もどる

    かけはし2020年8月24日号

侵略戦争の帰結と沖縄戦


読書案内

「県内市町村史に掲載された中国での戦争体験記を読む」(下)


侵略戦争に動員
された県民の数


 「沖縄県史」や県内自治体ごとの歴史資料に掲載されている中国での「戦争体験記」についてさらに読み進めていこう。ここでは、中国やその他の地域での戦争に動員された沖縄出身兵士たちの生の声が、より具体的な形で聞こえてくる。
 戦地に投入された沖縄の兵士の数は、徴集された兵士の家庭への軍事扶助法による生活扶助戸数が目安となるが、それによれば日中戦争が始まった1937年が2198戸、1938年が急増して5433戸、1939年6812戸、1940年が6532戸、1941年が5821戸となっている。少なくとも沖縄県だけでもこれだけの戸数から若者たちが兵士として動員されたわけだ。そこには上海、南京での戦争に動員された沖縄出身の若い兵士たちの姿が浮かんでくるだろう。

戦場のリアル
な現実を描く


次のような余りにもリアルな戦場記録も綴られている。
「日本軍は、しまいには毒ガスをまいた。それは窒息死させるガスだった。サイレンが鳴ったら毒ガスをまいたという合図だった。……ところが風は日本軍の方向に向かって吹いていたので防毒マスクの手入れが悪かったものは、ガスを吸い込み死ぬものもいた。私が見ただけでも七、八人はいた。結局自分で自分の首をしめる結果になった。……しばらくして、『毒ガスなし』の合図があったのでにおいを嗅いだが大丈夫だった」。
「連隊長も中隊長もやられて指揮する者がいなかった。それで、分隊長だった私が指揮をとり、号令をかけ、着剣して正に突っ込まんとする時に私の手がなくなり、私が持っていた銃の先が田んぼの中に突っ込んでしまった。すぐににぎりかえようとしたが、自分の手がなかった、敵の機銃でやられていたのである。銃をはさんで後ろに手を回すと何か引っかかるものがあったので肩の方から引っ張ってみると、手が皮だけ残ってぶらぶら下がっていた……」(呉屋幸夫「中支での戦闘」、『西原町史』第3巻資料編2)。

戦後も帰還し
なかった兵士


別の話もある。部隊から逃げ、敗戦から三〇年後に沖縄に戻ってきた沖縄出身兵もいた。
「私の部隊はタイ国まで行ったが、ちょうど私が軍医部に転属になる前(昭和二十年三月ごろ)、同年兵の備瀬知三郎さん(沖縄出身)が部隊から逃げてしまって行方不明になった。彼は私と同じ16部隊所属でしたが、私は間もなく37師団に転属になったので彼の消息がわからず、彼は戦死したものと思っていた。ところが、中隊に帰って須堂中隊長(現在、福岡女子短大教授)に会って話してみると、備瀬さんは戦死してはおらず、行方不明になったままだ、と聞かされた。戦後昭和四十九年に慰霊祭でベトナムまで行った観光団の方々の話から、山奥に備瀬さんらしい人が生きているという情報が流れた。捜索の結果、備瀬さんが発見され、彼は昭和五十年六月七日に、無事沖縄に帰って来た」(泉川寛弘「中国戦線と戦友」、『西原町史』第3巻)。
フィリピン・ルパング島やグアム島で20年以上潜伏していた横井正一さん、小野田寛郎さんなどの帰国した旧日本兵の話は有名だが、日本への帰国を拒否して東南アジアなどにとどまった旧日本兵はかなりの数に達している。沖縄出身者でも同様の話があったことは初めて知った。
なお私は、フィリピンの第四インターの同志から「私のおじいさんは実は日本人なんです」という話を聞いたことがある。彼の話によれば、日本軍兵士だったその「おじいさん」は、日本の敗戦後、帰国することなくフィリピンにとどまり、フィリピンの女性と結婚するとともに、フィリピン共産党などが組織した反米ゲリラ戦にも関わったのだという。実際のところ詳しいことはわからないが、そういう人たちがいた可能性は否定できないだろう。

 

