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    かけはし2020年9月7日号

ベラルーシは決して一色では表せない


ベラルーシ

抗議活動の社会的勢力の多様さ
幅広い戦線に可能性と不安定性

ユーリー・グルシャコフ

「安定」の崩壊と混沌化の中で

 今日、多くの人々がベラルーシを注視している。過去一二日間の出来事は、当局の言葉を借りれば、この国の名高い「安定」についての疑問を提起している。
 八月九日、ベラルーシは大統領選挙の投票日を迎えた。夕方までにミンスクや他の多くの都市では、投票改ざんに対する不満を表明するために、多くの人々が集団で集まり始めた。特別警察部隊が彼らに対処するために配備された。彼らの行動はかつてない残忍さ、残虐さ、暴力をともなっていた。それに応じて、人々がもっと抗議しようとして外に出てきた。ついに抗議の感情はベラルーシ国営の企業にまで及んだ。
 当局が明らかに退却したにもかかわらず、ベラルーシの状況は予断を許さない。アレクサンドル・ルカシェンコはまだ自分が大統領であると考えており、いかなる状況下でも権力を手放すつもりはない。ルカシェンコはまだ、抗議行動参加者と交渉し、妥協点を見つけようとする意思を表明してはいない。
 抗議行動参加者は、新たに結成された反政権派の調整評議会とともに、選挙の無効宣言とルカシェンコの速やかな辞任を要求している。権力の平和的移譲を確実にするために、反政権派は社会と国家機関それぞれの代表者による円卓会議を提案している。
 しかし、こうした活動は現在の状況でどこまで正当化されるのか? ベラルーシの反政権派は自らの要求を実現するのに十分な力を現実に持っているのか? 反政権派の経済プログラムは、現在抗議行動に積極的に参加している労働者を含む有権者の大多数の利益にどこまで合致しているのだろうか?

大統領の足場は堅固ではない


 ベラルーシ大統領のアレクサンドル・ルカシェンコは、ソビエト連邦の崩壊と経済の「市場改革」によって引き起こされた社会的不満の波に乗って一九九四年に権力の座に就いた。彼はポピュリスト的な綱領によって当選したのだが、その綱領からすぐに離れ始めた。
 一九九五年、ベラルーシはいくつかの社会保障を廃止し、さらに強制的な有期雇用契約制度を導入し、国家による物価統制を制限し、年金受給年齢を引き上げた。実のところ、ベラルーシはルカシェンコのもとで、財政的にIMFに依存するようになっていて、IMFからの融資と引き換えに、社会プログラムの削減というIMFの要求を実行せざるをえなくなったのである。ルカシェンコが実施しなかった唯一の政策は、ベラルーシの国営企業の大規模な民営化だった。その一方で、当局は独立労働組合の活動を制限し、組合指導者は迫害の対象となった。
 一九九四年以降に実施されたすべての選挙は、数々の重大な不正行為の中でおこなわれてきた。そして、これが、ルカシェンコがとりわけて低い支持率であっても、今年の大統領選挙に臨んだ理由である。ベラルーシでは独立した調査はすべて禁止されているが、オンラインで行われた調査によると、ルカシェンコの支持率はわずか二五%である。その理由をいくつかあげてみよう。
 第一に、大多数の有権者にとっての厳しい社会経済状況が、選挙を前にして彼らの態度に影響を与えた。公式にはベラルーシの平均賃金月額は五〇五ドル(二〇二〇年五月)とされているが、実際のところ地方では二五〇〜三〇〇ドル前後である。パン一斤が〇・七ドル、バス一回の乗車が〇・二五ドルで、二部屋のアパートの水光熱費には月五〇ドル程度かかる。
 第二に、コロナウイルスに関するルカシェンコの立場は、社会での支持率に打撃を与えた。ベラルーシでは検疫措置は導入されず、学校や企業は通常通り営業を続けていた。多くの人は、保健省の統計がウイルス感染者やウイルスでの死亡者の数を大幅に少なくしているのではないかと疑い始めた。
 しかし、最悪の影響を与えたのは、ルカシェンコの新型コロナウイルスに関するジョーク(「私は人々が精神病になることを一番心配している」)であり、死んだ人々に死者が出た罪を着せようとしたことである。この意味で、ルカシェンコのパンデミックに対する公的な態度は、ブラジルのヤイル・ボルソナロを彷彿とさせるものであった。
 第三に、ルカシェンコが社会を怖がらせようとしたことは、最悪の効果をもたらした。六月におこなわれた演説の中で、大統領は反対意見を持つ視聴者に、二〇〇五年に起きた治安部隊によって数百人が殺害されたウズベキスタンのアンディジャン大虐殺(訳注1)を思い出させた。ルカシェンコは別のインタビューで、もしそうしなければならないとしたら、国を守るために「発砲命令を出す」と述べた。
 投票では明らかに敗北したにもかかわらず、ベラルーシ当局はお気に入りの言辞を使い続けている。ルカシェンコの演説では、いまだに過去の業績に言及することが多いが(「私は一九九〇年代に国を瀬戸際から引き戻した」)、反対派や抗議行動参加者への攻撃(「外国勢力のエージェント」、「麻薬中毒者」、「ソーシャルメディアによってゾンビ化された」)や恐怖心を植え付ける試みも多く含まれている。
 少なくとも社会から何らかの支持を受けていることを示すために、当局はまた、(「平和と安定のための」)大衆集会を開催してきた。当局は、解雇するという脅しをかけて、公共部門の労働者を集会に参加させた。極めて官僚化された権力システムは、有権者の支持を維持するのには役に立たないことが明らかとなった。何らかの「国家イデオロギー」を考え出そうとする試みはすべてうまくいかなかった。その意味で、ルカシェンコ体制は、レオニード・ブレジネフの下での共産党のノーメンクラトゥーラ(訳注2)ほどのうらやましい立場でもないのだ。
 実のところ、ベラルーシ支配階級の中からも深刻な危機が現れ始めている。選挙のあとで、高級公務員や[警察などの]法執行官からも辞職者が出ている。

