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    かけはし2020年8月3日号

日本政府は県民の命と生活を守れ!


沖縄報告 7月26日

米軍の勝手気まま、日米同盟の実態むき出し

沖縄 K・S

コロナ感染が爆発的に広がる米軍

普天間とハンセンを封鎖し、コロナ感染拡大を止めよう!

 米軍基地の中でのコロナ感染拡大が止まらない。七月二五日付の新報、タイムスの紙面によると、米軍関連のコロナ感染者が二四日新たに少なくとも四二人確認され累計で二〇五人となった。内訳は、普天間飛行場が二七人増えて合計一一〇人、キャンプ・ハンセンが一四人増えて合計八七人、嘉手納基地が一人増え計六人などだ。県内の民間人の感染者が一〇人増えて合計一七二人に留まるのに対し、米軍の感染拡大が顕著だ。米軍の感染は今後も拡大し続けるだろう。

米軍内のコロナ感染率は県内の35倍

 県の人口は今年六月一日現在推計で、一四五万七五一五人。対して沖縄駐留米軍は、二〇一一年の人数が、沖縄県知事公室基地対策課が発行した『沖縄の米軍基地』(平成三〇年一二月)に掲載された「軍人・軍属及び家族数」によると、軍人二万六八八三人、軍属一九九四人、家族一万九四六三人、合計四万八三四〇人である。この数字は常に変動しているが、日本政府・沖縄県はつかんでいない。なぜなら、米軍は二〇一一年以降発表しなくなったし、入管・検疫などの義務を一切課されることなく自由に、米本国や海外の米軍基地から日本・沖縄の米軍基地に出入りしているからだ。
世界最大のコロナ感染地であり、全国の感染者四〇〇万人、米軍の感染者二万人超の米国から、部隊の移動、訓練、定期ローテーションにより、米軍人・軍属・家族が沖縄に入ってくる。そして、基地内外で軍関係者だけでなく、軍雇用員はじめ県民との接触をする。
キャンプ瑞慶覧の米海兵隊太平洋基地政務外交部長のニール・オーウェンズ大佐は七月二四日、「飲み会が感染拡大の原因ではない」「陽性の海兵隊関係者で参加者はいない」と述べた。とすると、現在の米軍の爆発的な感染拡大は、県外・国外から持ち込まれたことになる。日本政府は一方で米国からの日本入国を規制しているが、他方で米軍が抜け穴となっている。これが「日米同盟」の実態だ。
米軍が勝手気ままに日本・沖縄基地を使用し、事件事故、犯罪、環境汚染、騒音に加えて、コロナ感染を拡大する元凶になっている。「ロックダウン」しているはずの米軍基地で、人も車も航空機も出入りしている。オスプレイの夜間飛行も続いている。これでは感染は止まらない。普天間飛行場とキャンプ・ハンセンを完全に閉鎖する以外にない。検査を保障することはもちろんのこと、軍労働者を自宅待機として賃金を補償し、県民の命と生活をまもれ!

沖縄県がいびつな
日米地位協定を検証

 沖縄県は、翁長雄志知事の時代に、日米地位協定を国際的に検討するため、ドイツ、イタリア、さらにイギリス、ベルギーへ県職員を派遣し調査するプロジェクトをスタートさせた。昨年四月まとめられた「他国地位協定調査報告書(欧州編)」に目を通すと、日米安保と沖縄基地の異常な実態が明らかになる。
まず、裏表紙の「米国外の駐留人数及び在日米軍の割合」を示すグラフだ。全世界に展開する米軍のうち在日米軍が占める割合は、二〇〇八年に一〇%余りだったのが、二〇一八年には三三・七%に上昇した。つまり、日本・沖縄以外の他の地域からの米軍の撤退が進んだが、在日米軍は相変わらず固定化されている結果、海外駐留米軍の全体の三分の一が日本に集中することになったのだ。そしてその半分以上が沖縄にいる。
報告書は「日米地位協定の見直しについては、米軍基地が集中する沖縄という一地域だけの問題ではなく、我が国の外交・安全保障や国民の人権、環境保護、そして何よりも、日本の主権についてどう考えるかという極めて国民的な問題である」と提起している。
世界から見ると、日本は本当に異常な国だ。しかも、政治家たちが「対等な日米同盟」という欺瞞をたえず宣伝する。対等な同盟に、首都の空を広範囲に支配する「横田ラプコン」という米軍優先空域などある筈がないことは明白であるにも関わらず、だ。

