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    かけはし2020年9月7日号

今こそ政治を民衆のもとに


沖縄報告 8月30日

安倍の無責任な退陣を許さない

沖縄 K・S

退陣なら辺野古埋立中止決断を

 安倍首相は無責任な退陣をしてはいけない。立つ鳥あとを濁さず、という諺(ことわざ)があるではないか。内閣史上最長、政権の座にあった期間中に実施した悪政の数々、特に沖縄県民の民意を踏みにじる辺野古新基地建設埋立工事の強行について、真摯に反省し埋め立て工事を中止する決断をすべきだ。
 そもそも何のための政府か。地位と金と資産のある一握りの特権階層が国家権力を掌握し、ろくでもない政治家一家の二世三世が閣僚を務める歴代政府が続くから、日本の政治がよくならない。アメリカで、香港で、ベラルーシで、世界のいたる所で、人民のための政治、人権が本当に尊重される社会を求めて、人々の決起が起っている。政治を特権階層から一般大衆の手に取り戻すために、リンカーン大統領の言葉(Government of the people, by the people, for the people)は、今この時代にこそ求められる。

県の緊急事態宣言は9月5日まで


 沖縄県の緊急事態宣言が、ウークイのあと、九月五日土曜日まで再度延長された。オール沖縄会議は、コロナ感染防止のため多人数による現地行動を控えているが、政府防衛局は、沖縄のコロナ感染拡大など人ごとのように、土砂搬出入、護岸かさ上げ、土砂投入を続けてきた。しかし、先週末の台風八号により数日埋め立て関連工事の中止を余儀なくされた。そして今度は、超大型の台風九号が接近してきたため、木・金の二日かけて、琉球セメント安和桟橋の構内に大量に積んであった赤土土砂を元の鉱山に運び込んだのである。
 安和桟橋のゲートには空のダンプが次々と到着、仮置き場からユンボで赤土土砂を荷台一杯に積んで、本部塩川港の向かいの採石場に運び込んだ。安和桟橋構内には土砂がきれいになくなった。ゲート前でチェックしたNさんによると、動員したダンプは約一一〇台、延べ一三〇〇台分にのぼったという。

サンゴとジュゴンの海・辺野古を守ろう


 台風九号が去れば、沖縄防衛局は再び埋立工事に取り掛かろうとするだろうが、ちょっと待て! たとえ完成したとしても震度一の地震で崩壊の危険があるという欠陥施設に今後一〇年以上の工期で、兆単位の予算をつぎ込むことが適切なのか。沖縄に向き合おうとせず「辺野古唯一」を繰り返した安倍首相の退陣が決まった今、政府防衛局は真剣に辺野古・大浦湾の埋立が破綻している事実を見つめるべきだ。県民ぐるみの沖縄の民意に真摯に向き合い、日本中探してもどこにもない生物多様性の海、サンゴとジュゴンの辺野古・大浦湾の価値を認識すべきだ。
 県の緊急事態宣言が解除されれば、いよいよ防衛局の埋立変更申請の告示・縦覧が始まる。全県・全国から、埋め立てに反対する意見書を玉城デニー知事のもとに届けよう。そして埋め立てを止める闘争現場に集まろう。

宮森小学校ジェット機墜落事件

 八月二二日から一カ月間、対馬丸記念館一階企画展示室で、宮森小学校ジェット機墜落事件の写真展が開かれている。米軍政下の一九五九年、当時の石川市の宮森小学校と周辺地域に嘉手納飛行場を飛び立ったF100Dジェット戦闘機が操縦不能に陥り、パイロットはパラシュートで脱出、制御不能となった機体が小学校と周辺民家に激突、一八人の死者と二〇〇人以上の重軽傷者を出した。子供たちの命と未来が奪われたのは対馬丸と同じだ。NPO法人石川・宮森630会は、「宮森の悲劇を繰り返すな」と、資料証言集『命の叫び』やDVDを発行し、活動を続けている。連絡先は電話090-8293-8615。

8.22

学童疎開船 対馬丸撃沈76周年
小桜の塔で慰霊祭と一般焼香


 八月二二日、那覇市旭ヶ丘公園にある小桜の塔で、対馬丸沈没犠牲者の慰霊祭が開かれた。一九四四年八月二二日、学童疎開船・対馬丸が米潜水艦・ボーフィン号の魚雷攻撃を受けて沈没し、約一五〇〇人の児童、生徒、保護者、教師、世話人らが溺死した。公益財団法人対馬丸記念会は、対馬丸記念館の管理運営や平和学習に当たると共に、毎年八月二二日、数百人規模の慰霊祭を開催してきた。コロナ緊急事態宣言の中、今年は人数を絞って慰霊祭を行い、そのあと午後遅くまで、一般焼香の列が続いた。