新しい反政権派と古い体制


 過去には、ベラルーシ当局に対する主要な反対派は野党―自由主義的民族主義者および左翼の両方―であった。一九九六年にベラルーシの最高評議会が解散したあと、これらの政党は、選挙結果の全面的な改ざんによって、多かれ少なかれ議会に代表を送ることができなくなった。そのため、彼らの活動は街頭での抗議活動に限られ、ミンスク以外での開催はほとんど不可能となった。事実上、ベラルーシの政党は、政治に関心を持つNGOに変貌することを余儀なくされた。
 二〇二〇年の選挙を前に、保守政党と自由主義政党は、ルカシェンコに対抗する「統一候補」を選ぼうとした。しかし、個人的な野心と「既成野党」の全般的危機のために、こうした予備選挙はひどい失敗に終わった。それでも、この選挙シーズンの「興奮」は、ベラルーシ政治シーンにおける新たな指導者という形でもたらされた。すなわち、ブロガーのセルゲイ・チハノフスキ、銀行家のビクトル・ババリカ、元大統領府副長官のヴァレリー・ツェプカラといった人たちである。
 ゴメル出身の実業家であるチハノフスキは、比較的最近になって政治に関わるようになり、彼のYouTubeチャンネル(「ベラルーシは住むための国」)で知られるようになった。普通のベラルーシ人の問題をとりあげた彼の動画によって、彼は信じられないほどの人気を得た。
 実際には、チハノフスキは典型的なポピュリストとして行動し、抗議行動に幅広い有権者を動員した。しかし、チハノフスキと彼の陣営が突然現れたことや彼が過去にロシアで働いていたことを考えると、「旧」野党の党員の中には彼を疑いの目で見た人もいて、チハノフスキが「ロシアのスパイ」であるという噂が広まった。
 既成支配層の大物であるヴァレリー・ツェプカラとビクトル・ババリカの立候補は、さらにセンセーショナルだった。ツェプカラは元アメリカ大使で、大統領府の副長官を務め、ミンスク郊外で国に支援されたITパークを経営していた。ババリカは長年ベルガズプロム銀行の代表取締役を務めていた。
 当初、この二人の候補者を、当局が推し進めた「スポイラー[訳注:他の有力候補者を妨害するための候補者]」と見る人が多かったが、すぐにルカシェンコの真の対立候補であることが明らかになった。彼らは「新たな反政権派」―国家官僚や大企業の自由主義的反対派―の候補者となったのである。その代わりに、スポイラーとなる候補者は野党の連合市民党のハンナ・カナパツカヤだったようである。
 ルカシェンコは、この三人の候補者が自分にもたらす脅威を見抜いていた。旧野党とは対照的に、こうした新しい候補者は、社会の新たに動員された幅広い層からの支持を得ていたからである。チハノフスキとババリカは選挙運動中に虚偽の容疑で逮捕され、ツェプカラは国外逃亡を余儀なくされた。

