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    かけはし2020年8月10日号

埋め立てさせない、連日果敢に抵抗


沖縄報告 8月2日

「普通のおじん、おばん」による闘い

沖縄 K・S

破綻した辺野古埋立工事は中止する以外ない

変更申請に反対する意見書を全国から沖縄県へ!

 沖縄防衛局が提出した辺野古埋立に関する変更申請書の告示・縦覧が八月上旬から始まる。名護市はじめ全県の何カ所かと共に、県海岸防災課のホームページにも掲載される。告示・縦覧の三週間に、「利害関係人」は誰でも自由に意見を述べることができる。様式は手紙、はがきでの郵送、来庁しての提出など問わない。全県、全国から、埋立変更申請に反対する意見書を沖縄県玉城デニー知事に集中しよう。知事は常々変更申請を認めないと述べている。知事と共に、政府防衛局の辺野古埋立工事を中止させよう!
 「辺野古新基地を造らせないオール沖縄会議」は、意見書の提出を呼びかけている(連絡先=福元勇司事務局長。電話090-8290-2860)。意見書のあて先は〒900-8570 那覇市泉崎1-2-2 沖縄県土木建築部海岸防災課(電話098-866-2410)沖縄県知事玉城デニー。提出者の住所、氏名、電話、利害関係の内容、変更申請を不承認として欲しいとの意見、その理由を書けばよい。

辺野古。安和・塩川・海上で、連日の現地行動

 安倍政権の不法な辺野古埋立工事に反対する現地行動は、コロナで本土からの参加が難しい中でも、連日、辺野古ゲート前、琉球セメント安和桟橋、本部塩川港、そして辺野古・大浦湾と安和の浜で闘い抜かれている。今号では、カヌーチームの行動を紹介する。

〈カヌーチームTさんの報告〉

7月28日(火)、安和
晴れ。日中三三℃と暑い。
現場に到着するとすでにガット船(輸送船)に赤土の積み込みを開始していた。船は大型なので最低でも一〇tダンプカー四〇〇台分以上の積み込みはある。およそ一〇時半には赤土の積み込みは終了すると予想する。
船首と船尾に分かれ、各自思い思いの場所に取り付き、カヌーを固定する。海上保安官が海に飛び込んできて、全員が拘束されるまで約一時間一〇分(私の計測)ほど粘った。ダンプカー四〇〇台を一時間一〇分ストップさせたことに等しい。
本日参加した八人は平均すると六〇歳を超えているかもしれない。このような普通の市民が頑張ることができるので、われと思う方はぜひ参加してほしい。おもに日曜日にカヌー教室を開催している。日曜日に参加できなくて普通の日に参加できる人は連絡すればいつでも教室を開催します。
今日も、船上より大音量の音声を浴びせられる。五分に一度、同じ内容を三回「危険です。直ちに船から離れてください」と繰り返す。
近いところにスピーカーがあるのでとても耐えきれない。私たちの騒音計で測定してみると一一〇dB(デシベル)あった。一〇〇dBは地下鉄の電車の中の騒音。ちなみに六デシベル違うと音の大きさ(音圧)は2倍になる。

7月29日(水)、安和

 カヌー参加人数は一〇人、サポートのゴムボート二人。
現場に到着すると、すでにガット輸送船に赤土を積み込み開始していた。船の大きさと喫水線の状況により今どれぐらい積んでいるかは大体見当がつく。また安和の護岸でベルト・コンベアにダンプカーが赤土を供給しているのを数えているAさんに聞くとかなり正確に積み終わる時間を予測できる。今日はおよそ一一時二〇分と予想する。
カヌーは通常は予想の一時間前に浜を出ることにしているので一〇時一五分には出艇する。
私は船首に近い桟橋下に直行した。約一時間かかってカヌーを固定する。本日私は昨日よりもかなりよく粘り約四五分間頑張った。
この最初の輸送船が出港したのはなんと一三時二五分。つまり私たちは一時間二〇分(私の測定)粘った。私の記憶では 「最長時間」だと思う。拘束され浜に戻されてもそのような話で盛り上がった。
暑い中食事もせずこの時間まで粘る私たちはよほど意思が強く、頑強な人を予想するかもしれませんが、どこにでもいるような 「普通のおばん、おじん」です。

