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    かけはし2020年8月24日号

日本政府の対応を求める


沖縄報告 8月16日

「香港を守れ」―緊急国会行動に250人

沖縄 K・S

人権蹂りん・民意無視の
軍事基地強化をやめろ!


 戦後七五年の8・15がめぐってきた。新聞、テレビは戦争体験者の証言などを通じて、アジア太平洋戦争、沖縄戦を振り返る記事や番組を報じている。「恐ろしい戦争」「人が人でなくなる」など、戦争の被害と加害を照らし出しながら、「二度と戦争があってはならない」「戦争のない平和な世界を」と語っている。
 しかし、現実はどうか。安倍政権の軍事優先政策のもとで、「黒い雨」裁判の控訴にみられるように人権蹂躙・民意無視、軍事費増大、沖縄の米軍・自衛隊強化と辺野古新基地建設・埋立工事が強行されている。戦争に対する反省は辺野古新基地建設ストップにつながらなければならない。

コロナ感染の裏で進行する沖縄の軍事利用

 沖縄のコロナ感染拡大が止まらない。八月一五日現在で感染者数は累計一五〇〇人を越えた。沖縄県は県の緊急事態宣言を八月二九日まで延長した。GO TOトラベルによる七月の四連休の観光客の訪問拡大の後、県内の感染は爆発的に拡大し続けてきた。直近一週間の人口一〇万人当たりの感染者指数は東京・福岡・大阪・愛知を上回りダントツの日本一だ。遊興街だけでなく病院、老人施設、幼稚園などでのクラスターの発生、店舗の休業・廃業などにより、県民生活は大きな打撃を受けている。
また、全国の米軍専用施設の七〇%を占める沖縄に米軍感染の大半が集中しており、八月一五日現在、累計三三五人となった。約九〇〇〇人の軍従業員、タクシーなど軍関係の業務、基地外居住の米軍人軍属との日常生活上のつながり、米軍によるホテル借り上げなど、米軍からの感染拡大の脅威が常に存在する。
オール沖縄会議は八月五日から九月二日まで、辺野古・安和・塩川・海上での多人数による抗議行動を中止し、少数による監視活動に切り替えた。現場では、有志による抗議行動が続けられている。海保や海上警備員にも感染が広がり、キャンプ・ハンセンはじめ基地内ではクラスターが発生しているが、防衛局は工事を止めようとしない。軟弱地盤のため造っても震度1の地震で崩壊のおそれがあるという新基地建設を強行している。日本中どこを探してもない生物多様性の海、サンゴとジュゴンの海が、政府の無責任のせいで無残に破壊されていく。
埋立工事の中止がコロナ感染拡大を止めるひとつの方策だ。玉城デニー知事は菅官房長官に直接電話して工事中止を求めた。沖縄防衛局は沖縄県の緊急事態宣言に従い埋立工事を中止せよ。ダンプ・運搬船・台船は操業を停止し、作業員、警備員、海保、県警は辺野古・大浦湾から撤退せよ。
ところがコロナ感染拡大の裏で、辺野古埋立工事と歩調を合わせ、宮古・石垣での自衛隊ミサイル基地建設と沖縄のさらなる軍事化への動きが進んでいる。河野防衛相は、尖閣の中国船舶への対応として「必要なら自衛隊が行動」と記者会見で述べた。中谷元防衛相や前原元外相などのグループは、米軍と自衛隊との基地の共同使用や沖縄に自衛隊の統合作戦司令部を置くなどと主張している。防衛省は八月七日、基地の実態、工事の実情を覆い隠すため、辺野古を含む米軍基地のドローン撮影の規制を発表した。沖縄の軍事利用の強化は、東アジアの軍事的緊張を激化させるだけだ。

8月13日は沖国大ヘリ墜落の16周年

 八月一三日午後、沖国大のヘリ墜落現場の一角に造られたモニュメントで、一六周年集会が開かれ約六〇人が参加した。
「琉球新報」(8・14付)によると、当時沖国大の清掃員だった女性は事故直後、ヘリの乗組員らしき米兵と英語で話した。女性が「大丈夫か」と尋ねると、米兵は「グラウンドに着陸するつもりだったが、学生たちがいたので、木に落ちた」と答え、「ごめんなさい」と謝っていたという。場合によっては大惨事になっていたかもしれない事故だった。
宜野湾市の松川市長は市のHPに「返還合意から二四年、事故から一六年が経過する今なお、普天間飛行場全面返還という約束が守られず、市民の切実な願いが置き去りにされ続けている現状と、経過してしまった時間の重みについて、全県民・全国民の皆様にもぜひ考えていただきたいと思います」とのコメントを発表した。そのためには、宜野湾市は沖縄県と共に、県民ぐるみの声をあげて、対米従属の自民党政治を終わらせない限り、普天間はかえってこない。

