用して那覇に向かった。久田旅館で一泊し、翌二七日、鹿児島へ向け出航、三〇日鹿児島に到着、その日に大分に汽車で輸送された。
五月一日、現役兵として大分歩兵47連隊第8中隊(中隊長佐野中尉)に入隊。大分では初年兵教育、軍事訓練に明け暮れた。厳しい毎日であったが、大分での訓練も終わりに近づいた頃、敵味方に分かれての大軍事演習があり、五、六人ぐらい民間の家に寝泊まりすることが許された。そこで大歓待を受けた事がその頃の唯一の楽しい思い出である。
昭和一四年九月一日、一等兵に進級。同日大分を出発、門司を経由し、大連に上陸、満州ハイラルに着いたのは九月九日の事であった。……当時満州ではノモンハン事件のまっただ中で、ハイラル到着後は完全武装をし前線に着く準備をしていたが、幸いにして政治的終結をみたため参戦せずに済んだ。……日本軍は大敗し、ノモンハン事件の戦死者は一万七〇〇〇人以上にのぼったという。
ノモンハン事件が一段落したため、満州での主な任務は警備であった。……ソ連軍に向け発砲する代わりに山羊に似たノロ(動物名)を狩りし、鉄板焼きにして食べた事が懐かしく思い出される。恐かったのは狼で、バラ線(鉄条網)が張り巡らされているとはいえ、唸り声をあげて近づいてくる狼にはゾッとさせられるものがあった。……
昭和一七年五月一日、満期除隊となり、大連、門司、都城を経由して沖縄に復員。復員後は「バシャムチャー(馬車持ち)」をして生計を立てていた。昭和一八年結婚。昭和一九年三月には長女が誕生した。同年九月一〇日、西部23宇土部隊井川隊満留中隊に召集された。……
父の死、そして育ててくれた祖母も後を追うように兵役中に亡くなった。戦争という訳の分からんもののためにきちっと法要もしてあげられなかった事がいまだもって心残りである。

『中国での戦争体験記を読む〜沖縄出身兵一〇〇人の証言〜』発刊
この間連載してきた記事を時系列に沿って整理すると共に、歴史の中で位置づけコメントを付して、資料集としても活用できるものにまとめた。頒価一〇〇〇円。連絡先は、
携帯 090-1948-6673
FAX 098-998-7629
メールokihiro@me.au-hikari.ne.jp





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