「他国地位協定調査報告書(欧州編)」の問合せ先

 基地の管理権、自治体の立入り権、訓練・演習への関与、警察権、国内法の米軍への適用、航空管制、空域の利用等に関して、各国の実情と法整備が簡潔に報告されている。(連絡先=沖縄県知事公室基地対策課。電話098-866-2460。住所〒900-8570 沖縄県那覇市泉崎1―2―2)

7.20

辺野古海上行動

カヌー4艇、抗議船2隻で
埋立中止!を訴え

 七月二〇日朝、テント2に集まった参加者は直ちに、埋立工事現場に向かった。カヌーはいつもより少ない四艇、抗議船は不屈号と平和丸。
海上行動チームはまずK9護岸に移動した。台船が護岸を離れるタイミングでフロートを越え、突進を試みた。必死にカヌーを漕ぎ、台船への接近を図るが、数隻の高速ゴムボートの海上保安官に阻まれ、間もなく拘束された。拘束されると今度はカヌーの中で、プラカードを掲げ「埋立中止」「美ら海まもれ」とアピールを行う。そして、海保のボートで開口部まで送り届けられる。開口部で待機し解放されたカヌーメンバーの引き渡しを受けた抗議船は、再びK8やK9護岸、あるいは、長島や瀬嵩の浜、辺野古の浜に行き態勢を整えるのである。
この時期、辺野古側の浅い海で、度々ウミガメに遭遇する。先日はタイムスの記者がタイミングよく、海から顔を出したウミガメの写真を撮ることに成功した。ジュゴンも近寄ってきているに違いない。生物多様性の海、辺野古・大浦湾は県民の財産、ウチナンチューの宝。日本中どこを探してもこんな海はない。日本の宝でもある。
必ず辺野古・大浦湾を守り抜くという信念をもって、海上行動チームは身を挺して埋立に反対する海上行動を休みなく続ける。

7・22琉球セメント安和桟橋

日本軍の戦時暴力の赤裸々な描写


安和桟橋の入口・出口ゲートでは、この日も朝から、ノボリとプラカードを手にして抗議の声が響き渡った。沖縄にとって、亜熱帯の森を崩しサンゴの海を埋め立てるということほど愚かなことはない。海上では、前日に続きカヌーチームが炎天下、土砂運搬船の動きを止める行動を身を挺して行った。
断層と軟弱地盤の広がる大浦湾でこれ以上無理な埋立工事を強行してはならない。安倍政権と沖縄防衛局は潔く辺野古から撤退する決断をせよ。破綻した工事を設計変更して継続することは安倍の不名誉にさらに不名誉を重ねるようなものだ。
猛暑のこの日三時過ぎに、突如大雨が降り始めた。ゲート前はびしょぬれ。海上行動に出ていたカヌーチームもびしょぬれになって、急ぎ抗議行動の整理を行った。
中国侵略の日本軍には、県内各地からも多くの青年たちが動員されて命を落とし、また、戦争の実態を目撃し記録した。県内各地の市町村史の戦争体験記録にはそうした証言が数多く掲載されており、日本軍による戦争の姿を赤裸々に描いている。引用は原文のまま抜粋し、省略は……で示し、補足は〔 〕に入れた。字誌の発行は二〇一九年だが、証言の採録は一九九〇年代初めに行われた。

恩納村『字誌山田』(二〇一九年発行)

