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    かけはし2020年9月14日号

変更申請不承認の意見書を全国から


沖縄報告 9月6日

埋立変更申請の告示・縦覧期間は9月8〜28日

沖縄 K・S

悪らつ安倍政権は遂に倒れた
 辺野古新基地建設計画
  白紙撤回の声を今こそ大に


 沖縄県のコロナ緊急事態宣言は九月五日をもって終了した。コロナ感染が終息したわけではないが、県はこの後、感染防止と治療の充実に力を入れるという。県はまた、沖縄防衛局がこの四月提出していた辺野古・大浦湾の埋立変更申請に対する告示・縦覧期間を九月八日告示、八日から二八日までの三週間を縦覧期間とすることを発表した。
 就任以来悪政の数々を重ねてきた安倍政権は行き当たりばったりの施策の破綻と内閣支持率の低下に苦しみ、ついに倒れた。次期総裁・総理の座をめぐって、自民党内で争いが続いている。新しい内閣が登場するタイミングに合わせて、破綻した辺野古・大浦湾の埋め立てを中止せよ!沖縄県民の大多数の意思を尊重し辺野古新基地建設計画を白紙撤回せよ!という声を大きく上げていかなければならない。
 全県、全国から、埋立変更申請に対する意見書を沖縄県玉城デニー知事に集中しよう。玉城知事は常々変更申請を認めないと述べている。知事と共に辺野古埋立工事を中止させよう!
 法律によると、意見書は「利害関係人」が提出する。「利害関係人」とは、狭い意味での地元の人々に留まらない。沖縄県民に限定されることもない。日本中の、辺野古の埋め立て、新基地建設に関心を持つすべての人々が「利害関係人」となる。選挙ではないので、年齢も関係がない。一八才以下の小中高生も自分の意思で意見書を出すことができる。意見書は、提出者の住所・氏名・連絡先、変更申請を不承認とすべきとの意見、その理由を書けば、文書、はがき、FAXなどすべてで可能だ。
 意見書のあて先は〒900-8570 那覇市泉崎1-2-2 沖縄県土木建築部海岸防災課(電話098-866-2410)沖縄県知事玉城デニー宛。

9月7日から現地闘争に突入


 沖縄現地では、台風一〇号が去った九月七日月曜日から、辺野古、安和、塩川、海上の現地の闘争態勢を確立し、再び連日の闘いに突入していく。現地に集まって抗議の声をあげよう。
 国会の多数議員によって成立する内閣だからと言って、なんでも好き勝手にやっていいというものではない。国民主権は選挙の時だけではなく、その都度の重要案件に対する当該市民・県民・国民の意思・考えに従ってこそ、主権在民なのだ。沖縄県民の意思は明らかだ。安倍政権と次の政権は、沖縄県民の意思に従い、辺野古埋立を中止し、新基地建設計画を白紙撤回せよ。

不屈館で、「南西諸島」
ミサイル基地写真資料展


 那覇市若狭の不屈館で、東アジア共同体研究所琉球沖縄センターが企画した「南西諸島(与那国・石垣・宮古・沖縄本島・奄美)ミサイル基地化の危機」写真・資料展が開かれている。期間は九月二日から一〇月三一日の二カ月間。旧盆明けの三日午後、不屈館を訪れた。受付には館長の内村千尋さんがいて、すぐにミサイル基地に関する映像を見せてくれた。
 映像二本は簡潔にしてたいへん分かりやすい内容だった。日本政府の「島嶼防衛」とは何か、自衛隊ミサイル部隊の配備が何をもたらすのか、沖縄戦の悲劇を繰り返さない道は近隣諸国との友好以外にない、ということを説得力を持って訴えるものだった。スクリーンの横では、与那国、石垣、宮古などの自衛隊ミサイル部隊の配備、住民の反対運動の写真・資料の展示が行われている。
 沖縄島から宮古、石垣、与那国にいたる琉球列島の島々に「南西諸島」という呼び名を付けたのは、明治の琉球併合のあと沖縄を支配下におさめた天皇制日本政府だった。そもそも沖縄がどうして「南西」なのか。中央政府のある東京から見た名称だ。琉球の島々を「南西諸島」と呼ぶこと自体が日本国家の支配の言葉であり、沖縄を「帝国の南門」として本土防衛の盾にして沖縄戦を組織し沖縄を廃墟にしたかつての天皇制国家の沖縄に対する全く同じ姿勢を見るのだ。「南西諸島」とは中央政府による支配の思想に染め抜かれた言葉である。
 中央政府の官僚や政治家が「南西諸島」というのは沖縄に対する支配者としての彼らの立場をあらわすものだが、沖縄の人々まで無意識的に「南西諸島」というのは日本国家に同一化するものであり、自己喪失以外の何物でもないと思う。