8.5

防衛局にヘリ基地反対協が工事中止・基地閉鎖を申し入れ


八月五日午後、ヘリ基地反対協議会(安次富浩代表)による対防衛局要請行動が行われ、海上行動メンバーや島ぐるみ南部から約三〇人が集まった。抗議船の船長を務める仲本興真さん、名護市議の東恩納琢磨さんら五人が代表として、一階会議室で行われた要請行動の席に着いた。
河野太郎防衛大臣と田中利則沖縄防衛局長にあてた要請書は、「大浦湾の軟弱地盤や活断層をはじめ、もはや工事の続行は不可能だと多くの専門家が指摘している」と述べ、次の四項目を申し入れた。
@在沖米軍基地を当面閉鎖するよう米軍に申し入れること
A基地内汚染について、感染拡大防止に必要なすべての情報を公開させること
B県内全基地のすべての従業員にPCR検査を行うこと
C辺野古新基地建設を直ちに中止し、その費用をコロナ対策に充当すること
申し入れのあと防衛局前で報告集会が開かれた。はじめに、カヌーチームの鈴木さんが「安和桟橋の運搬船を止める行動で毎回大音量の警告音を浴びせられている。耐え難い爆音だ。体に異状が出ている。事業主である防衛局は無責任だ」と怒りの声をあげた。
浦島さんは、「コロナ感染防止のため、私たちは現地行動を中止している。防衛局も工事をすぐに中止すべきだ」と述べた。南風原島ぐるみの松井さんは、「島ぐるみ南部の糸満、南城、八重瀬、南風原がこの場に参加している。コロナ感染を止めるため防衛局は埋立工事を直ちに止めよ」と訴えた。
最後に、参加者全員で「埋立工事を中断せよ」とシュプレヒコールを繰り返した。

8.5

森の映画社裁判判決
取材は記者クラブの特権か


八月五日午後、那覇地裁で「森の映画社・沖縄県議会取材拒否事件」の判決が下された。この事件は、三年前の七月、長年辺野古でドキュメンタリーを制作してきた森の映画社が、沖縄県議会に本会議の審議と採決の取材・撮影を申請したところ不許可にされたことに対し、不許可の不当性を訴え那覇地裁に提訴したものである。
この日の判決には、那覇、宜野湾、名護、辺野古など各地から約二〇人が駆け付け、コロナ感染防止のため、抽選で一三人が傍聴した。判決は一分。「原告の請求を却下する。訴訟費用は原告の負担とする」。傍聴席からは、「えーっ、何を調べたの」との声が上がった。
新里元議長は一月の証人尋問で、「記者クラブに所属していない者の撮影取材を認めた前例はない」「森の映画社の撮影を許可すればいろいろな団体が申請してきて議会運営に支障をきたす」と主張した。森の映画社は提訴後、沖縄県政記者クラブ、沖縄県議会記者クラブに加盟一四社中一二社の賛成を得て加盟し「準会員」として自由に取材することができるようになったが、他方、記者クラブに所属していないものは申請さえ受け付けられない状態になっているという。
この日の判決は、森の映画社の報道機関としての資格に問題がないことは認めたものの、取材を記者クラブのみに制限することの問題性について判断することなく、元議長の言い分をほぼ認め「議長の裁量権の逸脱とまでは言えない」とした。

県内市町村の中国での戦争体験記を読む(27)

日本軍の戦時暴力の赤裸々な描写


知花さんの位階は大尉。沖縄出身兵の台湾からの引揚について詳述している。引用は原文のまま、省略は……で示した。

『読谷村史』第5巻資料編4「戦時記録 上巻」(二〇〇二年)