自由主義者とプロレタリアート

 しかし、当局にとってのもう一つの驚きは、チハノフスキ、ババリカとその陣営メンバー、旧野党の急進的な部分の指導者たちの逮捕によって、抗議運動は止まらなかったことであり、抗議運動を混乱させたわけでもなかったことだった。むしろ、逮捕は運動に新たな推進力を与えた。自己組織化の集中したプロセスがテレグラム上で始まり、活動家たちはインターネットのチャット経由で行動を調整した。
結局、ベラルーシ中央選挙委員会は、ブロガーのセルゲイ・チハノフスキの妻であるスビアトラナ・チハノフスカヤ、「建設的野党」のリーダーであるアンドレイ・ドミトリエフ、ハンナ・カノパツカヤ、社会民主主義者の実業家シアルヘイ・チェラチェンなど、何人かの対立候補を登録せざるを得なくなった。
当局の論理では、政治のことをよく知らない英語教師スビアトラナ・チハノフスカヤが、現大統領にとって都合の良い相手になるだろうと考えた可能性が高い。しかし、彼女は早くからルカシェンコの主要なライバルとなり、ツェプカラとババリカの両陣営に支持されていた。ベラニカ・ツェプカラとババリカ陣営の代表であるマリア・コレスニコワは、国内各地でチハノフスカヤに同行していたが、外交官の妻と公務員である二人はチハノフスカヤの誠実さに重みを与えた。
チハノフスカヤの周りには多くの異なる社会集団―中小企業の経営者や労働者、若者と年金生活者、知識人と大企業―が結束している。多数の出稼ぎ労働者―検疫のためにポーランドやロシアに行けなかった―もまた、政権にさらなる緊張感を与えている。
注目に値するのは、チハノフスカヤ陣営が、ベラルーシの野党「統一候補」のために自由主義経済学者が以前に作成した経済プログラムを使うことを決めたことである。それは、国家資産の広範囲にわたる民営化、新たな雇用法の導入、その他の反社会的政策を提案している。しかし、独裁体制との闘いの陶酔の中で、普通の有権者はこのことを見ていないし、考えてもいない。
「統一野党」は、有権者への直接の演説の中で、新自由主義改革の展望を語ろうとはしない。そして、マリア・コレスニコワは、ゴメルで一万四千人の人々の前で演説し、反対のこと、つまり「労働者の尊敬を回復」し、ベラルーシの企業に労働者の統制を導入することを約束した。