米軍政と基地に反対する
闘いの資料館


 瀬長亀次郎は、米軍政に対し非暴力抵抗をやり抜いた沖縄人民党の中心メンバー、言ってしまえば、沖縄のガンジーのような人物だ。最近、映画も二本制作されたが、「不屈」という言葉は、亀次郎にふさわしい。今はもうないが、かつて樋川の刑務所通りの角にあった、フミさんのマッチャグァーも何度か通りがかった。亀次郎とフミさんの二人三脚の活動を想起したものだ。
 沖縄の共産党がかつての人民党の歴史と大衆性を受け継いでいることは疑いようがない。それでも、復帰に際し人民党が共産党に合流せず、沖縄独自の地方政党として存続し続けていたら、という可能性に思いを巡らせてみる。辺野古埋立の是非を問うた県民投票で示された、沖縄のことは沖縄が決める!という沖縄の自己決定権の主張はもっと根を張ることができていたかもしれないとも思う。
 辺野古現地に参加するために沖縄を訪れる皆さんも、不屈館に立ち寄り、「南西諸島」の自衛隊ミサイル部隊の配備と瀬長亀次郎の闘いの足跡を振り返る時間を持たれることをお勧めする。

あかばな
(赤いハイビスカス、仏桑華)

 あかばなは沖縄を代表する花だ。朝咲き夕しぼむが、また翌朝咲く。次から次へと花が咲く不死の生命力を宿したかのような花だ。この点で、朝鮮の代表的な無窮花(むくげ、ムグンファ)とよく似ている。
一九四五年九月七日は沖縄の終戦記念日。第32軍の牛島司令官が自殺していたため、宮古島と奄美からそれに次ぐ二人の司令官が出席して、現在の嘉手納基地の中で米軍との間で降伏調印した。
沖縄に第32軍が置かれたあと、中国をはじめ各地から日本軍部隊が沖縄にやってくるのは一九四四年八月以降。その中のひとつ、独立高射砲第27大隊に所属した渡辺憲央さんは、那覇空港そばのガジャンビラの丘の上から那覇の町を見た時の感想を書き、沖縄戦で廃墟になる前の姿を描いている。『逃げる兵―サンゴ礁の碑』(マルジュ社、一九七九年)
「丘の上から眺めた那覇の町は、たとえようのない美しさであった。緑に囲まれた赤い屋根、青い屋根から朝餉の煙がたなびき、真紅の仏桑華の花が点々と宝石をちりばめたように見えた。……」
戦争がこの美しい沖縄を破壊した。
ちなみに、ガジャンビラの地名に、渡辺さんは蚊と蛇が多いということから、「蚊蛇平」と漢字をあてているが、正しくは、「我謝平」、我謝という集落の坂という意味である。ヒラは坂のことで、沖縄に残っている日本古語のひとつである。

県内市町村の中国での戦争体験記を読む(30)
日本軍の戦時暴力の赤裸々な描写


中国侵略の日本軍には、県内各地からも多くの青年たちが動員されて命を落とし、また、戦争の実態を目撃し記録した。県内各地の市町村史の戦争体験記録にはそうした証言が数多く掲載されており、日本軍による戦争の姿を赤裸々に描いている。今回紹介した二人のうちのひとり、国吉さんは一九三七年の南京攻撃に参加したが、その後、職業軍人の道に進んだ。引用は原文のまま、省略は……で示し、補足は〔 〕に入れた。

『読谷村史』第5巻資料編4「戦時記録 上巻」(2002年)