仲本雪夫「生死の分れ目だった夜間行軍」


昭和十七年(一九四二年)二一才の時、宮崎県都城の西部隊に入隊し一週間ほどいました。そこから支那のアンユウ〔安邑〕に徴用されて行き、アンユウから山中の雪の降るキカガーで約半年間、銃剣の使い方や射撃の訓練を受けました。訓練が済むと上等兵として第一線部隊に配属されました。「華南作戦」と呼ばれた戦闘に加わり、戦っては行軍して南下して行きました。ベトナム(当時サイゴンと呼んでいた)、タイ、マレーシャ(マレイ)と下り、マレーシャのクアラルンプールでイギリス軍の捕虜になりました。ベトナムでは「ハザン攻撃」と呼ばれた戦闘にも参戦し、終戦を知ったのはタイにいる時でした。
終戦と同時に鉄砲に印としてあった菊の御紋を石でこすって消しイギリス軍に返しました。
最もきつかったのは中国からマレーシャまでの行軍でした。一晩中歩き続けることが多く、雨が降ろうが風が吹こうが飢えと疲労で体力はなくなり、日本兵の中には行軍についていけず道端に倒れこみ脱落する者がいました。皆、歩くだけで精一杯で誰も助けることができず置き去りにされるのです。道端に座り込む兵士も、もうここで死んでいいと覚悟して脱落する訳です。また、あまりに過酷な行軍に耐え切れず、兵士全体に配られていた短刀で自害する兵隊もいました。
捕虜収容所ではイギリス人にさんざんこき使われました。約二か年間、カバで作った小屋(カバ屋)に七人入っての生活でした。クアラルンプールは山中にある街で、収容所での仕事はゴム林開拓が主で、開拓地にトウモロコシ(トウキビ)、粟、陸稲等を栽培しました。トイレの清掃や炊事当番も日課としてありました。同じ捕虜(日本兵)の間でも、四、五年兵が初年兵に洗濯をさせたり平然と差別がまかり通っていました。特に福岡出身の兵士たちは、沖縄というと「邪道沖縄」と侮辱した呼び方を吐き捨てるように浴びせていました。
捕虜収容所での主食は米でした。米といっても雑炊で一人一杯ずつだから常に空腹でした。しかし後で考えてみると、捕虜が食べた米は、「百年戦争」を日本軍が企て山中に貯蔵していた米ではなかったかなと思います。倉庫には、米の他黒糖もあり、イギリス人の警備員からバケツ一杯もらったことがありました。また、山中で捕まえたニシキヘビを焼いて食べたことも何度かありました。風呂は、山中のあちこちに小川が流れており、そこで水浴びして済ませていました。
きつい労務仕事の中、唯一の楽しみは一週間に一回催される捕虜による演芸会でした。泥棒も警察も先生もいる捕虜の中には、大変な芸(技)持ちがいて、各自の得意芸を披露する日にはしばし捕虜生活を忘れるほどでした。

久場兼一「シベリアでターイユ(鮒)シンジ(煮汁)を飲んで生きながらえる」

 私に赤紙(召集令状)が来たのが昭和一七年(一九四二)の三月で、大坂府西淀区布屋町六番地にいる時で、今もって住所をはっきり覚えています。家族のことを思うと身を切るような思いでした。長女の千代子さんは小学校一年生の頃で、家で出征の送別をやったのを覚えているとの事でした。このことは後で解ったことでしたが、出征の時、妻のフサ子が軍服の襟にお守りの体毛を縫い付けてあったそうです。それと千人針の白い布地も持参して大阪から発ちました。
姫路に一週間ほど滞在して下関から釜山に上陸しました。釜山に一晩泊ってからシベリア鉄道の汽車に乗り、東満地区のトウアンヒトクに着きました。第74部隊に配属され、山森正次陸軍大尉の名前はまだはっきり覚えています。第74部隊のトウアンヒトクでは主に陣地構築や将校当番を昭和一八年まで約一年間やりました。昭和一九年には満州の国境近くボタンコウにある第5軍司令部隊に転属になり、陸軍中将清水則常閣下のもとで約半年間、同様な任務を務めました。昭和二〇年八月の終戦はボタンコウで迎えました。……
捕虜になって一五日ほどは満州にいましたが、間もなくしてシベリア連行が始まった訳です。私たち司令部関係は一番あとにまわされ二〇日程歩きっぱなしで、夜は野宿をしてシベリアに到着しました。夏でしたので野宿できたのです。……
私は収容所での仕事は一日も休まず務めました。ウズラマメ(缶詰)の掛け具の一杯が二食分でしたので仕事に出れば何かの食べ物にはありつけました。コウガイコウで田圃の農作業をしている時、ターイユ(フナ)やクーイユ(鯉)がおり、そのシンジ(煮汁)の汁は飲み、身の魚はヤマトゥにあげたらとても喜んでいました。それから、シベリアでの稲作は一期作で、飯盒に籾ごと入れて焼き、焼きあがると両手でこすって焼き米を食べました。三日食べると必ず便秘するのでしばらくしてからまた食べるという具合でした。田圃の仕事は、ヘリコプターで種を蒔くので田植えも田草取りもなく、収穫の仕事のみでした。
復員は、ナホトカまでは汽車に乗り、シベリアからの線路は一本線のレールで別の汽車が通り過ぎるまで半日も待つ状態で一〇日ぐらいかかったと思います。ナホトカから京都の舞鶴に着いたのが昭和二三年(一九四八)九月三日でした。私はその時の引揚証明書を今もって大事にとってあります。

『県内市町村史に掲載された中国での戦争体験記を読む〜沖縄出身兵100人の証言〜』発行
この間連載してきた証言をまとめ直し、日本とアジア、沖縄の歴史の中でとらえた冊子に出来上がった。ぜひ一読を。(問合せ先=Fax 098-998-7629 Email okihiro@me.au-hikari.ne.jp)



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