流血の弾圧と大量逮捕に怒り


八月九日夜に投票が終了したあと、ベラルーシ警察は平和的な抗議行動参加者に対してゴム弾、閃光弾、高圧放水銃を使用し、重傷を負わせた。警察は積極的な参加者と通行人の両方を拘束した。八月九日以降の数日間で、国内では最大七千人が拘束された。
多くの証言によると、拘束された人々は逮捕時に殴打を受け、その後も拘置所で拘束された。公式統計によると、二〇〇人以上が病院に入院することになり、中には今も重篤な状態の人もいるという。ピンスク市では、男性が頭部に銃創を受け、現在も重体である。少なくとも三人が死亡した。そして八〇人が未だに行方不明となっている。
しかし、この前代未聞の暴力でさえも抗議者を止めることはできず、代わりに市民の怒りを爆発させた。女性たちが警察の暴力行為に対して最初に出てきた。選挙の翌週には、国中の町の通りや広場に白衣を着て立ち、暴力の終息を要求した。当局は、彼女たちに対して警察力を行使しないことを選んだようだ。
八月一三日と一四日になって、抗議運動は工場に移った。最初にストライキに出たのは、ミンスク自動車工場、グロドノアゾット、ズロビンのベラルーシ金属工場だった。その後、他の工場でも集会が開催されるようになり、主に暴力の停止、被拘留者の解放、自由選挙の実施などの要求が中心となった。ベラルーシ当局が抗議者の大量逮捕を止めさせたのは、まさに労働者階級によるこうした行動であった。そして、四日間にわたる残忍な弾圧のあと、当局は抗議者への広範な弾圧に終止符を打った。ユーリー・カラエフ内相は部下の行動を謝罪し、逮捕者は刑期が終わる前の者も含めて釈放され始めた。
八月一六日の日曜日には、かつてない規模の大規模な集会がミンスクとベラルーシの他の大都市で開催された。首都では、一二万人から二〇万人が参加した。警察は干渉せず、集会は祝祭日のような雰囲気でおこなわれた。多くの町では、行政や法執行機関の代表者が、公の場で部下の行動を正当化しなければならなかった。
翌日の八月一七日、ストライキは継続し、広がり始めた。サリホルスクの鉱山労働者はストライキを宣言し、町の中心部で集会を開催した。ベラルーシカリイ、ナフタン石油化学コンプレックス、ミンスクホイールトラクター工場、ミンスクトラクター工場、ミンスク自動車工場、ベラルーシ金属工場、ベラズ自動車工場、ポロツクグラスファイバー工場などの大企業がストライキに出たり、連帯行動をおこなったりした。グロドノのストライキ委員会には、地元の飛行場を含む市内の二二の企業のイニシアチブ・グループからの申請があった。国営テレビのジャーナリストもストライキに参加した。彼らは以前には、ベラルーシ野党に対する情報戦争に加わっていたのだ。ミンスク自動車工場の数千人の労働者は国営テレビセンターまで行進した。
これを受けてルカシェンコはヘリコプターでミンスク車輪トラクター工場を訪問した。しかし、労働者が「出て行け!」と叫んで怒鳴りつけたため、 ルカシェンコは嘆願と脅迫を織り交ぜた演説を終了せざるを得なくなった。数人の人々がそのあとで拘束された。同日、チハノフスカヤのイニシアチブによって、権力移譲に関する新たな野党調整評議会が設立され、国内各地で同様の評議会が結成された。ルカシェンコは、国民投票を実施してベラルーシ憲法を変更し、その後に選挙を実施するというあいまいな約束をした。

民衆の要求の結晶化いまだ


しかし、抗議行動参加者はこれらの要求を実行するのに十分な力を持っているのだろうか? 抗議運動の高揚にもかかわらず、それはそれほど明確ではない。ほとんどの場合、企業はストライキに出ていない。その代わりに、国営企業では労働者が主に大衆集会を開催し、決議をあげ、デモ行進をおこなっている。多くの工場では、経営陣がまだ状況をコントロールしている。例えば、ゴメル最大の工場であるゴムセルマッシュ農機具工場では、労働者が単に作業場に閉じ込められているだけである。
労働者の抗議行動への動員はしばしば自然発生的に起こってきた。独立労働組合は長い間「様子見」の立場をとってきたため、闘争にはわずかに遅れて参加した。彼らの影響力は、経営者の抵抗のためにきわめて限られていると言うべきである。動員を始めたのは、ほとんどがミンスクの大工場で働く若い労働者である。この点では、年配の労働者や地方で働く労働者は、より保守的で不活発である。
自由主義的な理論家やコメンテーターもまた、純粋に政治的なアジェンダを労働者に押し付けている。ベラルーシの独立労働組合はすでに全国ストライキ委員会の設立を発表している。しかし、この委員会の代表を務める人々は、労働運動とは何の関係もないように思われることが多い。ストライキ委員会が社会・経済的要求―たとえば有期契約制度の廃止や年金受給年齢の引き上げの中止―を打ち出しても、反政権派のメディアはそれを報道しない。その一方で、実業界はストライキ労働者を物質的に支援するキャンペーンを発表している。
さらに、新しいマルクス主義者によるテレグラムチャンネル(「ストライクBY」、「ザバストフカBY」)が開設され、ベラルーシ労働者のためのより明確な階級的要求を提案している。大統領選挙は間違っていたことを認めよ、という要求のほかに、このチャンネルは、民営化の禁止、有期契約制度の廃止、年金改革と「社会的寄生」税の廃止、国営企業における労働者の管理体制の確立を提案している。しかし、労働者の間でのこのグループの影響力は限られている。
選挙の数週間前に、左翼政党・労働組合の会議がミンスクで開催された。左翼政党の「ジャスティス・ワールド」、ベラルーシ緑の党、ベラルーシ社会民主党(議会派)、マルクス主義グループの「コモン・コース」、ベラルーシ民主労働組合会議、金属労働者独立組合、その他いくつかの組織が参加した。会議は、対立候補のアジェンダに社会経済的要求を含めるよう、共同要求を提出することに合意した。
残念ながら、「ジャスティス・ワールド」と緑の党(私が副議長を務めている)の間で意見の相違があったため、会議は最終文書に合意することができなかった。緑の党は単独で社会的解決策を採択した。社会民主主義者はチハノフスカヤの自由主義的政綱を支持することを選択した。

