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    かけはし2020年7月13日号

工事中止し、辺野古から撤退せよ!


沖縄報告 7月5日

計画は完全に破綻した

沖縄 K・S

「破綻の上塗り」いつまで

“震度1以上で崩壊”
の危険まで明らかに

 辺野古の埋立工事は破綻している。ところが、日本政府安倍政権は工事を止めない。七年前、沖縄防衛局が沖縄県に提出した埋立承認申請では、工期八年、費用二三一〇億円だった。仲井真前知事が二〇一三年一二月に埋立承認をしてから六年半。工事が遅々として進まないばかりか、大浦湾の軟弱地盤という大問題に直面して、政府防衛局は工法、工期、工費を大幅に変更する設計概要変更申請を行った。「恥の上塗り」ならぬ「破綻の上塗り」。安倍政権による辺野古新基地建設はいっそう泥沼にはまっていく。
 政府防衛局が新たに算出した工期は知事の承認を得てから一二年、工費は九三〇〇億円という。変更申請の手続き上、県の決定が出るのが今年の年末から来年にかけてだと言われているが、玉城知事は前々から変更申請を許可しないと言っている。すると、日本政府はどうするのか。沖縄県の決定に従うのか。それともまた、裁判所の力を動員して県の自治を踏みにじり強権支配の方法をとるのか。としても、仲井真前知事の公約破りの埋立承認から数えれば、二〇年以上かかることになる。
 そうすると、「普天間飛行場の一刻も早い危険性の除去」というのが欺瞞であることがはっきりする。地質学者など辺野古調査団の専門家によると、軟弱地盤と活断層の上に造られる辺野古新基地は実に、震度1以上の地震で崩壊の恐れがあるという。沖縄は地震がないというイメージがあるが、実はよく地震が起こる。震度1以上の地震は年間七回起きている。また、かつて明和の大地震(一七七一年)には、数十メートルの津波が襲い、宮古・八重山合わせて一万人以上の死者・行方不明者を出す被害を生んだ。地震の面からも辺野古は不適格なのだ。一刻も早く埋立工事を中止し撤退するのが傷を最小限に抑える唯一の方法である。
 工費は既に当初の四倍以上だ。国家権力を掌握する政治家や中央官僚たちは国の予算、国民の税金を使うに当たって、あまりにも無責任だ。国の予算は有限であるから、米国からの最新ハイテク兵器の購入や軍備拡充に金をつぎ込めば、必然的に教育・福祉・医療・年金などは相対的に削減になると共に、消費税や自動車税などもろもろの徴収される税金は増え続ける。戦後日本の政治の構造を転換しなければ平和で住みよい国にはならない。
 中谷元防衛相や石破元幹事長などが最近「辺野古見直し」を主張している。玉城知事と面談した中谷は「軍民共用」まで言い始めている。もちろん、玉城知事は「軍民共用」案を即座に否定した。「辺野古見直し」を言うのであれば、何より傾聴しなければならないのは、県知事も県議会も県民投票もこぞって県民ぐるみで示し続けている「辺野古NO!」の意思だ。沖縄を軍事外交の道具として好き勝手に使うのをやめよ。

7.1

琉球セメント安和桟橋ゲート前

雨の中、うまずたゆまず土砂搬出に抗議

 コロナ感染防止のため約二カ月間中断したのち再開された、辺野古新基地建設のための埋立工事の現場では、連日、抗議の行動が展開され続けている。生コン車や資材を積んだ工事車両が出入りする米海兵隊キャンプ・シュワブのゲート前、本部半島の赤土土砂を運搬船で辺野古へ積み出す琉球セメント安和桟橋と本部塩川港、辺野古・大浦湾と安和桟橋の二つの現場でのカヌーと抗議船の海上行動。辺野古埋立ストップ!の県民多数の意思を背景にした不屈の現地闘争は県内外の実に多くの人々によって支えられている。
この一週間も、まるで梅雨に逆戻りしたかのような悪天候に遭いながら、各地で断固として闘い抜かれた。安和桟橋では、七月一日、琉球セメントの石炭船が着岸していたため、土砂運搬船の運航はないが、雨中、ダンプによる土砂の搬入は続けられ、桟橋構内は以前のように土砂の山がつくられた。
入口ゲート前と出口ゲートには朝から島ぐるみ南部、中部と県外各地から自主参加の人々がノボリやプラカードを手にゆっくり行進し「埋め立て止めよ」「美ら海まもれ」と声をあげた。本部島ぐるみは出口ゲートの横で、ダンプのナンバーを全台チェックした。午前中四〇人いた参加者も午後には五〜一〇人に減ったが、ずぶ濡れになりながら頑張り抜いた。午後三時ごろになってダンプの搬入が止まったので、ゲート前の抗議行動を終え、椅子やマイク、プラカードを片付け、辺野古へ向かった。

