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    かけはし2020年9月21日号

辺野古埋立中止!意見書を沖縄県へ


沖縄報告 9月13日

変更申請書の縦覧と意見書の提出期限は9月28日まで

沖縄 K・S

 

9.11

埋立設計変更認めない!
新基地建設即刻中止!

県庁前集会に200人

 埋立変更申請に対する縦覧が九月八日から三週間の日程で始まったが、九月一一日の昼休み、県庁前広場で、オール沖縄会議が主催して「知事に意見書を届けよう!辺野古埋立設計変更は認めない!新基地建設は即刻中止を!」との緊急集会が開かれ、約二〇〇人が参加した。緊急集会ははじめ九日に開かれる予定だったが、突然の悪天候と雷注意報により延期されたもの。
 はじめに、共同代表のひとり、高里鈴代さんが「意見書を提出し、埋立反対の大きな声を県へ」と呼びかけた。続いて三人の国会議員がそれぞれ、赤嶺政賢衆院議員「昨晩国会から戻ってきた。でたらめな変更申請に反対する県民世論を盛り上げよう」、伊波洋一参院議員「ハイサイ、皆さん。施工中にも壊れるような欠陥施設を造ってはいけない」、高良鉄美参院議員「菅は埋立に県の承認をもらったと嘘を言っている。県民は同意していないことを何度でも示そう」と訴えた。
 県議会各派の発言が続いた。この日、ほとんどの県議が顔を見せ、各会派の発言に前に並んで立った。沖縄・平和(八人)の仲村未央さん「辺野古を止めて、政権を倒し、沖縄の未来を勝ち取ろう」、共産(七人)の瀬長美佐雄さん「防衛局次長に確認したら、活断層の存在を想定していないという。いい加減な埋め立ては認められない」、てぃーだネット(七人)の山里将雄さん「沖縄の民意を無視して進められる埋立工事は直ちに中止する以外ない」とそれぞれ主張した。
 北上田毅さんは「防衛局の申請書をチェックしているが、その中で三点強調したい」と述べ、「@軟弱地盤の具体的な記載がない、A防衛局の方針は工期短縮がすべて、環境への影響を無視、B土砂搬出が一番大きいのは南部の糸満・八重瀬地区。海砂も全県の二年分」と提起した。さらに、「すでに県には五〇〇通の意見書が寄せられている。前回埋立承認にあたっての三千三百余りの意見書を二倍三倍上回る意見書を集中しよう」とアピールした。
 現地闘争部の山城博治さんは「埋め立てを強行する政府の無謀、でたらめを止めよう。それぞれの地域で運動の輪を広げよう」と述べ、「今こそ立ち上がろう!今こそ奮い立とう!」と呼びかけた。最後に共同代表のひとり、大城紀夫さんが「当事者は県民だけではない。運動を全国に広げよう」と述べて、ガンバロウ三唱をリードした。

仰々しい形式にもかかわらず、大事なことは無内容な申請書


専門家は責任を果たせ!

 九月一〇日、県庁二階の行政情報センターに足を運んだ。申請書はA4判で約二二〇〇ページ、分厚いファイルが三分冊。縦覧は、名護市役所など七カ所と那覇市の県庁二階の計八カ所で行われており、海岸防災課のHPに全文がアップされている。琉球新報、沖縄タイムスはそれぞれ紙面を割いて特集し、「肝心な点があいまいだ」(タイムス)、「無理な工事認められない」(新報)と社説で訴えた。
沖縄防衛局の提出した書類の正式名称は「沖防第2056号 埋立地用途変更・設計概要変更承認申請書」。あて先は「沖縄県知事 玉城康裕殿」となっている。ざっと目を通した中で、@大浦湾の一部先行埋立、Aジュゴン、B埋め立て土砂の県内調達、の三つの問題を取り上げてみたい。
@水深の浅い辺野古側の埋め立てと違って、最も深い所で水深九〇mにいたる軟弱地盤が広範囲に広がる大浦湾側の埋め立ては最大の難関だ。申請書は変更後の工法として、外回りの護岸を築く前に土砂投入する「先行埋立」を打ち出した。「埋立施工能力の高い作業船を極力長い期間使用する必要があり」「埋め立て区域の閉合時期は遅くせざるを得ない」と述べている。「工事期間短縮」のためなら環境破壊の度合いの深化など構っていられない、という訳だ。
A申請書はジュゴンについて、かなりのページを割いて取り上げている(2―14―1〜)。工事の実施による、濁り、水中音、振動・騒音、夜間照明、作業船の航行などの項目を立て、真剣に検討しているかの装いをしているが、ジュゴンに与える影響は「概ね同程度もしくはそれ以下」、さらに埋め立て地の存在や施設の供用の項目を立て、「ジュゴンの生息域が減少することはほとんどありません」と述べる。ジュゴンへの影響について「変更前と同程度またはそれ以下と予測されます」と書いている。
沖縄・辺野古に生息していた三頭のジュゴンは、埋立工事が始まると周辺から姿を消し、その後、うち一頭は古宇利島で死んで発見された。フロートを張り護岸を造り土砂を入れ、藻場を奪い、工事船が行きかう現場にはジュゴンが住みようがないことは明らかなのに、防衛局は「工事とは無関係」と言ってきた。
万事この調子だ。「真剣に検討しました」という外観とは逆に、内容は欺瞞に満ちている。なぜ、防衛局の役人や環境監視等委員会の学者たちは公務員として、あるいは専門家として、このような無責任な態度に終始するのか。事実を見よ。日本では沖縄にしかいない天然記念物のジュゴンをもっと大切に扱え。また何より、国民は権力者たちのウソに寛容であってはならない。
B埋立土砂の調達先は、これまでの県外主体から、県内全量調達可能+九州、という内容に変わった。県内の土砂採取場所は、国頭、本部・名護、糸満・八重瀬、宮城島、宮古島、石垣島、南大東島の七カ所、調達可能量は約四五〇〇万立方メートルであり、埋立総量の約二一〇〇万立方メートルの二倍以上に当たる。特に、糸満・八重瀬地区は三千万立方メートル以上とされた。もし計画通り実行されれば、沖縄南部の激戦地の石灰岩地帯は破壊されつくすだろう。
防衛局はリスクの分散を忘れていない。外来種の侵入を防止する県条例の網を逃れるため、当初計画していた山口、香川、福岡各県を今回削除したが、県内からの調達がうまくいかない時に備えて、当初計画の鹿児島、熊本、長崎県に加えて佐賀県を新たに加えた。
埋立変更申請は埋立工事の破綻を示すものだ。破綻した埋立は中止以外に道はない。埋立中止、新基地白紙撤回、変更申請不承認を求める意見書を沖縄県に届けよう。辺野古埋立反対を掲げて中央政府に対峙する玉城デニー知事を全県、全国の世論の力で支えよう。