悲劇招いた非情な国策今に続く

一九四四年サイパン陥落の悲劇

 振り返ると、一九四四年八月の時点で、アジア太平洋戦争の勝敗ははっきりしていた。一九四四年七月の悲劇的なサイパン陥落では、米軍の大部隊による攻撃の前に、日本軍の兵士、沖縄・日本の民間人、地元住民など数万人が命を失っていた。民間人は、米軍の爆撃、日本軍の壕追い出し、「集団自決」(強制集団死)によって殺された。七月五日、サイパン守備隊の南雲司令官は「サイパン島の皇軍将兵に告ぐ」との訓示を発し、翌日自殺した。

戦陣訓に曰く「生きて虜囚の辱めを受けず」。
勇躍全力を尽くして従容として悠久の大義に生きる悦びとすべし。
ここに将兵とともに聖寿の無窮、皇国の弥栄を祈念すべく敵を求めて発進す。続け。

 「祖国のために最後まで敢闘し、生きて虜囚の辱を受くることなく、悠久の大義に生くべし」との命令書を残して自殺した沖縄戦の牛島司令官の場合と同じ内容の遺書であり、自殺の仕方だ。天皇の軍隊は一般兵士、住民の命を粗末にする。数万の人々が捕虜となり生き延びる道を閉ざされ、「玉砕」死することを強いられた。

サイパンの民間人の六割は沖縄県民

 南太平洋の諸島に日本から植民が始まるのは、第一次大戦後の一九二〇年、国際連盟から敗戦国ドイツの植民地諸島を委任統治する承認を受けてからであり、一九二二年、南洋庁が設置された。サトウキビ栽培と製糖業、さらに燐鉱採掘などに従事する日本人が急増していったが、中心となった会社は、満鉄(南満州鉄道株式会社)と同じように、国策会社たる南興(南洋興発株式会社)であった。
サイパンをはじめ南太平洋の諸島には、一九四〇年の段階で、日本人は一三万五千人、うち沖縄県民は八万人(新城俊昭『琉球・沖縄史』)を占めていたという。サイパンには約三万人の日本人がいたと言われるが、そのうちの六〇%は沖縄県民だった。薩摩の支配と明治の琉球併合を通じて収奪されつくした沖縄で、生活の目途が立たなくなった人々が、天皇制日本国家の南進政策、南太平洋諸島の植民地政策の最前線へと押しやられた。そして、それらの島々で、米軍の鉄の暴風と日本軍の軍民問わず全滅させる政策で、命を失うに至った。
四万といわれるサイパン周辺の日本の陸海軍は全滅、日本人植民者も一万人が死亡したとされる。サイパン島は小笠原諸島から南に下ったところに位置するが、すでに一帯の西太平洋は米軍の制海権・制空権が支配するところとなっていたのだ。

学童疎開は戦争遂行のための国策

 「絶対国防圏」サイパンの陥落は、日本に大きな衝撃を与えた。東条内閣は倒れた。戦局はすでに日本の敗北を決定的にしており、戦争終結の機会であったが、天皇と国家指導層たちは戦争を終わらせようとはしなかった。この後に続く戦争の最後の一年は、アジア太平洋の各地で、沖縄で、日本で、破壊と殺戮による犠牲者を増やし続けた。サイパンの次は沖縄だ、と沖縄の人々はおびえ、日本政府は沖縄決戦に向けて一〇万人疎開計画を打ち出した。
すでに何隻もの輸送船が米潜水艦により撃沈されていた。一九四四年七月一九日に発令された「沖縄県学童疎開準備要綱」によると、「疎開は単なる避難もしくは退散にあらず、戦争完遂のための県内防衛態勢の確立強化を図らんがための措置」とされ、学童疎開の対象は「国民学校初等科三〜六年の男子が原則」となっていた。疎開は戦争遂行のための国策なのである。ところが、人が集まらないので、一〜二年生、高等科、および女子にも枠が拡大された。
対馬丸記念館に掲示されている犠牲者の写真には、三〜六年の男子と並んで、多数の女子、一〜二年の男女の他、引率教師、家族、一〇代の世話人、二〜三才の乳幼児が含まれている。対馬丸は元は日本郵船の貨物船だったが、日本軍により戦時徴用された軍用船である。
那覇港から疎開児童たちを載せて出航する二日前、対馬丸は中国から、第62師団の日本陸軍の将兵を載せて那覇港に着いた。さらに、九州に向かう対馬丸には学童・教師・家族に混じって、広島市の陸軍船舶砲兵四一人も乗っていた。日本軍は学童疎開を民間人として、軍事行動と厳密に区別して実施するという方針を持たなかった。