大城清勇「軍属を志願して台湾に送られる」

 一九四一年(昭和一六)、学校は小学校という名称から国民学校へ変わって、なにかと戦争に関するような教育が行われるようになってきた。そして、一九四三年(昭和一八)頃になると静かな村も飛行場(読谷山飛行場)建設や軍の駐屯等で急にあわただしくなっていった。
私たち学童五、六年生から最上級の高等科生までは、直接軍の工事に駆り出されるよりも、出征軍人の家(誉れの家)への農耕奉仕作業の方が多かったと記憶に残っている。特に上級軍人の福地蔡勇家への奉仕作業には人数も回数も多く割り当てられた。
一九四四年(昭和一九)三月、私は渡慶次国民学校を卒業と同時に、軍属を志願した。それには先生方の勧めによることも大きかったが、切迫した戦局下では、国に殉ずるとか、お国のために尽くすという思いは皆同じで、自ら進んで海軍志願、陸軍志願、軍属志願の道を選んだのである。そして、軍隊に入れば三度三度米の飯にありつけるという思いからでもあった。
検査は普天間の中頭教育会館で行われた。身体検査と口頭試問であった。幸い合格となり、那覇に集められた。……八〇人くらいではなかったかと思う。
那覇に集結すると料亭「三杉」を宿舎にして、西本願寺で訓練が行われた。訓練内容は駆け足・銃剣術・剣道等で、それに毎日行軍が行われた。
五月二七日、鹿児島へ上陸。同行の海軍志願兵たちは旅館で軍服を支給され、威勢よく入隊して行くのを羨ましく見送った。
私たちは大刀洗飛行場に送られ、航空機整備の実地訓練を受けた。大刀洗航空廠第九期生である。
六月末、台湾に派遣され、風18918部隊中央航空路台湾軍管区屏東基地へ配属された。間もなくフィリピンへ派遣される予定であったが、戦局が緊迫化し、輸送路が危険ということで中止となった。……
花蓮港基地では二人乗りの旧式機「キ51」に一人が乗り込み、爆弾をつけて飛んで行くのを見送った。その機は車輪が引っ込まない代物で、おそらく特攻のはじめではなかったかと思う。
終戦となって武装解除され、沖縄人は他県人とは別にされた。中国軍はかつての日本人の官舎に入り込み、私たちはその庭の草刈り作業をさせられた。
敗戦で自暴自棄になった人たちの中には、薬用アルコールを呑んで暴れる者もいた。そのような中で同胞をまとめ指導したのは知花成昇大尉(波平出身)であった。
荒れた人々も彼の指導にはよく従い、統制の取れた集団となってきた。そうしたことで中国軍も好意をもって接してくれ、日本軍の残した食料も分け与えられたし、復員に際してはお土産として線香を持たしてくれる中国兵もいた。沖縄玉砕ということで、戦没者を弔う事への配慮からであったのだろう。
こうして私たちは整然と復員することができた。

国吉真助「中国大陸を転戦」

 私は一九三三年(昭和八)、沖縄県立農林学校を卒業し、一九三四年(昭和九)、大阪市明正簿記専門学校に入学、一九三五年(昭和十)一二月、徴兵検査のため同校を早期卒業した。
私たちは俗に「十年召集」と呼ばれた組で、一九三六年(昭和一一)一月一〇日、第6師団歩兵23聯隊(都城)へ入営した。
一年半の満期が近づき、それこそ帰心矢の如しで、各自、営門前のお土産品店に立ち寄り、星印入りの徳利や杯を買い求めていた。
その時、突如起こったのが2・26事件である。故郷への心のはやりは、その事件によって水をぶつかけられた。連隊の応急動員令が下され、兵役の満期除隊も取り消しとなった。
そうこうする内に一九三七年(昭和一二)七月七日、盧溝橋事件が起こり、北支へ派遣され、八月二日、北京の千軍台近くに駐屯し、初めて戦場に到着した。当時私は上等兵で第4分隊長をしていたが、敵軍との睨み合いが続いた。
八月一八日、正定城攻撃へ進発し、一〇月八日、正定城を攻撃中、左腕貫通銃創を受け陸軍病院に入院したが、北支での戦闘終了にともない部隊が移動するに及んで、入院三日目にして包帯をしたまま原隊へ復帰し、乗船のため石家荘を出発した。
一月二七日、北昭丸にて中支方面へ向かう。一一月五日、分隊ごとに小艇に分乗し、汀線で水に浸かりながら杭州湾へ敵前上陸、その後、青補追撃戦で一日約二〇キロの行軍が続き、南京攻略に向かった。
一二月一〇日、南京城外苑の雨花台を攻略するも、工藤分隊員が戦死し、約二週間その遺骨の一部を紙袋に包み、私の背嚢に安置して作戦に参加した。一二月十一日、南京城中華門を攻撃中、敵の大部隊と正面衝突し一時苦戦したが、やがて中隊本部から増援隊が到着して事なきを得た。……



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