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    かけはし2020年7月20日号

無法な辺野古の埋立、即刻中止を!


沖縄報告 7月12日

安倍政権、コロナ禍でも無責任姿勢に終始

沖縄 K・S



米軍基地のコロナ感染61人

米軍基地を封鎖し、米軍車両・
米軍人軍属の出入りを停止せよ!

 七月一二日付の琉球新報によると、一〇日までに一六人だった米軍関係のコロナ感染者は一一日、新たに普天間飛行場で三二人、キャンプ・ハンセンで一三人増え、合計六一人になった。
 一一日午後五時から県庁で開かれた記者会見で玉城デニー知事は、普天間基地とキャンプ・ハンセンでクラスターが発生したことを報告し、「衝撃を受けている。米軍関係者の感染が短期間で多数発生したことは極めて遺憾。米軍の感染防止策に強い疑念を抱かざるを得ない」と述べ、米軍に対する不信感をあらわにした。しかし、この会見の場では、米軍の感染者数は数十人とされ、具体的に明らかにされなかった。
 米軍は、国防総省の「非公表」方針のもと、県に対し具体的な人数を公表しないよう圧力をかけていた。しかし、米軍関係者が六月から七月四日の独立記念日にかけて各地で数十人、数百人規模のビーチパーティや飲み会をひらいていたことが明らかになっており、集団感染の可能性が指摘されている。沖縄駐留米軍のクラーディー四軍調整官は、「移動制限措置の対象者を基地内に収容する限界を超えている」として、北谷町の民間ホテルを借り切って対応に当たっていることを発表した。
 玉城知事は記者会見の二時間後、四軍調整官の「私に権限はないが、県が公表しても報告は続ける」との電話での発言を得た。そしてやっと、県は米軍の各基地での感染者数を具体的に公表したのである。治外法権の米軍の害悪がこういう形でも明らかにされた。
 玉城知事は記者会見、四軍調整官との会談を通じて、@感染者数などの速やかな公表、A普天間飛行場とキャンプ・ハンセンの閉鎖、B米国から沖縄への移動の中止、C民間ホテルで行っている措置を基地内で行うこと、など七項目に加えて、米軍に対し、米側と沖縄県による会議の設置を求めた。県は外務省沖縄事務所、沖縄防衛局に対しても、同様の要求をした。
 県議会は七月一〇日、米軍に情報開示や日米地位協定の抜本改定を求める内容の決議を全会一致で可決した。菅官房長官や河野防衛相が「米軍は必要な情報提供をし、しっかりやってくれているものと認識している」などと当事者能力を喪失した無責任な態度に終始している中、沖縄県も県議会もコロナの感染から県民生活をまもるため、努力している。
 知事が求めた通り、普天間飛行場とキャンプ・ハンセンを閉鎖させよう。一二日の報道によると、キャンプ・キンザーでも新たな感染者が発生した。沖縄駐屯のすべての米軍基地を封鎖し、米軍車両・米軍人軍属の出入りを停止せよ!

7.10

第1回八重瀬学習会に30人

設計変更に対する意見書を
玉城知事に届けよう

 七月一〇日、八重瀬町中央公民館で、辺野古埋立の設計変更申請に対する意見書をテーマとした集まりが開かれ、会場いっぱいの三〇人が参加した。
沖縄防衛局はコロナ禍の最中、四月二一日に二二〇〇ページにのぼる変更申請を県土木事務所に提出。その後、沖縄県による五六件の補正指示、防衛局の回答、県による三件の追加補正指示、防衛局の再補正、と進んできた。
次の手続きはいよいよ、変更申請書の告示と三週間の縦覧というステージに移る。沖縄防衛局の変更申請書が沖縄県の土木建築部海岸防災課のホームページに公開される。利害関係があると考える人は誰でも縦覧期間中に自由に意見を提出することができる。
この日の八重瀬の集会は、島ぐるみ八重瀬の会の共同代表、知念則夫さんのあいさつ、事務局長によるドローンの映像と現場写真を使ったパワーポイントの報告、トンボ学会の渡辺さんによるやんばるのトンボについての報告の後、意見書を実際に書く作業に入った。まるで学校の作文の時間のようだ。QAB(琉球朝日放送)のクルーは、熱心に意見書を書く参加者の姿を撮影する。
しばらくすると一番に書き上げたSさんの手が上がる。司会がマイクを持って行く。テレビカメラも移動する。「大浦湾・辺野古に生きている生物を殺すようなことに税金を使うことは不承認です」とハッキリとした声で述べると、会場から一斉に拍手が起こった。
続いて、Kさん。「工事費は九三〇〇億円に収まりません。あまりの無駄づかいです。このとんでもない工事費をコロナ対策に回すべき。大浦湾に戻って来たジュゴンを追い散らすことは許されません」。
Nさんはよく通る声で、「沖縄はすでに多くの米軍基地を抱えており、軍拡により島が標的になる危険性も大きいため断固賛成できません。また、辺野古の工事の間、普天間を放置することにもつながるので反対です」と述べた。
Tさんは「今回は大規模の変更ですから環境影響評価をやり直すべきです。基地はこれ以上いりません。美しい空・海を守りたい」と訴えた。
Mさんは「私は納税者として自分の税金が新基地建設に使われることに反対です。平和のために使うことを望みます。沖縄の山の土が海の埋立に使われることに心が痛みます」と述べた。
Hさんは「私は納税者ですので利害関係人です。県民投票で埋立反対が過半数を越えています。世界遺産として有望視されているところで軍事基地建設は逆行するものです。沖縄戦で九死に一生を得た者として平和を希求し基地に反対します」と述べた。
このようにして十数人が意見書の発表を行い、提出された意見書は二二枚。さらに輪を広げ多くの県民の率直な声を玉城知事に届けよう。

