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    かけはし2020年7月27日号

政府・地方自治体の統制支配下に


沖縄報告 7月19日

米軍の特権を奪え

沖縄 K・S

米海兵隊普天間飛行場とキャンプ・ハンセンを完全に封鎖せよ!

 

 米軍の県民無視のいい加減なコロナ感染防止対策と日本政府の当事者能力のない無責任な追従に対し、沖縄では感染源・米軍基地を封鎖させようという声が強まっている。普天間飛行場とキャンプ・ハンセンを中心とした米軍の感染者が一〇〇人に達した七月一五日、玉城デニー知事はキャンプ・ハンセンをかかえる宜野座村長、金武町長と共に上京し、政府に対し要請行動をくり広げた。
 沖縄の政府に対する要請は、日本政府が責任を持って@米軍の沖縄への異動中止、Aすべての米軍入国者にPCR検査実施、Bクラスターの発生している米軍基地の閉鎖、C基地従業員への感染防止策の徹底、D沖縄に入る米軍人の数や基地外居住者の詳細な情報の提供、さらに、検疫について米軍に国内法を適用すると共に日米地位協定を抜本的に見直すことなどであった。
 この間米軍は全員にPCR検査を行わず、感染者の基地外行動を容認して集団感染を誘発し、待機者用に民間ホテルを借り上げ感染の危険を基地外に広げるなど、県民無視の行動をとって来た。その結果、七月一八日段階で、米軍の感染者一四三人に加え、基地に出入りするタクシー運転手が米軍由来の感染者となった。
 事件事故を繰り返し、犯罪、環境汚染、騒音の元凶となっている米軍基地が今度はコロナ感染のもととなって現れてきたのだ。七月一五日、「基地・軍隊を許さない行動する女たちの会」をはじめ、県内の市民団体が急きょ集まり、「沖縄県民の生命・人権無視に抗議する連絡会」を組織し、記者会見を行った。その後、連絡会に参加する各種・各地の市民団体の数はうなぎのぼりに増えている。
 当初「米軍とは必要な情報は共有」「米軍は感染防止策をしっかりやっているものと認識している」と米軍を擁護していた日本政府も、事態が深刻になるや、河野防衛相は上京した知事や首長に「大変申し訳ない」と陳謝した。しかし、問題は、日米安保・地位協定・日米合同委員会のもとで、日本国内の治外法権の軍として特権をほしいままにしている「在日米軍」と米軍に従属した日本政府という構造そのものにある。
 そして、米軍のコロナ感染者のうち少なくとも46人が基地外で飲食していたことも明らかになった。4軍調整官の言う「ロックダウン」は空文句にすぎない。既に感染者の出ている米軍基地、キャンプ・キンザー、普天間飛行場、嘉手納基地、キャンプ・マクトリアス、キャンプ・ハンセンのすべてのゲートを封鎖し、一切の車両と人の出入りを遮断せよ。米軍車両、軍用機、部隊、軍人軍属家族の一切の移動を禁止せよ。県外から嘉手納、普天間、ホワイトビーチへの航空機、船舶の離発着を停止せよ。
 県民の命を最優先し、米軍を沖縄県と日本政府の統制支配下に置かなければならない。

7.13

辺野古・大浦湾

カヌー11艇と抗議船3隻が海上行動

 違法な埋立工事に抗議する行動は、キャンプ・シュワブの工事用ゲート前、本部半島の土砂を運びだす琉球セメント安和桟橋と本部塩川港、辺野古・大浦湾と安和桟橋の海上でうむことなく連日闘い抜かれている。
この日、早朝から辺野古のテント2に集まった海上行動グループは直ちに、カヌー一一艇と三隻の抗議船(平和丸、不屈号、ブルーの船)で、埋立工事現場へ向かった。大浦湾のフロート開口部を開け、本部半島からの土砂運搬船を迎え入れる作業の最中に、海保の過剰警備により半分のカヌーは拘束されたが、残り半分のカヌーと抗議船で土砂搬入に対する抗議を行なった。カヌーは航路のすぐ前まで行きプラカードを掲げる。抗議船はマイクで、「不法な埋め立てを中止せよ」と訴え、「島人の宝」「一坪たりとも渡すまい」などの歌と共に「工事やめよ」とのアピールをくり広げた。
その後、早めの昼食の弁当をとりK8へ向かった。丁度一隻目の台船が土砂を積み下ろし終えて離岸し二隻目の台船が接岸するタイミングで、フロートを越えたカヌーは一斉に台船へ向かって突進した。海保の高速ゴムボートの追撃を避けるため懸命にパドルをこぐが、しばらくして全艇が拘束された。
午前中と午後の二回、海上でのカヌーと抗議船の行動は不法な埋立工事を少しずつ遅らせ続けると共に、県民の不変の民意をアピールする行動となっている。
既成事実を積み重ねれば、県民もそのうちあきらめて新基地反対・埋立反対を言わなくなるだろうと見込んでいるとすれば、とんでもない思い違いだ。辺野古新基地反対は決して変わらない県民の総意だ。破綻した埋め立て工事を、行政の惰性で継続するのをやめよ。