新自由主義志向の反政府勢力


調整評議会は、現在、犯罪捜査の対象となっているが、ベラルーシの国営企業からの代表者はほとんどおらず、ほとんどがノーベル賞受賞者のスベトラーナ・アレクシエヴィチを含む自由主義的知識人、クリエイティブな職業人、実業界、中道右派の野党の代表で構成されている。もちろん、新自由主義改革は彼らの優先事項であり続けているが、彼らはほとんどの抗議者の前でこれをあまり強く宣伝したがらない。
政権もまた、支持者を積極的に動員し始めており、公式プロパガンダの中心テーマの一つは民営化である。ベラルーシの主に国有産業では、人々は仕事がなくなることを恐れており、当局はその恐怖心を利用している。調整評議会は、すでに政綱の「反ロシア」的部分から距離を置いている。しかし、調整評議会の誰一人として、新自由主義改革から急いで距離を置こうとする者はいない。そしてこのことは、国内での抗議の可能性を著しく低下させている。
さらに、全国ストライキ委員会には、労働者が「お金のために」登場していないことを示唆する声がいくつかある。その一方で、自由主義陣営の中にも同様の考え方を打ち出している者がいる。一見すると理想主義であるにもかかわらず、これらのメッセージは労働者の不安の社会的要素を無視しており、この国の自由主義的ブルジョアジーの真の利益に奉仕している。同様のメッセージは、ウクライナのマイダンの間にも出されていた。
これまでの演説では、元銀行家のビクター・ババリカをはじめとする候補者たちは、大規模な民営化の可能性にポピュリスト的な観点を与えようとしてきた。彼らの意見では、民営化によって職を失った労働者は、国が支援するプログラムを通じて再教育を受けたり、資格を再取得したりすることができ、中小企業に雇われるというのだ。多くの人にとって、この提案の結果は明らかである。
ベラルーシの実業界の問題は、国家がビジネスマンを「窒息死させる」ことではない。実際には、政府は長い間、実業界に対する監査を制限してきた。小規模企業の経営者は、経済全体と同様に、多国籍企業を含む高レベルの競争、人々の低い購買力、世界的な経済危機に苦しんでいる。何百万人もの労働者を個人の起業家にすることで、ベラルーシ経済を「開花」させるという約束は、反動的なユートピアである。しかし、政治的な宣伝として、それは起業家や若者の間で支持を得ている。
ベラルーシの抗議活動に関与している社会的勢力の多様さは、幅広い戦線を保証するが、この連合を内部的に不安定にしている。今日、当局とその反対派は政治的な対立の中に閉じ込められている。一方には、アレクサンドル・ルカシェンコ、国家の官僚機構、そしてそれにつながる大企業のセクターがいる。社会のより不活性な部分も彼らの側にある。そして、広範囲にわたる社会的グループが存在しており、その中には自由主義的な企業家、労働者、サービス業、さらには一部の公務員までが含まれる。彼らはベラルーシの民主化という共通の目的を持っている。しかし、「進歩的ブルジョアジー」と労働者の真の利益は同じではないことを忘れてはならない。
ベラルーシでの膠着状態の結果はまったく決まってはいない。しかし、いずれにしても、ベラルーシは決して同じにはならないだろう。権力の独裁的モデルは、それが存在してきた中でもっとも深刻な危機に陥っている。

 (訳注1)二〇〇五年五月一三日、ウズベキスタンのアンディジャン市で、生活改善を求めた民衆のデモに対して軍が発砲し、数百名の市民が殺害された。犠牲者の多くは虐殺事件後、軍によって運び去られ秘密裏に埋葬されたため、正確な犠牲者数は不明なまである。
(訳注2)ノーメンクラトゥーラとは、もともとは党機関がもつ任命職一覧表のことで、そこから転じて旧ソ連・東欧における共産党・政府の特権的官僚層を指すようになった。
二〇二〇年八月二一日
(『インターナショナル・ビューポイント』八月二四日)
(ユーリー・グルシャコフは、ゴメル在住のジャーナリスト・歴史家で、ベラルーシ緑の党の初代副議長)



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