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    かけはし2020年9月7日号

支配層の支配力それでも揺るがず


レバノン

ベイルートの壊滅的爆発

ジルベール・アシュカル

爆発の全責任は
支配階級全体に

 八月四日にレバノンを震撼させた大爆発は、これほど強力なものではなかった二〇〇五年二月一四日にラフィク・ハリリ元首相を殺害した爆発と同様に、この国の歴史で重要な転換点として記録されるだろう。国連が任命した法廷が、二〇〇五年の出来事について基本的に無力であることを認めるまでに一五年かかかったが、それから判断すると、ベイルートの港での恐るべき爆発の状況について、予測可能な未来において、確実なことが公式に明らかになるとは思えない。しかし、この心に深い傷を残す悲劇については、いくつかの結論を導き出すことができる。
 第一は、爆発の特殊な状況にもかかわらず、二七五〇トンの大きな爆発力を持つ硝酸アンモニウムをベイルートの中心部に六年以上も保管したままにしておいた責任は、レバノンの支配階級全体、つまりその期間中にレバノン政府にいたすべての人々にあるということである。大統領、首相、運輸大臣、主要治安機関の責任者、港湾管理者などが、すべて同じように非難されている。このリストには、レバノンの公式的な国家とレバノンに存在するヒズボラが設置する並行的な国家の指導者も含まれる。それは、ベイルート空港やベイルート港を管理し、意のままに使用していることで知られている。

30年に及ぶ
無政府状態


 レバノンはどのようにしてこの地点まで達したのだろうか? それを理解するためには、三〇年に及ぶ政治的・経済的な無政府状態を考慮しなければならない。
 内戦が始まった一九七五年以前には、レバノンは「財政の楽園」として知られていた。すなわち、野蛮な資本主義の国であり、銀行の秘密性と見せかけの課税により、マネーロンダリング、資本逃避、あらゆる種類の不正取引にとって理想的な地域となっていた。戦争は、サウジアラビア王政とシリア政権による共同支援のもと、一九八九年にレバノンの各党派間で政治的・憲法的な合意が成立したことで終結した。内戦終結は、サウジ領内からイラクに向けて仕掛けられた湾岸戦争において、アメリカ主導の有志連合にシリア政権が参加したことで、その翌年に確定されることとなった。
 十数年間、レバノンはこのサウジ・シリア協商によって運営されていた。サウジ側を代表してラフィク・ハリリは、レバノンにおけるシリアの治安機関の全権代表であるガジ・カナーンと緊密に連携していた。ダマスカスは、二〇〇三年のアメリカ主導の第二次イラク戦争とイラク占領に反対し、協商の終焉につながった。ワシントンは、レバノンからシリア軍を撤退させるよう圧力をかけ始め、特に二〇〇四年の国連安全保障理事会決議一五五九を提唱した(ロシアと中国は拒否権を行使しないために棄権した)。
 ハリリ暗殺は大衆的怒りの大爆発の引き金を引いた。このため、ダマスカスは軍隊を撤退させざるをえなかった。それにもかかわらず、ダマスカスは三者同盟を通じて、レバノンを裏から操り続けてきた。その同盟を構成するのは、レバノン議会終身議長(一九九二年就任)であったナビ・ベリが率いるシーア派の運動で、シリアの親密な協力者であるアマル、シリアのこの地域での協力者であり、レバノンにおけるイランの代理人であるヒズボラ、かつてはシリアの敵であったが、二〇〇六年に転向したミシェル・オウンである。

経済破綻の責任
も全支配階級に


 この一五年間、レバノンは基本的にはラフィク・ハリリの息子サードと三者同盟を含む刷新合同政権によって運営されてきた。そして、内戦終了後以来続いてきた新自由主義的復興という破滅的な経済政策が継続されてきた。しかし、二〇一一年の「アラブの春」以降にシリアで展開された戦争は、イランがシリアに対する優位を得たために、ダマスカスを弱体化させ、テヘランとそのレバノンでの代表者の役割を増大させた。この地域的な勢力バランスの変化によって、二〇一六年にオウンが大統領に選出された。サウジアラビア皇太子であるモハメド・ビン・サルマンが、二〇一七年にサード・ハリリの腕を捻じ曲げてテヘランの支持者との協力関係を終わらせようとしたのは、このような事態の転換に対する下手くそな反応であった。
 いずれにしても、レバノン経済破綻の責任は、明らかに過去三〇年間に政権を握っていた支配層全体にある。一九九二年からレバノン中央銀行総裁を務め、現在もその職に就いているリアド・サラメは、このような確固たる問題を体現している。この共有された責任は、昨年一〇月一七日に始まった民衆蜂起の今では有名な中心的スローガン「奴ら全員というのは、奴ら全員のことだ」の中に述べられていた。

抜本的変革阻止
マクロンが策動


 最近のベイルートの爆発で民衆の怒りが最高潮に達しているため、レバノンでは、一〇月蜂起の二つの重要な要求、つまり支配階級から真に独立した政府と新選挙法にもとづく新たな選挙という要求を支配層に強制することによって、その悲劇に対する明るい兆しがみられるのではないかとの期待が大きかった。その期待とは、国際的な圧力によって、これらの要求の実施が強制され、レバノン支配階級に対する対抗勢力を提供するだろうということだった。
 爆発の二日後におこなわれたエマニュエル・マクロンのベイルート訪問もよって、その期待感は最高潮に達した。多くの人々は、大惨事の直後にあえて人々と交流した指導者がいると考えたが、自国で苦境に立たされているフランス大統領にとっては絶好の写真撮影の場であったことを見落としていた。その期待は長くは続かなかった。すなわち、中東に関するマクロンの一貫した路線は、アメリカと(フランス資本家の利害関係が大きい)イランとを仲介することだったからである。それは、二〇一九年のビアリッツG7サミットの片隅で、ドナルド・トランプとイラン外相の会談を手配しようとしたときに、彼がおこなったことだった。
 レバノンに関するこの立場の論理は、マクロンが同国におけるハリリ・ヒズボラ連合の支配を維持するために組織的に行動してきたことにある。これが、二〇一七年に[サウジアラビアの]リヤドで幽閉されていたサード・ハリリを連れ戻すために断固とした介入を行った理由であり、報じられるところによれば「統一政府」を支持することによって、レバノン民衆の独立政府と新たな選挙への希望を消し去った理由である。この「統一政府」は、「ヒズボラからの譲歩と引き換えに前首相サード・ハリリを復職させる」計画だと解釈されてきたものであった。これは、抜本的改革の代わりに、マクロンが積極的にベイルートでの爆発を後ろ向きの推進力に変えようと行動していることを意味する。そのことによって、確実に不満の増加とさらなる混乱のもとになるだろう。

(『インターナショナル・ビューポイント』八月二七日)



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