6.25〜26

宮古島訪問

陸自駐屯地、ミサイル弾薬庫建設現場と戦争遺跡

 六月二五〜二六日の二日間、宮古島を訪問した。ミサイル基地いらない宮古島住民連絡会の清水早子さんと上里清美さんの案内で、千代田の陸上自衛隊駐屯地、豊旗の塔一帯の追悼碑の一角にある「噫々忠烈丈夫之墓」、野原越の野戦重砲兵の秘匿壕・納骨堂、特設水上勤務101中隊の朝鮮人軍属が一九四五年3・1空襲で犠牲になった平良湾、狩俣の浜と特攻艇の秘匿壕、保良のミサイル弾薬庫建設現場などを回った。

千代田の陸上自衛隊宮古駐屯地

 千代田の陸自駐屯地は、昨年一二月に比べて一段と強化されている。昨年三月の警備隊に続き、今年の三月、地対空、地対艦のミサイル部隊が配備された。自衛隊歓迎の宮古島市長や市議会に支えられて、陸自部隊は我が物顔に基地内外で訓練している。基地の中の舗装道路では、軍服軍帽姿の自衛隊員が車両の上部から上半身を出した状態で、迷彩色の装甲車両二台を連ねて訓練中だった。駐屯地の外周道路では自衛隊のジープがパトロールしている。さらに、駐屯地内の駐車スペースには、ミサイル六基を積む移動式発射の大型軍用車両が何台か見える。
千代田の駐屯地には弾薬庫もつくられ、司令部も置かれている。御嶽の森も大きく削られ破壊されてしまった。昨年四月、宮古島駐屯地で行われた「隊旗授与式」で、当時の岩屋防衛相は「宮古島が島嶼防衛の最前線だ」と訓示した。日本の軍国主義者は再び、沖縄を、宮古島を国家の捨て石として犠牲を強いてきている。
駐屯地の真前には仲里さんの農業ハウスがあり、「宮古島を戦場にしないで」「軍隊は住民を守らなかった。宮古島に軍隊はいらない!」との横断幕が掲げられていたが、最近破壊されるという事件が起きた。だが、宮古島では住民連絡会を中心に屈しない闘いが続いている。資料請求・激励先=ミサイル基地いらない宮古島住民連絡会(090-9784-1545)

保良のミサイル弾薬庫建設現場

 宮古島南東部の保良(ぼら)集落近くで、ミサイル弾薬庫、射撃訓練場の建設が急ピッチで進んでいる。昨年一〇月に着工して、弾薬庫の建物の一部はすでに四階部分にまで足場が組まれている。千代田駐屯地にある弾薬庫とは比べ物にならないくらい、非常に巨大な弾薬庫だ。建物ができ上がれば、千代田と同じように、ピラミッドのような形の土で覆われる。
弾薬庫から保良の民家までわずか二三〇m。集落内のゲートから民家までは五〇mにすぎない。近くの竹仲山公園から見渡せば、弾薬庫と集落とは本当に隣り合わせだ。こんなところに巨大弾薬庫を造っていいわけがない。朝工事現場に行くと、数人がノボリ、プラカードを手にゲート前に座り込んでいた。保良集落の下地さん夫妻と島尻さんとのことだった。話を伺うと、毎日座り込み抗議しており、保良の集落の人々は七〇%が弾薬庫建設に反対しているという。これからもずっと続く、明るく朗らかに闘い続けたいと語った。

