もどる

    かけはし2020年8月10日号

安楽死議論の蒸し返し、なぜ


ALS嘱託殺人事件の背後には何が

新自由主義との正面対決が不可欠

「生きる権利」守れる社会へ

「かけがえのない命」の裏側で

 二人の医師(一人は不正に医師国家試験を受けた可能性があるので、この書き方は不正確である可能性が高い)が京都在住のALS(筋萎縮性側索硬化症)に罹患していた女性を、女性から依頼を受けて殺害したとして逮捕された嘱託殺人事件が衝撃を与えている。
 今年七月は、植松死刑囚により「障害者は不幸しか生み出さない」と一九人の入所者が殺害された津久井やまゆり園事件から四年。しかし、その後の四年間は、やまゆり園事件の教訓などなかったかのように安楽死を肯定する言説が飛び交う日々だった。昨年だけでも三月には公立福生病院で四〇代の女性が主治医の「アドバイス」により人工透析を中止して亡くなった。六月にはNHKスペシャル「彼女は安楽死を選んだ」が放送された。今回の事件の被害者はこの番組を見て影響を受けていたと報道されている。そして行われた参院選挙では、れいわ新選組から舩後、木村両議員が誕生した。一方で「安楽死制度を考える会」が候補者を擁立し当選者は出さなかったが約二七万票を集めた。
 そして今年は、コロナ禍の五月、集中治療室の病床や人工呼吸器は不足する事態になるかもという緊張が社会に走る中、大阪大学の現役医師が高齢者向けに「集中治療を譲る意志カード(譲カード)」を作成した。そして都知事選後に明らかになった、れいわ新選組の大西つねき氏の「命の選別」発言とその後の除籍。「かけがえのない命」という言葉が薄っぺらな建前のように感じさせられるほど、現在の日本は「企業の生産活動に貢献できないものは無価値」といったメッセージであふれかえっている。

「無価値な命はない」が出発点


 したがって今回の事件は起こるべくして起きたと言わざるを得ない。事件を受けて「いまこそ安楽死の議論を開始すべき」などという主張がある。しかし、今回の事件は、主治医でもない医師が自らの歪んだ価値観と金のために起こした殺人事件であり、安楽死事件ではない。
 そして私は、そもそも安楽死など必要はない、安楽死を望まなくても良いような社会を目指すべきだとして五年前に本紙に以下のように書いた。
 「安楽死の法制化は必ず対象の緩和に行き着く。なぜなら安楽死法制化は、安楽死に値する無価値な命があることを前提にしているからである。本来『取れない苦痛がある』ならば、解決策は『少しでも苦痛が緩和されるように努力しよう』、つまり緩和医療の充実になるはずで、『安楽死』では決してない。ところが『苦痛が取れない苦痛があるから安楽死』、ここに論理の飛躍がある」。「飛躍の背景にあるものは、がんで苦しむだけの命=無価値な命という考えなのである。無価値な命があるという考えを許容すれば、無価値な命とされる対象は、いずれ末期患者から障がい者へ、そして高齢者へと必然的に拡大していく」(「かけはし」2015年5月18日号「緩和医療の充実が大事『無価値な命はない』という原則」)。安楽死に値するような無価値な命はない。これが今回の事件を考える出発点である。