7.15

琉球セメント安和桟橋

押し寄せるダンプに抗議


今週は不安定な天気が続いた。ゲート前ははじめ晴れていたが、昼前ごろ山手の方に黒い雲が現れたかと思うと、まさかの大粒の雨が数十分にわたって降り続いた。ダンプによる赤土土砂の搬入は先週火曜日から昼休みの時間も休まず行われるようになっている。この日も雨の中、次々と、赤土や砂利を積んだダンプが左からも右からも入口ゲートに押し寄せた。
ゲート前は、島ぐるみ南部や北谷(ちゃたん)のメンバーがノボリやプラカードを手にして「サンゴの海を守ろう」と声をあげた。出口ゲートでは『集まれ辺野古』のグループが出てくるダンプの前をゆっくり行進で抗議の意思を示した。
また、桟橋周辺では、海上行動チームがカヌーとゴムボートで、土砂運搬船の離岸を止める行動を果敢に展開した。
辺野古のゲート前では、平和市民連絡会を中心に資材搬入に対する座り込みを貫徹した。搬入は合計二三〇台、うち生コン車は八九台。生コンは、辺野古側の護岸のかさ上げに使われている。

7.19

南京・沖縄をむすぶ会が5カ月ぶりに会合

 七月一九日(日)午後、おもろまちの那覇市民活動支援センター二階会議室で、今年二月以来五カ月ぶりに、南京・沖縄をむすぶ会の集まりが持たれた。
第一部はむすぶ会の今後の活動方針、並びに規約、会員登録などについて。南京の通訳ガイド・戴さんの最近のメールも紹介された。
第二部は、『県内市町村史に掲載された中国での戦争体験記を読む〜沖縄出身兵一〇〇人の証言〜』の読書会。第一回目のこの日、一節ずつ交代で読み合わせをした。マイクはコロナ感染に留意して、発話者が代わるたびにアルコール消毒用ティッシュで丁寧に拭った。
天皇制日本国家による中国侵略と一五年にわたる戦争は中国の国土を破壊・荒廃させ、おびただしい中国の人々の命を奪うと共に、戦争に動員した日本・沖縄の軍人軍属、民間人にも大きな犠牲を強いた。県内市町村の戦争体験記には、日本軍による戦争の実態が詳細に書き留められている。
冊子はA4版、二六〇ページを越えるが、じっくりと月一回のペースで読了する予定だ。

県内市町村の中国での戦争体験記を読む(24)

日本軍による戦争の赤裸々な描写


中国侵略の日本軍には、県内各地からも多くの青年たちが動員されて命を落とし、また、戦争の実態を目撃し記録した。県内各地の市町村史の戦争体験記録にはそうした証言が数多く掲載されており、日本軍による戦争の姿を赤裸々に描いている。今号の『字誌山田』の発行は二〇一九年だが、証言の多くは一九九〇年代初めに採録された。