豊旗の塔の噫々忠烈丈夫之墓

異形のこの塔は長らく謎だった。沖縄県慰霊塔(碑)調査結果一覧表によれば、建立者は「特設水上勤務101中隊」とされているので、碑の裏側に刻銘されていると思しき四人は朝鮮人軍属ではないかと思われていた。七年前にこの碑を見た時から何かよく分からなかったが、今回やっと謎が解けた。
表側は「噫々忠烈丈夫之墓」とハッキリ読み取れる。ところが裏側は「故陸軍々属」のところはどうにか判別できるが、肝心の名前が読み取れなかった。そこで、拓本をしてみた。セメントのざらざらの表面はかえって判別しにくくなっていた。ところが意外にも、その日の大雨で碑の上から雨がかかり、濡れた刻銘面が鮮明に浮かび上がったのだ。ペットボトルの水をさらにかけると文字が浮かび出た。添付の写真をご覧いただきたい。
その結果、四人はすべて、32軍防衛築城第4中隊(野口隊)所属で、高山小鳳(本名高小鳳)さんは慶尚北道出身、他の三人は日本人軍属であることが分かった。留守名簿には、三人は一九四五年六月一三日戦死と記されている。不思議なことに高さんのみ死亡年月日が一九四五年四月一四日となっている。伝えられた話からは、米軍の攻撃が落ち着いた頃何かの爆風で死んだ、碑を建てた、後になって畑の持ち主が処分に困り県に相談したところ、宮古の教育委員会の人たちが戦争遺跡として一時博物館に保管した後豊旗の塔の一角に移した、ということが明らかになった。
宮古島では地上戦はなかったが、空襲、マラリア、飢え、そして今回のような爆風で多くの県民、日本兵、徴用された朝鮮人が死亡した。

7.3

パレスチナ連帯集会

県庁前広場に50人余


七月三日午後六時から、県庁前広場で、イスラエルによるパレスチナ併合に反対する緊急行動が行われ、五〇人余の人々が駆け付けた。平和市民連絡会のメンバーたちは、安和桟橋での行動からバスで県庁前まで戻ったその足で、集会に参加した。
この日の集会は、安里英子さん(パレスチナと沖縄を結ぶ会)、高里鈴代さん(基地・軍隊を許さない行動する女たちの会)など数人が呼びかけ人となって、「今年五月に大連立政権を樹立したイスラエルのネタニヤフ首相が七月一日から、ヨルダン川西岸のユダヤ人入植地やヨルダン渓谷の一部を併合するための法整備を進めようとしている」(呼びかけ文)ことに抗議して開催された。
広場では、「パレスチナに自由と平和を!イスラエルはパレスチナの併合をやめよ!」との横断幕を広げて、集会開始時間前から、行き来する多くの通行人に対しマイクで、パレスチナの現状や以前沖縄を訪れたパレスチナの弁護士ラジ・スラーニさんの語った「沈黙という共謀」という言葉の意味を問い、米軍により土地を奪われた沖縄から連帯して行こうとの呼びかけが行われた。

県内市町村の中国での戦争体験記を読む(22)

日本軍の戦時暴力の赤裸々な描写


中国侵略の日本軍には、県内各地からも多くの青年たちが動員されて命を落とし、また、戦争の実態を目撃し記録した。県内各地の市町村史の戦争体験記録にはそうした証言が数多く掲載されており、日本軍による戦争の姿を赤裸々に描いている。省略は……で示し、補足は〔 〕に入れた。