「命の選別」に追い込む現実


 そのうえで、次にALSという疾患について整理しておきたい。ALSに罹患すると運動神経が侵され全身の筋肉が動かせなくなる。呼吸筋や食べ物を飲み込む筋肉も動かせなくなるので、人工呼吸器の使用や胃婁が必要となる。しかし感覚は障害されず意識は清明に保たれる。眼球運動など障害されにくい機能を使って、つまり視線を合わせることで文字盤などを使い、コミュニケーションは可能である。れいわ新選組の舩後議員はこの疾患の当事者である。
 嘱託殺人事件から間をおいて、メディアでもALS当事者が活発に社会生活を送る姿が報道されるようになった。報道に明らかなようにALSは手ごわい病気ではあるが、適切な医療と支援があれば、国会議員活動も可能な安楽死などとは無縁な病気である。それにもかかわらず今回の事件を利用して安楽死制度を法制化しようという動きが活発である。
 維新の会は尊厳死プロジェクトチームを設置することを公表している。そして事件直後に舩後議員が「『死ぬ権利』よりも、『生きる権利』を守る社会に」とコメントしたことに対して、同党の馬場幹事長は「議論の旗振り役になるべき方が議論を封じるようなコメントを出している」と批判している。舩後議員に対して自らの存在を否定して自死を選択せざるを得なくなる議論を開始しろと言っているわけである。馬場幹事長の発言は、議論を呼びかけているようにみえるが、ALS当事者等の生きる権利を頭ごなしに否定するもので倫理的に問題である。
 私たちは、今後も続くだろうこのような動きを注視し、その度に強く批判していかなくてはならない。しかし今秋には解散総選挙があるかもしれないという時期にこのような発言をするということは、尊厳死という名の下での、命の選別が必要だという主張が票になると確信しているし、昨年の参院選の結果を見ればその確信はあながち間違いではないということである。
 命の選別もやむなし、という判断が受け入れられる背景には、財政難による国家・自治体破産論。それを基にした医療・福祉予算の削減による貧弱なサービス。その貧弱なサービスが当事者とケアワーカーから尊厳を奪うという構造がある。この構造は、影響力の強弱はあるが日本ばかりでなく、米国、EUなどに共通してみられる。
 日本でも国や自治体の財政難を理由に医療・福祉予算を削減する新自由主義政策が三〇年以上に渡って続けられ、医療・介護の現場でも採算が何よりも重視された。その結果現場では、医療・介護サービス利用者の人権を守ろうとすれば、そこに働く労働者の権利が守られないような事態に陥った。
 とりわけ介護の現場では「ワンオペ」と呼ばれる一人で夜勤を行うような勤務が常態化している。一人夜勤では、仮眠はおろか労基法に定められた休憩時間も取れない。そのため介護の現場では、やむを得ず身体拘束といって利用者の身体をベッドや車いすに縛り付けることが日常的に行われ、利用者とケアワーカ―両者の尊厳が日々損なわれている。

新自由主義者の意識的扇動


 津久井やまゆり園事件を起こした植松死刑囚に典型的にみられるように、貧困なケアの現場が絶望的な「命の選別」論を生み出す培地になっている。植松死刑囚は一二年一二月にやまゆり園に就職する。その頃は障碍者を「かわいい」と言っていたが、一五年夏ころには「障害者にかかるお金を他に回した方がいい」と思うようになった。やまゆり園では、要件を満たさないままの身体拘束や、長時間の居室施錠など長期にわたる「虐待」の疑いを神奈川県の検証委員会の中間報告が指摘している。やまゆり園の現実が植松死刑囚の「思想」を育んだのは間違いない(障碍者を「かわいい」と評価する感性には差別が含まれている可能性が高く、もともと植松死刑囚は障碍者に対して差別的だったとも言えるが今回はそのことには踏み込まない)。
 貧困なケアの現場と共に「命の選別」論を生み出し社会に発信しているのが、障碍者や高齢者ばかりでなくありとあらゆる福祉政策に敵対的な新自由主義者である。彼ら彼女らが主張するのは、要は限られた社会資源をどのように分配するのか、生産性のない人に分配するゆとりは社会にはないというものである。元れいわ新選組の大西氏の考えがまさにこれである。
 「どこまで高齢者を長生きさせるために若者たちの時間を使うのか。真剣に議論する必要があると思います。こういう話、政治家は怖くて出来ないと思うんですよ。命の選別するのか、といわれるでしょ。命選別しないとダメだと思いますよ」という大西氏の発言は厳しく批判されれいわ新選組を除籍となった。
 しかし現在でも「命の選別が大西氏の真意ではない」と擁護する発言が見られる。このような発想が受け入れられてしまうのは行き詰った現代社会に対するオルタナティブが不在だからである。一〇〇兆円をこえる国の「借金」、この問題を解決しようと植松死刑囚は「日本国と世界平和のために」やまゆり園入所者を殺害した。日本の将来のために「命の選別」が必要だという点において植松死刑囚と大西氏の考えに差はない。しかし障碍者や高齢者を生かせておく余裕はないと考えることと、それを実行することの間には途方もないギャップがあるが、植松死刑囚はそれを飛び越えてしまった。

オルタナティブ創出が反撃の要


 一一〇〇兆円の借金問題に象徴されるあらゆる面で行き詰った社会に変わるオルタナティブな社会・経済モデルが創出される必要がある。それはタックスヘイブンを利用した「合法的」脱税を取り締まることであり、累進課税を強化することであり、国際的金融取引に対しトービン税を導入することであり、辺野古埋め立ての即刻中止など軍事費を削って福祉に回すことであり、巨大開発を中心にした大企業へのばらまき予算を医療・福祉中心に組み替えること等である。
 今はまだバラバラなオルタナティブ社会のピースを運動の中で検証しつなぎ合わせていく多くの人々との継続的な共同作業が求められている。そして何よりも貧困なケアの現場を変えていくことが喫緊の課題である。ケアの場が利用者にとっても労働者にとっても豊かな場所に変わらなければ、そしてオルタナティブな社会・経済モデルを創出しなければ、いつまでも安楽死必要論はなくならない。
       (矢野薫)


もどる

Back