子どもたちの命と未来を奪った対馬丸撃沈

 中国から対馬丸のあとを追跡してきたという米潜水艦ボーフィン号が多数の学童・生徒・一般住民が乗っていることを知らなかった筈がない。学童を含む約一五〇〇人の犠牲者のほとんどは民間人だった。この後に続く、10・10空襲の無差別爆撃、東京大空襲をはじめとする全国各地の無差別空襲、広島・長崎の原爆投下も皆、米国による民間人の無差別殺害の軍事行動だった。
日米の戦争により多くの子供たちの未来を奪った対馬丸の悲劇は人々の心を揺さぶった。一九五四年、那覇市旭ヶ丘公園に小桜の塔が建てられた。魚雷攻撃を受けて沈没した海域の近くの鹿児島県十島村悪石島には、一九六二年、慰霊碑が建てられた。奄美大島宇検村には二〇一七年、對馬丸慰霊之塔が建てられた。また、児童たち二〇人が犠牲となった読谷村古堅小学校には、桜の木の植樹と共に、慰霊之碑が一九九〇年に建てられた。慰霊碑には「痛恨」と題する以下のような歌が刻まれている。
春めぐり
花ハ咲けども
悪石の
水底乃子ら
あの齢のまま

政府・軍のかん口令により隠蔽

 学童たち一五〇〇人の命を奪った対馬丸の悲劇は、日本政府・軍のかん口令によって、いっそう苦しみを増した。九死に一生を得た生存者の声が展示室の壁に大きく書かれている。
「私はこれまでこの事件について誰にも語ることはなかった。幼い頃に命じられた箝口令という呪縛が私に長い沈黙を強いたのだ」。
天皇制日本国家は、都合の悪いことを隠蔽した。特に侵略と戦争に関して、国家権力とメディアが一体化し国民大衆に真実を知らさない。朝鮮・中国・アジア侵略の実態、南京虐殺の事実、ノモンハンの敗北、等々、隠蔽が積み重ねられてきた。この隠蔽体質は安倍政権まで延々と戦後日本の政治に引き継がれている。
日本社会の最大の問題は、国家権力を掌握する層と一般国民大衆との断絶・対立だ。国民大衆の多数が望むこととまるっきり反対の事柄の数々が政府・国会・裁判所によって推し進められていく政治・社会構造が続く限り、隠蔽も続く。

県内市町村の中国での戦争体験記を読む(29)

日本軍の戦時暴力の赤裸々な描写

 中国侵略の日本軍には、県内各地からも多くの青年たちが動員されて命を落とし、また、戦争の実態を目撃し記録した。県内各地の市町村史の戦争体験記録にはそうした証言が数多く掲載されており、日本軍による戦争の姿を赤裸々に描いている。引用は原文通り、省略は……で示した。
今回紹介する読谷の比嘉さんは、大学在学中の一九四三年、第一回学徒出陣で動員された。一九四三年一〇月二一日、雨の中、神宮競技場で行われた学徒出陣壮行会に参加した。天皇制国家の指導層は、破綻した戦争のために、国の未来を担う数万の学生たちを使い捨てた。

『読谷村史』第五巻資料編4「戦時記録 上巻」(2002年)

比嘉憲蔵
「南方各地を転戦」

 私は一九四二年(昭和一七)四月、東京商科大学(一橋大学の前身)商学専門部へ入学した。
一九四三年(昭和一八)九月二二日、閣議により理工科系以外の学生の徴兵猶予が撤廃された。それを受けて、徴兵検査を受けるようにとの電報が読谷山村役場から届いた。
一〇月に帰郷して、沖縄県庁で徴兵検査を受けて甲種合格となった。東京では一〇月二一日、雨の中、神宮競技場で、徴兵猶予撤廃措置を受けた学生数万人が学徒出陣壮行会に出席した。
一二月一日、私は第一回学徒出陣で、第45聯隊(鹿児島)機関銃中隊へ入隊した。同日、東京商科大学商学専門部は仮卒業ということになった。
一九四四年(昭和十九)三月、私は兵科甲種幹部候補生に合格し、四月には久留米予備士官学校へ入校した。
九月、第一二期幹部候補生入校のため、南方派遣軍に転属し、門司を出航した。途中、バシー海峡(台湾とルソン島の間の海峡)で米軍潜水艦の攻撃を受け、僚船が多数撃沈されたが、私の乗船は幸運にも無傷でマニラに到着した。マニラでは比島方面軍最高司令官山下奉文大将の閲兵を受けた。
九月一七日、東京商科大学商学専門部を繰り上げ卒業となる。……



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