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    かけはし2020年8月31日号

沖縄防衛局は辺野古埋立工事を中止せよ!


沖縄報告 8月23日

コロナ感染を顧みず強行されている埋立工事

沖縄 K・S

コロナ感染防止の中での監視行動

 沖縄県の緊急事態宣言に合わせたオール沖縄会議の組織的現地行動の中止の中でも、辺野古、安和、塩川、海上では連日、監視・抗議行動が続けられてきた。
 抗議船「平和丸」および「不屈」による海上監視行動によれば、生コン車による辺野古側K2〜4での護岸かさ上げ工事、K8およびK9での土砂搬入、大浦湾のフロート周辺数カ所での潜水調査、運搬船からランプウェイ台船への土砂の積み替え作業が続いている。また、度々ウミガメに遭遇する。一七日月曜日は、辺野古側のフロート付近で二度、大浦湾の弾薬庫の崖崩れ付近で一度見かけた。埋立工事により砂浜を奪われ産卵できなくなってもなお、毎日見かけるほど、ウミガメにとって辺野古の海は暮らしやすいところなのだろう。
 辺野古ゲート前では、統一連、平和運動センター、平和市民連絡会、ヘリ基地反対協の責任団体と有志が中心となって、監視行動を続けている。キャンプ・シュワブの工事用ゲートからの資材搬入は、最近生コン車が目立って増えた。一九日水曜日は、工事車両一五七台のうち生コン車が七三台、辺野古側の護岸かさ上げに用いている。さらに空ダンプが四四台。基地内の工事で出た赤土・廃材を搬出しているとの事だ。

本部塩川港と琉球セメント安和桟橋


 本部塩川港と琉球セメント安和桟橋では、本部町島ぐるみ会議を中心に監視・調査行動が継続されている。一八日火曜日は、塩川と安和合わせて合計ダンプ一三九五台分の赤土土砂が搬出された。これまでの最大との事だ。沖縄防衛局は、コロナ感染などどこ吹く風、現地行動が控えられているのを幸いに、埋立土砂の搬出に余念がない。そんなに焦ってどうするというのか。仮に造っても震度一の地震で崩壊の危険があるという、文字通りの「砂上の楼閣」。立ち止まって考えなおして見る余裕が安倍政権にはない。
 琉球セメント安和桟橋の入口および出口ゲートでは、それぞれ、ノボリ、プラカード、あるいは何も持たずゆっくり歩いて、「辺野古の海に土砂を入れるな」とアピールする行動が行われている。担当の各地の島ぐるみ、集まれ辺野古のグループが自主的に集まり、監視と抗議を続ける。
 「沖縄平和サポート」が中心となり週三回現場レポートを日英韓中の各言語で発信している「Stand With Okinawa」によると、二一日金曜日は夕方六時半まで抗議を続けたというが、次のような報告をあげている。
http://standwithokinawa.net/ja/

8.21

「スタンド・ウィズ・オキナワ」


 土曜日も平日も夜八時近くまで作業を続けるダンプの運転手の給料は果たしていくらになるのか。これまで見たこともないダンプが目立ち始めた。声をかけた運転手のひとりが微笑みながら答えた。「五〇〇万円で中古のダンプを買ってこの仕事を始めた。子どもが三人いるんだ」。
 コロナ禍で仕事を失った労働者が、「いい金になる」と新基地建設の作業に群がっている。税金をふんだんに使って県民を分断し、悪政を押し進めようとする政府の常とう手段だ。

オール沖縄会議とうりずんの会が防衛局に申し入れ

 八月二一日、うりずんの会(照屋寛徳、赤嶺政賢、屋良朝博衆院議員、伊波洋一、高良鉄美参院議員)と高里鈴代共同代表らオール沖縄会議が共同で嘉手納ロータリーの沖縄防衛局を訪れた。「緊急事態の今、最優先されるべきは県民の命を守ること」と述べ、「感染拡大防止の観点から、県民の生活圏と米軍基地との間で人の移動を抑制するため、基地を閉鎖し、辺野古新基地建設工事を直ちに中断すること」を要請した。
それに対し、田中局長に代わり対応した西村次長は「米軍は適切な対策をとっていると理解している」「普天間の固定化を避けるためには辺野古は唯一の解決策」と述べた。防衛局は誰のために仕事をしているか。米軍のために、米軍に従属することで権力の安定を図る国家支配層のために仕事をする彼らにとって、県民の要望、利益は眼中にない。県民・国民を軽んじる人々が、県民・国民から選ばれたという形をとって国家権力を掌握して県民・国民を苦しめているという日本の政治の仕組み。
防衛局次長の言葉には、米軍従属の政治を続けてきた戦後七五年の国家公務員の事なかれ主義と無責任が凝縮されている。八月二三日、連続在任期間の最長を記録した安倍政権は「最低が最長」だ。