恩納村『字誌山田』(2019年発行)
 糸数森正 「愛馬と共に」

 山田アジマ―から現在の公民館、一斑へと抜ける三叉路に戦前の山田共同売店があった。そこで字中の人々の見送りを受けたが、その当時(昭和十年十二月)は支那事変も勃発しておらず、いわゆる平時の入隊であり、送る側にしても送られる側にしても、生死に対する危機感はなく、割りにリラックスした見送り風景だったように思う。私自身、二か年(平時の徴兵は二か年だった)の訓練を受けるぐらいの気軽な気持ちだったし、残された家族に対する不安もそうなかった。
その頃の恩納村の兵事係は戦後村長を務められた津嘉山朝信氏で、同氏と共に、村差し回しの三トントラックで那覇まで行った。そこから兵員輸送船「湖南丸」で鹿児島へ向かった。津堅厚次郎、比嘉賀賢、座間味栄福氏らと一緒であった。鹿児島からは汽車で小倉へ。昭和十年の兵役検査で甲種合格で体躯も大きい方だったので野戦重砲隊第5連隊に配属された。私の任務は御者(馭者)と呼ばれ、馬の世話をすることであった。御者一人につき二頭の馬が割り当てられた。その当時、ある意味においては人間の命よりも大切な馬であり、大事に扱うよう命令されたし、また他の御者の馬に負けたくないという気持ちも手伝って、誠心誠意、面倒見たように思う。
参考までに野戦重砲隊について記しておこう。重砲隊の主な任務は、歩兵隊の攻撃をより効果的にかつ円滑にするために前もって大砲で敵陣地を攻撃することである。我々御者の役目は二列縦隊、計十二頭の馬で砲台を運ぶことである。陣地まで運んだ後は砲手の仕事で、御者は馬と共に後方に退き、直接攻撃に参加することはなかった。
二か年の兵役も終わりに近づき、帰還を心待ちにしていた頃、支那事変が勃発してしまった。……
我々第五連隊も派遣されることになった。昭和十二年八月の事である。小倉から門司までの行軍中、沿道は人波にあふれ、歓呼の声に送られての出兵であった。勝ち戦を続けている時で、国民は既に戦勝気分だったように思われる。門司から釜山へ上陸。大連を経由し、北京、南寧までは汽車輸送。そこで戦闘準備に取りかかった頃、大半が赤痢に罹ってしまった。私も罹患してしまい入院する羽目になった。入院と言っても形ばかりで、廊下に転がされているようなものであった。赤痢の原因はよく分からないが、私の考えでは中国の水ではなかったかと思う(かなり塩分も含んでいた)。それ以来生水は一切口にしなかった。二、三週間は入院していただろうか。
戦況は逼迫し「半分ノウイ(完全に治っていない状態)」のまま、前線に送られることになった。全く不条理な世界である。赤痢で体力はなく薬も不十分であったが、伝え聞いた素人療法でいつの間にか治ってしまった。にんにくの力である。現地でにんにくを調達しそれを焼いて食べ続けたのである。入院の間に愛馬はやせ細り、くやしい思いをしたものである。前線に向かう途中、支那軍も赤痢にかかったと見え、死体が至る所に散乱していた。……
支那に於いての最初の戦いは永定河の渡河戦であった。黄河は幅広く深い。何トンもある砲台を運ぶための浅くて馬の通れる個所はそうあるものではない。渡河の場所確保のため、黄河を挟んでの激しい攻撃がかわされたのである。飛弾距離が十キロにもおよぶ十五センチ砲が飛び交うのである。
開封では支那軍の水攻めにあった。……山西省には二度行った。最初は討伐作戦と呼ばれていた。山西省は文字通り山の中で、石だらけの道であり、おまけに一か月近くも雨が降り続いていたので思うように進軍できない状況になった。その上、支那軍の敗残兵が時所かまわず出没し随分悩まされた。ただその頃日本軍の酒樽輸送の馬車から失敬して飲んだ酒と現地調達した牛肉の味が懐かしく思い出される。……
通過する村々では「日本人歓迎」ののぼりを立て「チャースイ(海水・炒水)」と呼ばれるさ湯やお菓子で歓待されることも度々であった。我々を「大人様」とも呼んでいた。親日派だったのか、それとも難をのがれたいための悲しい護身の知恵であったのだろうか。
私達第3中隊は(本田大尉)はその後、保定、正定、洛陽と進軍した。洛陽近くではほこりに悩まされた。粒子の細かい赤土が延々と続く。まさに赤いセメントの中を行軍するようなものである。春になると気流に乗って中国から沖縄まで飛来する黄砂を思い起こせば想像つくものと思う。
その後、再び山西省。そしてノモンハン事件の勃発に伴ない北上し、満州、孫呉に移動した。孫呉にて参戦の準備をしていたが、ロシア軍と日本軍の間で政治的に解決したため、幸いにして参戦せずにすんだ。孫呉の日本軍兵舎で次の指令を待って休養している時に満期除隊になり帰還命令が出たのである。
昭和十四年十一月三十日の事であった。二か年のつもりが四か年も務めさせられてしまっていたのであった。上等兵に進級し、勲八等旭日章、精勤賞をいただいたが、そんなものは何にもならない。月給十円ではあったが、戦争の艱難辛苦を考えるとただ働きさせられたようなものである。青春時代も奪われてしまった。




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