恩納村『字誌山田』(二〇一九年発行)
名城仁健「身も心もボロボロになって帰国」

 昭和一四年五月一日、満二一才で宮崎県の都城第23連隊に現役入隊した。……
私は一三才の時父を亡くした。下に三人の弟妹がいたので父亡きあと母は私たちを育てるのに大変苦労したと思う。
昭和一六年一二月一〇日、現役満期……やっと帰郷が叶い、満期挨拶のため村役場へ行った。その時、兵事係の人に、「大阪へ行って働きたい」と言ったら、「満州開拓へなら行けるよ」と言われたので、そうすることに決めた。弟の政治は、すでに高等科を卒業すると満蒙開拓青少年義勇軍として渡満していた。
昭和一七年三月母や妹二人を連れて、満州国の龍江県チチハルに開拓団の補充として渡満した。
昭和一九年七月頃、召集令状を受け、チチハルとハイラルとの中間地点であるペイアン〔北安〕という所に行った。チチハルから列車で半日くらいかかった。そこは、後方部隊で仕事は壕掘りが主だった。
昭和二〇年八月、ソ連軍が進駐して来た。昭和二十年八月ソ連軍の捕虜になり、シベリアまで歩いて十日ぐらいかかった。
雪は降っていなかったけど、かなり寒くなっていた。山の中の囚人収容所跡の宿舎に入れられ、伐採や線路工事をさせられた。
気温が零下五〇度までは働かされた。零下七〇度まで下がった日もあった。
食事はようやく命がつなげる程度だった。輸送の関係で二日くらい食事のない日もあった。それでも作業は休めなかった。ほんとうに生きて帰れたのが不思議である。……
熱発して四〇度くらいまで上がったので、病院に行かされしばらく静養させられた。回復したので帰されたが、過酷な作業でなく馬の草刈りをさせられた。独りだったので気楽だった。草刈りをしながら、山にあるギーマに似た木の実を取って食べた。その木の実にはビタミンCが多く含まれていることをロシア人の女性から聞かされた。その女性はよく同情してくれた。「あなたに食事を腹一杯食べさせたいけど、自分達も配給制なのでどうしようもないんだよ」と言ってくれた。
この女性の主人が煙草の配給をもらった時には、持って来てくれた。主人は吸わないと言うことだった。この主人は獣医だった。……
大きな希望を抱いて渡った大陸だったが、このようなみじめな帰郷となってしまった。しかし、沖縄にいたとしてもどうなっていたか分からない。……戦争さえなかったら、大きな夢も実現していたかも知れなかったと思うと残念でたまらない。

東 孝二
 「海軍の志願兵として」


昭和一六年一一月、海軍の志願兵の試験を名護の三中で受けた。……
ところがそれから一か月後の一二月八日、真珠湾攻撃により大東亜戦争が始まったのである。母や叔母などは「イヤーヤナー、デージソーサー、イクサヤハジマトールムン(あんたは大変なってるさ、戦争が始まって)」と言って嘆いていた。
当時、我が家は父母と男だけの六人兄弟の家族だった。受験から暫くして合格通知を受けた。満二〇歳だった。
昭和一七年五月一日、佐世保相浦第2海兵団に入団し、そこで三か月の軍事訓練を受け、昭和一七年八月、現在の北朝鮮の羅津方面の根拠地隊で海上勤務を一か年した。掃海艇に乗って古い機雷の流れてくるのを取る仕事だった。……
昭和一八年一二月、南方のチモール島のクーパンで陣地構築の仕事をした。海岸砲の係で階級は水兵長だった。食料は少なく、ご飯は芋やトウモロコシの混ぜられたもので、副食はカンダバー汁だけだった。……
戦後処理として、山の壕にかくされていた米などの食料品を運ばされた時、米の量の多さにびっくりさせられた。日本軍は長期戦を予想して、普段はやっと命をつなぐ程度の食事を兵士に与えて保管していたのかと思うと、ほんとに馬鹿らしくなった。
海軍は、衣服類は充分持たされていたので、現地人の食料品(鶏)等と交換して食べた。チモール島の住民は、日本軍が上陸した当時はあまり反日感情はもっていなかったけれど、終戦になり武器を放棄してからは、反感も強くなってきた。……
引き揚げ時には、港で、現地人に対して酷いことをした人の首実検が行われた。まるで映画館の映写室の小窓みたいなところから眼だけ出して、列をなして通っていく日本兵の中から選出していた。残された人達は、どうなったかわからないけど、たぶん処刑されたのではないかと思う。
チモール島では、沖縄戦の情報は逐一入っていたので、日本は負けるなあと思っていた。昭和二一年八月、インヌミヤードイに着いて、二、三日後山田に帰ってきた。
帰ってみると、父と叔父は米兵に射殺されたことを聞かされた。弟の幸善も防衛隊として徴用され戦死していた。
戦争はデージ。戦争さえなければ、父も弟も死なないですんだのに、と思う。




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