8.22

土曜日から台風対策で工事は中止


台風八号が接近するとともに、埋立工事現場でも台風対策がすすんだ。海上では、護岸まわりのオイルフェンス、フロートが撤去された。フロート内の運搬船、ランプウェイ台船もすべて退避した。二二日監視した「不屈」のメンバーは「もう永遠に帰って来るな」と声をあげ見送った。本部塩川港でも、沖合に停泊していた一三隻のガット船と二隻の台船の姿が消えた。おそらくまた、羽地内海辺りに避難したのだろう。

米空母コロナ感染者の沖縄移送計画


今年三月、グアムに向かって太平洋を航行中の米原子力空母セオドア・ルーズベルトで新型コロナの集団感染が発生した。この空母は総排水量一〇万トン、全長三三三m、FA18戦闘攻撃機・ヘリなど七〇機前後を搭載、加圧水型原子炉二基を積み、航空要員を含め全乗組員は五〇〇〇人になる。密集、密閉、密着の「三密」の典型のような空間だ。
空母はグアム島に寄港したが、感染拡大が止まらない事態に対し、艦長のクロジャー大佐が海軍上官に「乗員を上陸させ、検査、治療を実施する」「感染拡大回避のため緊急退避の裁可を仰ぎたい」と異例の訴えを行った。ところが、海軍長官代理は「大量の兵器、弾薬、航空機の保守、火災の危険、原子炉の運転」などを理由に挙げ、艦長の直訴を「愚か」と断じた。これらのいきさつがマスコミにも流れ、その結果、艦長の解任、長官代理の辞任という事態に至った。
琉球新報八月二〇日付紙面によると、この時、乗組員の隔離先として第一候補に挙がったのは沖縄だったという。横須賀の第七艦隊司令部がうるま市のキャンプ・コートニーに司令部を置く第三海兵遠征軍と協議し、普天間基地と海兵隊基地に三〇〇〇室、厚木基地に四〇〇〜六〇〇室を確保することを決めたが、第7艦隊司令部の上部組織の太平洋艦隊司令部が@沖縄まで九時間の空路移動でさらなる感染拡大のリスクがある、A日本政府との関係を複雑化させる、との理由で、沖縄案を撤回したという。
報道されるや県内で、「一体沖縄を何だと思っているのか」と批判の声が沸き起こった。沖縄が米国の軍事植民地になっている現実。米軍にとっては、日本軍との激戦を通じ数万の米兵の犠牲の上に奪い取った戦利品。事件・事故のたびに、戦後七五年続く軍事基地沖縄の姿がさらけ出されるが、日本政府の指導層、歴代の政治家、官僚、裁判官たちは米軍追従を言葉巧みに隠蔽することで政権の継続をはかる歪んだ政治を続けてきた。
日米安保と行政協定のくびきから軍事基地・沖縄を解放せよ。

県内市町村の中国での戦争体験記を読む(28)
日本軍の戦時暴力の赤裸々な描写

 中国侵略の日本軍には、県内各地からも多くの青年たちが動員されて命を落とし、また、戦争の実態を目撃し記録した。県内各地の市町村史の戦争体験記録にはそうした証言が数多く掲載されている。引用は原文通りとし、省略は……で示し、補足は〔 〕に入れた。なお、( )は原文。

『読谷村史』第5巻資料編4
「戦時記録 上巻」(2002年)