7.9

那覇地裁

国の違法を許さない!


辺野古・大浦湾周辺の住民一五人が原告となって、沖縄県の埋立承認取り消しを違法に取り消した国交相の裁決の取り消しを求めた裁判は、今年四月一三日、原告のうち一一人に対し「原告適格なし」と却下する一方、辺野古・豊原の住民四人については「原告適格あり」との判決を出し、審議を続けるとした。
七月九日午後開かれた第六回口頭弁論には、原告とヘリ基地反対協、辺野古弁護団、支援の県民が結集した。開廷を前に地裁前の城岳公園で開かれた集会で、原告団長の東恩納琢磨さんは「辺野古・大浦湾の価値は世界で“ホープ・スポット”と認められている。四人の原告適格が認められたことをチャンスとして新基地断念へと闘い抜こう」と呼びかけた。
午後二時から始まった那覇地裁一〇号法廷には、抽選で当たった傍聴人一一人と報道各社の記者が傍聴席を占め、原告席には原告と弁護団一五人、被告席には国の代理人五人が座った。この日の弁論は、平山馨裁判長が訴訟の進行について話し次回期日(九月八日)を決めただけで終わった。
そのあとふたたび城岳公園で持たれた集会で、白充(ペク・チュン)弁護士は「四人の原告が認められたことは、住民がものを言えるという大事なことで、成果だ。国はもう一度原告適格の問題をやるべきと主張しているが、今後裁判は国交相の裁決が違法かどうかに絞られて行く。今後も裁判に関心を持ち傍聴してほしい」と訴えた。

県内市町村の中国での戦争体験記を読む(23)

日本軍の戦時暴力の赤裸々な描写


中国侵略の日本軍には、県内各地からも多くの青年たちが動員されて命を落とし、また、戦争の実態を目撃し記録した。県内各地の市町村史の戦争体験記録にはそうした証言が数多く掲載されており、日本軍による戦争の姿を赤裸々に描いている。

恩納村『字誌山田』(二〇一九年発行)