「捕虜体験」と
日本軍の残虐


中国での「戦争体験」は、日本敗戦後のソ連による「捕虜」体験とも結びついていた。
「二十九日間の長旅を終えて、やっとシベリアに着きました。捕虜はバルノール収容所に集められました。昭和二十年の冬のことでした」「空腹と寒さに耐えながらの作業は過酷なものでありました。むろん、日に日に体力も衰え、やせて歩けなくなる者もいました。……収容所で死んだ者は裸にされ、五、六体ずつソリに乗せ野原へ捨てられました」「三カ月後、私は栄養失調になり倒れました。そして朝鮮にあった平壌の元の陸軍病院へ移されました。その時は、日本に帰り銀飯一杯食べてから死にたいと思ったものです……コレラで患者の半分が死んでいきました。捕虜生活を終え、やっと日本に帰れたのは昭和二十一年十月ころでした」(翁長林亀「満州での戦争体験とシベリア収容所」、『宜野座村史』第2巻資料編)。
「資料」には日本軍による、虐殺行為のリアルな証言も行われている。
「日本軍がどんなことをしたかというと、『共産討伐』と称して大勢の原住民を連行し、いろんな方法で殺害した。生きたまま銃剣の的にされた者たちもいた」「ある軍医は、連行した二人の原住民を縛っておいて、生きたまま執刀して内臓を観察した。……その遺体は埋葬されたが、それで終わりではなかった。埋葬後にある兵隊が掘り起こし、遺体から肝臓を取りだした。そしてそれを干して砕き、その頃兵隊に配給された『ワカモト』の瓶に入れて、退役のときに『万病の薬』と持ち帰った」(国場豊蔵「ただ自分の命が惜しかった」『北谷町戦時体験記録』2「国外での体験」)。

南京大虐殺の
現場から証言


こうした実にスキャンダラスな残虐行為の証言が、このパンフレットの至るところに見られる。もう少し続けよう。
「上官は、信用できない軍人だった。住民を守るといいながら残虐な振舞いは今でも忘れない。それは昭和十九年頃だったと思うが敵地の部落で寺院や民家をこわし、それに火をつけて燃えさかる火の中に女子や老人、兵の別なくたたき込んでいた。勢い火の中から命がけで出てきたら、また、投げ込んでいた。隊長は酒を飲みながらそれを見てゲラゲラ高笑いをしていた」「また訓練といって生きた人間を十字に縛りあげ、それを初年兵に銃剣で突かしていた。……上官が気に入らない部下を殴り殺して戦死といって片づけられるのも一人や二人ではなかった」(屋嘉比柴重「聖戦とはこんなものだった」『東風平町史』「戦争体験記」)。

 一九三七年の「南京大虐殺」についての証言も掲載されている。
「南京が陥落したのは確か十二月一三日頃だったと思うが、雪が降っていた。南京に到着して城外に露営してしばらく休養したが、戦場の常とは言え死体のあまりの多さには驚いた。道の両側に死体を積み上げて、人の通る中央部だけが空いている状況であった」。
「また一週間程経ってから南京の船着場である下關(シャークァン)港に糧秣受領に行って、又悲惨な光景を見た。中支でも十二月までは乾期で雨量は少なく、雨期と乾期では揚子江の水面の高さは四・五メートルの差があるとの事でした。当時は乾期のため、水面は低く下關船着場の岸壁から水面に放り込まれた死体の山は、岸壁のコンクリートの高さまで積もっており、波止場の広場は血で赤黒く染まって異臭を放っていた。多分追い詰められて逃げ場を失った敵兵は、ここで虐殺されたのであろうとの話であった。一か所にこれだけの死体を見たのは、おそらく南京の大虐殺の現場ではなかったかと思う」『東風平町史』 知念富一「私の日支事変従軍記」)。
天皇制日本帝国主義は、中国を中心に、アジアの広範な地域の民衆を戦争の惨禍に巻き込み、最後には沖縄を住民ぐるみの「玉砕戦」の戦場にすることに帰結した。それは沖縄を天皇制日本国家の尖端に組み込むと共に、アジアへの侵略の踏み台にしたあり方と一体のものだった。
中国をはじめとしたアジアへの天皇制日本帝国主義の侵略戦争とその後の歴史の中で、沖縄が受けた支配・差別の構造は、「沖縄戦」と米軍による長期占領支配、そして今日の沖縄・日本・米国の相互関係に深いつながりを持っている。そのためにも本パンフレットを、さまざまな形で論議の素材にしていただきたい。

 本書の最後は『ある日本兵の二つの戦場――近藤一の終わらない戦争』(社会評論社 2005年)からの引用で結ばれている。
近藤は、自らの中国への侵略戦争での経験をこの書の中で語った。彼の属する中隊が乳飲み子を抱いた中国人の若い女性を「輪かん」したという犯罪行為についてである。多くの場合、「強かん」された女性は犯罪の痕跡を消すために殺されるのだが、その時は赤ん坊とともに連れて歩いていた。しかしとうとう「厄介者」となった母子の「始末」に困り、ついに日本兵は乳飲み子を崖下に投げ捨てて殺した。すると母親も即座に子どもの後を追って谷底に飛び込んだのだという。
近藤が属する部隊は一九四四年に沖縄に配備された。言うまでもなく対米戦に備えた配置だった。沖縄戦の最後の絶望的状況の中で、近藤は自分たちが中国でしでかした凶悪な犯罪の幾十倍もの報いを受けることになることを覚悟せざるをえなかった。しかし、それは違っていた。捕虜となった彼の体験にもとづく実感が、「戦争責任」という課題に正面から立ち向かう契機となったのである。
沖縄、そして日本の人びとが、いま改めてすべての軍事基地を撤去し、東アジアの平和と民衆相互の連帯を実現しようとする時、日本帝国主義の中国への戦争犯罪を想起し、次世代につなげるという課題を避けて通ることはできない。
「中国での戦争体験記を読む」の刊行が「東アジアの平和」を共に創り出していく学習素材の一つになるよう、共に学び、論議し、行動しよう。    (純)