知花成昇「極寒のソ満国境から台湾へ」

 一九四〇年(昭和一五)西原農事試験場勤務中に徴兵検査を受け、甲種合格となった。
……同年二月十日、第12師団歩兵第46連隊(長崎県大村市)に入営した。
当時の沖縄出身の新兵は、第6師団の熊本13連隊、鹿児島45連隊、都城23連隊、大分の47連隊と第12師団の久留米48連隊、小倉24連隊、そして長崎大村46連隊に配属入営させられた。……
第46連隊に入営して大村の兵舎に落ち着いたと思ったら、二月二四日には満州国牡丹江省東寧県石門子の満州第108部隊要員として門司港を出港した。……
一二月一〇日には、「軍令陸軍第105号」により、関東軍の大移動が行われることになった。軍隊の移動は企図秘匿のため極秘裏に進められた。部隊の編成、装備、行先など、その内容は中隊長にも知らされなかった。……
東満国境の石門子から完全武装の背嚢を背負って、大肚川駅まで極寒雪中の夜間行軍であった。深夜の内に有蓋貨物列車に詰め込まれて、行く先不明のまま発車、とにかく東満から南下し、幾日か走り続けた後、旅順駅に到着した。……
台湾の基隆港に上陸した満州第108部隊(歩兵第46連隊)は、剣8705部隊(部隊長・山根五郎大佐)と秘匿略号が変更され、ただちに基隆駅から汽車で南下した。
高雄州岡山郡援巣中に移送され、さらに同郡田寮庄大岡山山麓に移駐、刺竹の林を開いて甘蔗の葉で屋根を葺き、仮の兵舎を建てた。
悪性のマラリア、赤痢、チフスなどの伝染病とたたかいながら、毎日毎日鼠穴陣地の構築に明け暮れ、また大岡山の頂上に機関銃を据えて、対空警備の任務にも従事した。
……
一九四五年(昭和二〇)八月一五日の朝、突如「本日正午、玉音放送が行われる。中隊長は連隊本部に集合せよ」との連隊本部命令を受けた。私は第一装に着替えて帯剣し、本部の八椎型幕舎の連隊長室に行き、玉音放送を拝聴した。
放送は雑音がひどく、内容はほとんど聴き取れず、各自それぞれの判断で理解するしかなかったが、とにかく「戦争は終わった」ということだけは理解できた。……
最初、基隆に集結した沖縄籍旧軍人は、陸海軍合わせて約二〇〇〇人と言われていたが、日本軍人と一緒に、あるいは日僑家族と共に祖国に引き揚げた者も多く、またヤミ船で宮古、八重山に帰郷した者もいて、台北に来た時は九〇〇人ほどになっていた。
旧台湾総督府庁舎は、米軍の爆撃を受け、窓ガラスなどは全壊していたが、鉄筋コンクリート建ての躯体は一部損壊しただけで、使用には十分堪えた。面積は広く、本部、医務科、経理科、憲兵隊、自動車班などを収容した。また第1中隊、第2中隊は大稲堤に、第3中隊から第8中隊までは宮前に分散収容、それに基隆乗船支部を加えて、琉球籍官兵善後連絡部が編成された。
……「琉球官兵」とは、中国台湾省警備総司令部の訓令によって、帰るに帰れない在台沖縄籍旧軍人軍属が、基隆乗船地からやむなく台北総督府庁舎に移動、同軍司令部の区処を受けた琉球籍官兵集訓大隊の略称である。もちろん中国軍隊に編入されたのではなく、日本籍軍が全員引揚げた後の唯一の日本軍部隊の栄光ある琉球官兵ということになる。
在台沖縄県人の帰還業務に当たるため、各州ごとに僑民隊が組織された。その連合総本部も旧台湾総督府内に設置された。琉球籍官兵善後連絡部は連合総本部と相互に連絡協力を保ちながら、沖縄県人の早期帰還の実現を駐台米軍と中国軍司令部に要請した。
……
いろいろと心労の毎日であったが、私たちがそこで行なったのは、琉僑本部にお願いして郷里の先輩、偉い先生方を招いて精神講話、道徳規範などの話をして貰うことだった。時には中国軍隊からも「三民主義」について訓話をお願いし、それも拝聴したら中国側も沖縄籍人も大変喜んでくれた。さらに、無味乾燥で今にも心がすさみそうな兵隊宿舎に、一種の和やかさと楽しいムードが訪れたのは、琉僑の方々と官兵の眷族が集中営に同居するようになったからだ。
琉球籍官兵前後連絡部という呼称も、中国軍隊や本省人から同胞盟友というふうにみられ。好感を持たれた。「恨みに報ゆるに徳をもってす」という蒋総統(蒋介石)の思想で、最後まで親切に遇された。
琉球籍官兵前後連絡部は中華民国軍隊の指揮監督下に置かれていたので、その命令で毎日百人ほどの使役供出をして、市内公園の清掃、接収兵器の手入れ、物資の整頓、市街地道路の清掃、側溝浚えなどもした。とかく強制労働に服することもなく、また身柄を拘束されることもなく、食糧は豊富で保健衛生医療も完璧な台湾で終戦を迎えたことは最高の幸運だったと思っている。


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