7.26

牛島貞満さん講演会に70人

「地下壕は沖縄戦の現実を学ぶ大切な場所」

 七月二六日(日)午後、那覇市の教育福祉会館で、首里城地下の第32軍司令部壕の保存・公開をテーマにした牛島貞満さんの講演会が開かれた。約七〇人参加し、関心の高さを示した。主催は「第32軍司令部壕の保存・公開を求める会」。会長は元名桜大学学長の瀬名波榮喜さん、副会長は、琉大名誉教授の垣花豊順さんと大田県政で知事公室長を務めた高山朝光さん。
はじめに、牛島貞満さんが「第32軍司令部壕跡を歴史・平和学習の場に」との資料とパワーポイントを使って講演し、「地上の琉球文化と地下の悲惨な戦争の現実を学ぶ首里城一帯の総合的な再建」を望むと述べた。
牛島貞満さんは、第32軍牛島満司令官のお孫さん。小さい頃から「おじいちゃんは立派な軍人で、とても偉かった」と聞かされ、八月一五日には家族そろって靖国神社に参拝し、遊就館に展示されている牛島司令官の軍刀や軍服を見て育った貞満さんが、それに疑問を持つのは摩文仁の平和祈念資料館を訪れてからだったという。
貞満さんは二〇年以上にわたって沖縄に通い、聞き取りや資料の収集を続けてきた。昨年八月一五日のNHKニュースウォッチで、貞満さんは学校での平和学習に取り組むに至った自分自身の心の軌跡について語っている。
一九四五年六月二三日(貞満さんによると二二日)、牛島司令官が長参謀長と共に「自決」するにあたって、「祖国のために最後まで敢闘し、生きて虜囚の辱を受くることなく、悠久の大義に生くべし」と命ずる遺書を残したことはよく知られている。その結果、沖縄戦が最後の一兵まで「玉砕」する終わりのない戦闘になった。貞満さんは、一般兵士や学徒隊の女学生などから「優しい人格者」と慕われた祖父・牛島司令官が、なぜ多くの命を犠牲にする命令を出したのかと疑問を抱きながら、「祖父が沖縄県民や日本軍兵士の犠牲を極めて多くした」事実に向かい合ってきたが、犠牲を大きくした最大の原因は「南部撤退」と「最後まで敢闘」の命令だと考えるに至った。
この日の講演に先立つ七月二一日、牛島貞満さんは、那覇市文化財課の職員らと首里城地下の第32軍司令部壕の五カ所の坑口を視察した。貞満さんによれば、首里城との一体性を持って地下壕を保存・公開するに当たって、第1坑道が適しているのではないかという。琉球新報デジタル版二〇二〇年七月一一日には、一九九七年当時牛島さんたちが入壕調査した際の一五分の映像が公開されている。内部の様子がよく分かる。
沖縄県は第32軍司令部壕の保存・公開に向けて、歴史、土木など専門家からなる検討委員会の設置を決めている。県民大多数の要望は、首里城の再建と同時に第32軍地下司令部壕の保存・公開である。琉球・沖縄の独自の歴史文化の象徴たる首里城に誇りを持つと共に、戦争の悲惨と犠牲を強いた日本軍の戦争遺跡たる司令部壕の保存・公開を通じて反戦平和の意思を明確に訴えようとしているのだ。
復帰前、あるいは大田知事や仲井真知事の時代にも司令部壕の調査が行われたことがある。しかし、戦争遺跡の保存に対する無理解、保存・公開に要する多額の予算などがネックとなって、いずれも実を結ぶことなく立ち消えとなった。沖縄戦の実態を隠したい日本政府はもちろんやる気はない。カギは県民の声の高まりだ。地域の歴史愛好家、平和ガイド、沖縄戦研究者が中心となって市民運動を盛り上げ、県、那覇市など行政と提携し、県民ぐるみの自主的な計画を打ち出すことが大事だ。

県内市町村の中国での戦争体験記を読む(26)

日本軍の戦時暴力の赤裸々な描写


中国侵略の日本軍には、県内各地からも多くの青年たちが動員されて命を落とし、また、戦争の実態を目撃し記録した。県内各地の市町村史の戦争体験記録にはそうした証言が数多く掲載されており、日本軍による戦争の姿を赤裸々に描いている。省略は……で示し、補足は〔 〕に入れた。