池原栄喜


「コタバル敵前上陸」

 太平洋戦争の火ぶたは、真珠湾で切って落とされたと、大方の人は思っている。ところが英領マレー半島に敵前上陸した侘美支隊の第二揚陸団長は、シンゴラ沖より軍機電報をもって参謀総長あてに「八日一時三〇分コタバル東岸ニ上陸成功ス」と報じたと言われている (侘美浩著『コタバル敵前上陸』)。
そうなると、真珠湾攻撃よりも先立つこと数時間ということになる。防衛庁戦史室の方は「色々な資料により慎重に検討した結果、 一応「0215(午前二時一五分)」ということにして公刊戦史の方にまとめたという(前掲書)。これを取って見ても、コタバル上陸は真珠湾よりも数時間早いということになる。
ちなみに、開戦の第一報を見てみると、次のようになっている。「(大本営陸海軍部発表一二月八日午前一〇時)。帝国陸海軍は本八日未明西太平洋上において米英と戦闘状態に入れり」
西太平洋とは、どこをさしているのだろうか。ハワイ真珠湾が西太平洋にあるはずはない。ハワイは地図上では誰の目にも明らかな通り、東太平洋上なのである。そうなると、この大本営発表は、マレー半島コタバル上陸作戦のことをさしていると思われる。

新崎盛繁


「フィリピン の離島警備」

 一九四四年(昭和一九)二月、召集令状を受け、台湾軍台南第4部隊に入隊した。この部隊には沖縄からの現役兵もおり、嘉手納の池原吉助がいたが、彼は体調を崩して保育隊での訓練を受けていた。
同年五月、教育期間を終え一期の検閲を済ませると、フィリピン・バタン島守備隊として独立歩兵第302大隊(隊長横山中佐、一〇三六名)に編入され、高雄市に集結した。……
バタン諸島はバシー海峡(台湾とフィリピン間の海峡) 上に浮かぶ小島嶼群だが、そこでは先発の酒瀬川隊(四〇〇人)と合流して、守備隊は大きく膨れ上がることになった。
……
近海では米軍潜水艦が跳梁跋扈し、時には近海に浮上し島に砲撃を加えることもあり、付近航行中の我が方の艦船の撃沈も相次いだ。そのための遭難兵の死体の処理・埋葬が続き、大変だった。
米軍機による空襲も頻繁になり、バスコ港内でも撃沈される船が出て来た。私達は沈没船から缶詰を引き上げ、各隊に配給したこともあった。
一九四四年(昭和一九)一一月、京都からの部隊二〇〇〇名が上陸して来て、私達と合流して独立第61旅団(旅団長田島彦太郎中将)となり、台湾軍から離れ山下奉文大将麾下の比島方面軍に編入された。こうして小さい島は兵隊で溢れ、右を見ても左を見ても兵隊という状況になっていた。……
隣の小島には牧場があり、少数の島民が牛を放牧していた。その島には二〇人の通信兵が駐留し、南方各地とバスコを結んで交信していた。その島で、バスコから渡った要人を含む多数の島民が蜂起して、日本兵に襲いかかり、皆殺しにした事件が発生した。地上には日本兵の死体を並べ、屋根の上にはペンキで救援を求める記号を記し、制空権を把握した米軍機に連絡しようとしていたのである。
無電連絡で島からの返事がないことから、異変は察知された。異変を知った我が軍は、直ちに鎮圧作戦を展開した。この鎮圧には私も軽機関銃を持って参加したのだが、双方の軍隊の撃ち合いの場ならともかく、今まで何らかの形で接して来た彼ら島民たちに向かっては、どうしても発砲することは出来なかった。しかしこの事件は、私が兵隊として経験した唯一の戦闘らしいものとなった。
鎮圧戦で捕らえられた島民たち数名は銃殺にされたが、戦後、首実検で責任者及び下手人は割り出されてマニラに送られ、戦争犯罪人として旅団長田島中将も責任を取らされ、山下大将らと共に絞首刑に処せられた。この一連のことがサブタン島事件と言われるものである。……
……〔八月一五日の敗戦のあと〕
一週間後、米軍がやってきて、我々は武装解除された。米軍は武器・弾薬をLSTで運び去り、途中、弾薬は海中に投棄させた。そしてまた、四、五日すると、LSTでルソン島のアパリ港へ送られた。……間もなくマニラに移送された。
汽車での移送となったが、無蓋の貨車であった。途中、地元民の集落近くを通過する度に現地人の投石にあい、体を低くし、両手で頭を被い戦々恐々としていた。
マニラではテント張りの病院に収容された。食事は重湯が主で、ご飯粒が数えられる位しか無く、水さえ自由に飲めなかった。元気な人達は使役の帰りしなに雑草等を摘んで、重湯に入れて食事の量を増やしているようだったが、私達病人にはそれも出来なかった。収容所長はかつて「バターン死の行進」で日本軍に地獄の行進を強制された一人で、「私達にはこのような食事さえ与えられなかったのだ」と、彼は言っているということであった。



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