8.3

辺野古実が防衛省行動

広がる沖縄のコロナ感染

米軍基地も拡大の要因


 八月三日午後六時半から、辺野古への基地建設を許さない実行委が月例の防衛省への申し入れ行動を行った。
 辺野古実の仲間が最初に問題提起した。
 「沖縄で新型コロナウイルス感染が爆発的に増えている。七月初めに在沖米軍基地内での感染が明らかにされた。米兵は全世界の基地から移動してくるから感染も増えている。韓国では米兵にPCR検査をしている。オーストラリアは移動の時期の変更を要求している。日本は交渉すらしていない。米兵の感染者数は三〇〇人を超えている。米兵を除き沖縄では五〇〇人を超えた。病床が足りない。七月三一日、沖縄県は非常事態宣言を発し、八月一日から一五日まで深夜営業などの自粛を要請した」。
 「こうした事態にもかかわらず、辺野古埋め立て、土砂の投入はやめていない。さらに、普天間基地・キャンプハンセンをロックダウンしたというが、基地から自由に出入りしている。管理できていない。許しがたいことだ。辺野古埋め立ての設計変更の公告縦覧に入る。県に対して、変更を認めないように求める意見書を出していこう」。
 山城博治さん(沖縄平和センター議長)が電話でアピールした。
 「コロナの感染がやまない。一日七〇人を超え感染率は全国一だ。月曜日からの辺野古での座り込みを中止した。しかし、工事は続いているので何らからの行動を行わなければいけないので、防衛局へ行き抗議・申し入れをした。県政にも工事の中止を防衛局に働きかけるように要請する」。
 「サンゴの移植問題で、国を訴える裁判を行うべきだ。安和・塩川以外にも土砂の搬出場所を県内の九つに拡大していく土砂搬出申請を防衛局は県に申請した。これを認めないようにという意見書を県に提出した。安和・塩川でベルトコンベアー二機を追加する申請をしている。県は了解を与えていない。国はいらだっている。市民の運動で許可を与えないように県政を動かしていこう」。
 「何ができるか良い機会だ。数多くの学習会を行う。追い込まれていくのは政府だ。状況に柔軟にのぞんでいく。今回のゲート前行動の中止は運動を後退させるものではない。闘うために決定した。日中三四℃、路面だと五〇℃になる。熱中症に気をつけながら闘っていく」。
 続いて参加した仲間からの発言が続いた。
 「沖縄の映像を見よう川崎」。「見よう、行こう、考えようと月一回署名・スタンディング行動を行っている」。国会包囲実、「コロナで二度にわたり集会を延期せざるをえなかったが、一〇月一四日、日本教育会館で学習集会を開くので参加してほしい」。警視庁機動隊の沖縄派遣違法・住民訴訟、「四年前、オスプレイバッド建設のために、警視庁機動隊一四〇を派遣し、反対運動を弾圧した。これが違法ということで住民監査請求、訴訟を起こした。一審判決は、一部違法があったが派遣は適法であったというものだった。控訴審は九月二五日、東京高裁民事101法廷。民事は事実調べをほとんどしないので、裁判長への要請はがきに協力してほしい」。
 琉球遺骨返還訴訟から、沖縄一坪反戦地主会・関東ブロックから発言があった。今回の申し入れはピース・ニュースが行った。次回は九月七日月曜日。
 八月一〇日午後四時から、JR上野駅公園口前広場で「『イージス・アショア』がダメなら、もちろん『辺野古』もダメよ!」というアピール行動が沖縄・一坪反戦地主会関東ブロックの呼びかけで行われた。猛暑の中でのアピール行動であったが美術館や動物園見学帰りの家族連れなど通行人も多く、なかにはチラシを受け取ったり、公告縦覧の知事への支持の意見書などに応じる人もいた。アピール参加者は三〇人。
 なお、沖縄県は非常事態宣言を八月末まで延長した。この結果、公告縦覧も延長された。    (M)


もどる

Back