『読谷村史』第5巻資料編4「戦時記録 上巻」(2002年)
砂辺松助「中国での戦争体験」

 私は古堅尋常高等小学校を卒業してから約二年間、月給三円で比謝矼〔ひじゃばし〕の城間商店で店員をしていたが、給料の安い沖縄で働くのは馬鹿らしいと思い、一九三四年(昭和九)神奈川県川崎市に行きました。
その頃、他府県で働いている大木出身の人はたくさんいて、私の兄も川崎で働いていました。それで兄を頼って川崎に行ったわけです。
私は船の荷揚げ作業や溶接関係の仕事をして三年ほど暮らしましたが、「どうせ兵隊に行くのだから金なんか要るものか」と、月給を取ると喫茶店やバーで使い果たしていました。
一九三七年(昭和十二)、川崎で徴兵検査を受け、入営することになりましたが、沖縄へ帰る旅費も無いものですから、沖縄へは帰らないつもりでした。ところが「戦地にも行かされるだろうから、一応は帰って来い」との親からの手紙を受け、義姉から旅費として十円を借りて帰って来て、大木の自宅から入営することになりました。
大木から入営したのは砂辺松吉(松砂辺小)、蒲長浜小の草刈り奉公をしていた呉屋、山内、それに私の四人で、比謝の知花包助が同時入営したので、合計五人が一緒でした。
古堅尋常高等小学校で校区出身入営者の見送り式があり、比謝矼から嘉手納駅まで大勢の人々に見送られ壮途につきました。
私は一九三八年(昭和十三)一月十日、熊本歩兵13連隊第1機関銃中隊に入営しました。
その時は中古の軍服を支給されていましたが、約一か月後、第3歩兵砲小隊に編入され、四か月間は歩兵砲の訓練があったのですが、私は足裏に肉刺(まめ)がきてしまい、訓練を受けることが出来ませんでした。
軍隊の生活は朝六時起床、七時に点呼、八時には演習に行き、十二時には帰って来て、昼食が済んだら、また演習の連続です。五時か六時頃帰って来ると、内務班での掃除、恐い古参兵に小突きまわされ雑役を言い付かり、その後やっと自分の銃の手入れをはじめ洗濯、靴みがきをするという毎日です。その上初年兵いびりも多く、ウグイスの谷渡りと言って寝台の間から頭を出して鳴きまねをさせられたり、柱に抱き着いて尻を振りセミの鳴きまねなどもさせられました。
その様な生活で、口には出さないものの「もう生きて何するか。弾が来ても恐くない。こんな苦労をするより死んだ方がましだ」と思ったこともありました。
ガーゼ袋入りの乾麺包という乾パンがあって、いつも背嚢の中に入れていましたが、中隊長の命令があるまでは絶対に食べてはいけない、食べ物が無くなって初めて食べて良いという命令が出るのです。
乾麺包袋の中には金平糖という小さな星形の甘いお菓子が入っていて、それだけをこっそり食べていました。検査の時、「金平糖はみんな食ったな」と言われましたが、命令なのでどんなに欲しくても乾パンだけはロにすることは出来ませんでした。……
五月八日、安徽省(あんきしょう)蕪湖(ぶこ)に上陸し、十五日、廬州(ろしゅう)において現地軍歩兵第13連隊に編入されました。
中国では前線へ向かうのに毎日八里の行軍で苦労しました。足裏のまめが破れて膿が出た時は靴、片方はわらじを履いて歩きましたが、わらじはすぐに切れてしまうので、交換しながら歩いていました。
古参兵から「行軍中は絶対に水を飲むな。水筒にチャンチュウという酒を入れて行け。水が欲しいときはそれをちょっと舐めろ」と教えられたが、本当にその通りで、行軍中水欲しさに負けて飲んでしまうと、すぐに落伍という事態にもなりかねませんでした
私は駄馬を引いていたので、行軍中は暗くなると荷物を馬に載せ、馬と自分を縄でつないで馬に引かれて歩いたりしました。
五月十六日から九月十四日までは、徐州〔シュイチョウ、江蘇省の揚子江の要衝〕会戦、安慶会戦、そして潛山〔チェンシャン、安徽省安慶市の都市〕での戦闘となりました。……
田家鎮は漢口南東部の要衝で、強力な中国軍が布陣していました。九月十五日から始まったここでの攻防戦は中国における私の最大の激戦の一つとなりました。……
漢口は都会で、武昌は大学がある所、そして漢陽は工業地帯で、この三か所を合わせて武漢三鎮といっていました。田家鎮が落ちると戦塵を払う間もなく十月十七日、武漢攻略戦に向かいました。……
一九四一年(昭和十六)一月七日、私はマラリアで第6師団第一野戦病院に入院しましたが、二月十七日原隊へ復帰しました。




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