外間信吉
「苦しかったガス訓練」


山田尋常高等小学校を卒業して一六才の年に、にちぼう大阪高石に行き、軍隊の毛布をつくる工場で働いた。四年間働いた。勤務中に徴兵検査を受け、甲種合格だった。入隊前に沖縄に帰った。もう戦争は始まっていた。
父が病気だったため一五日ほど家にいた。
いよいよ出発の日、女子青年、区長(比嘉栄二)が先頭になって、嘉手納からは軽便に乗って那覇の久田旅館に泊まった。低気圧関係で出港が遅れたがカギ丸に乗って鹿児島に上陸する。それから小倉北方に半月ぐらいいた。仮部隊(部隊名忘れた)だった。
門司港から七日間イカリをつけたままで、台南高雄に着き、寺社を参拝しそれから九龍に上陸、現地に入隊(支那)すぐに入隊式があった。その日はひどい暑さで、船酔いもあり、バタバタ倒れる人もいた。沖縄の人は暑さに慣れているので案外大丈夫だった。入隊式後赤飯が出たので大変嬉しかった。三日ぐらいは食事もよかったが、その後はもう話にならない。
仕事は銃の手入れ、上司の靴の手入れ、飯上げから始まる。自分は機関銃中隊に所属し特殊訓練(迫撃砲、毒ガス)訓練を一か月間、朝から晩までそればかり受けた。毒ガスを洗面器に入れ口から鼻まで何分間吸うことが出来るか、それから特殊技能ガス訓練はことのほかきつかった。三畳ぐらいのコンクリート部屋の中で防毒マスクをはめ、六斤缶みたいな中でガスを発火させ、外からカギをかける。その時防毒服(頭のてっぺんから足の先まで包むゴムでできた服)を着せられた。どんなに苦しくても、班長がカギを開けなければ外へ出ることができない。外に出るとすぐにマスクを取り、しばらくじっとして何とか吐く息を整えることが精一杯だった。その訓練のくり返しが終わると、戦闘に出かける。戦闘中は機関銃をかつぎ歩くのが厳しかった。
香港へ移る時、何百人も乗っている船が敵機のB29(アメリカ)にやられた。自分達の乗っていた船は離れていたので助かった。その時、同年兵は皆やられた。
雨期に入ると、雨はダラダラするし、むし暑いし、ぬかるみで行軍の場合は馬に弾薬を乗せ、夜も昼も行軍ばかりなので目をつむったままで馬のシッポにブラさがり進むこともあった。また、休憩の場合もぬかるみだらけだから、馬と馬の足の間に横たわって寝ていた。戦闘に出る場合、先輩の三羽カラスがいたが、自分の水筒に三羽カラスの酒(チャンチュ)を入れて持たされた。弾薬と馬が二頭ついていたから水は馬にやって、兵隊は飲めない。一銭五厘の切手があれば人間は召集できるが馬は買えない。馬は人間より大切であった。
戦闘が激しくなると、タバコはなくなるしで、ヨモギ、マツの葉、バショウの葉をタバコ代わりに吸ったこともあった。戦闘のない時は本隊に帰らず、警備勤務についた。警備だけでなく、掃除、洗濯何でもしないといけない。先輩たちは何もしない。初年兵がやるしかない。勤務中は少しの油断も出来ない。うっかりすると殺されてしまう。緊張の長い時間であった。
昭和二〇年八月一五日、戦争は終わったというビラが飛行機からまかれた。九月一八日までは信用しなかった。中隊長から知らされてはじめて信用した。
支那の収容所に集まり、武装解除が始まる。裸になり、私物の検査である。
しばらくして、八千トン級の木造船(かんとん)で本土に向かった。九州勢が多く鹿児島に上陸、伊敷収容所の兵舎に収容された。そこから佐賀の協物館に送られ、炭坑に約六か月、それから前の職場にちぼうに帰る。幸い会社が積み立てをしていたし、また、山田出身の仲本章成さんが部長をしていたものだから、二、三年ぐらい働き帰ってきた。
最後に。
日本は二度と軍国主義に戻るなと願うのみ。苦労するのは自分たちだけでたくさん。子や孫にこの苦しみは絶対させたくない。銃や靴の手入れが悪いと犬ばいにされ、特に上官の靴には鉄が打ち込まれていて、それで踏まれるとたまったものではない。
外間(ガイマ、ガイマ)と馬鹿にされても耐えるしかない。入隊と同時に「三つ子になれ」と言われていたので、殺されるよりはどんなひどいことでも我慢するしかなかった。その苦しみに耐えられなくて自殺した人もたくさんいた。
軍隊の苦しみは口で語れるものではない。沖縄の人だというだけで侮辱され、沖縄の人の持ってきたものは食べるなとまで言われた。日本兵の残酷なふるまいは口では言えないことがたくさんある。今でも言えない。

外間伯一
「『敬礼、ハイ』で明け暮れた日々」


昭和一九年一〇月一五日入隊、糸満の高嶺小学校へ、竹一五三三部隊(連大砲)だった。
自分が出征の時は、空襲の真最中で、区民はみな壕の中にいたので、見送ってくれる人は一人もいなかった。全くひとりで糸満までただ歩き続けるだけだった。
名城部落に一か月いた。演習ばっかりしていた。壕掘りもさせられた。しばらくして那覇に来た。そこから、どこへ行くとも告げられず船に乗せられた。昭和二〇年の元旦だった。
着いてみると台湾の基隆だった。すぐにゴモク飯が出され、うれしかった。食事がすむと、またどこへ行くとも知らされず、汽車に乗せられた。
台湾には二、三か月いたが、上原茂さん、屋良朝栄さんも一緒だった。茂さんは小隊長だった。初年兵の自分には物も言えない。いつも「敬礼、敬礼」しかなかった。もし二人が話でもしていると、「何をしているか」と、どこからともなくゲンコツが飛んでくる有様だった。とにかく何が原因でどなられるのか訳の分からない事ばかりだった。とくに、沖縄人はバカにされた。共通語もわからないので、只「ハイ、ハイ」するのみで、その声も小さいと、またどなられる、殴られる。そのくり返しであった。
……
軍国主義は大物が大物になるだけで、弱いものが死んでいくだけである。




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