再開した現地の闘争―
辺野古、安和、塩川、海上
全国で自公政権への反撃戦線を

 沖縄県の緊急事態宣言が九月五日に終了し、台風一〇号も去った七日月曜日から、現地行動も始まった。海上行動の拠点となっている辺野古の浜のテント2では、いくつかのテントを張り、看板や机椅子を出し、船の点検と清掃を行った。キャンプ・シュワブゲート前のテント村でも清掃とテント張りを行い、少数だったが、資材搬入の工事用車両に対する座り込みを貫徹した。琉球セメント安和桟橋では、一日遅れで土砂搬入が開始されたのに合わせ、ゲート前での根気強い抗議行動が再開された。
「辺野古唯一」を繰り返す自公政権に対する反撃の闘争戦線を、現地の辺野古、安和、塩川、海上を先頭に、全県、全国で作り出そう。

県内市町村の中国での戦争体験記を読む(31)

日本軍の戦時暴力の赤裸々な描写

 

 中国侵略の日本軍には、県内各地からも多くの青年たちが動員されて命を落とし、また、戦争の実態を目撃し記録した。県内各地の市町村史の戦争体験記録にはそうした証言が数多く掲載されており、日本軍による戦争の姿を赤裸々に描いている。引用は原文のまま、省略は……で示し、補足は〔 〕に入れた。

「西原町史」第三巻資料編2
 「西原の戦時記録」(一九八七年発行)

泉川寛弘
「中国戦線と戦友」

ベトナムから30年ぶりに帰ってきた兵士も


昭和一六年に仲間六人と一緒に徴兵検査を受けた。数え年二一歳の時です。私たちは第一補充兵でした。本来は繰り上げになるべきところでしたが、繰り上げにはならず、昭和一八年六月に召集された。
それで、那覇から船で鹿児島に行き、熊本の西武16部隊に入隊した。西原村出身者で同部隊に一緒に入隊したのは二九人でした。
初年兵(二等兵)時代の一年間の軍隊生活は非常に苦しいもので、親には見せられないほどの生活でした。入隊後七、八か月間は、泣かずに暮らせる晩なんてほとんどなかった。初年兵は皆そうではなかったかと思います。
昼も辛いけれども、夜は夜で、古兵たちにあちらこちらで色んなことをさせられた。古兵たちは、第一線の上娯楽場がないので、初年兵に「ウグイスの谷渡り(柱に抱きついてホーケキョーと唱える)」とか「自転車乗り(七尺くらいの二つの高い台に渡された六尺の木銃に乗り自転車をこぐ真似をして落ちる)」という遊びなどをさせて喜んでいた。古兵たちには面白いかもしれないが、初年兵にとっては辛いものだった。
西部16部隊は一〇月二〇日、北支に派遣された。部隊は北支のコーマチンに長期間駐留し、私たち初年兵は、そこでいろんな教育を受けた。コーマチンの住民は日本軍の駐屯地には近づけないようにしていた。駐屯地には多くの部隊が集結していたので、兵隊が住民に会えるのはせいぜい演習か何かで駐屯地の外に出る時だけでした。
半年間の検閲を終え一二月になると、六月に一緒に入隊した初年兵(二等兵)は全員一等兵になり、更に一か年すると何人かの人は先発上等兵になった。
支那ではいろんな作戦に参加した。激戦地での作戦なので、作戦が展開されると、双方に多数の犠牲者が出た。特に「ミエケン作戦」では日本軍にも相当な犠牲者が出た。この作戦は着剣して夜襲で突撃するという物凄い作戦でした。
私は、大隊の2小隊の1斑で擲弾筒班にいた。擲弾筒班では前後に弾を四個ずつ持ち、擲弾筒に入れて発射した。歩兵は、擲弾筒だけでなく、銃器、歩兵砲、鉄砲なども持っていた。
37師団の中にはいくつかの部隊があったが、「ミエケン作戦」で最も多くの犠牲者が出たのは冬3543部隊でした。私が属する16部隊では、分隊が一三人でしたが、私の分隊だけで、一晩に五人も直撃弾で戦死した。
戦場での軍隊生活は非常にきつかったので、自殺者もいれば「名誉」の戦死者もいた。「ミエケン作戦」では隣部落の沖縄出身者たちも何人か戦死した。その中に、徳佐田の方や森川の棚原さん、棚原の城間定次さんらがいます。
中国戦線では、食料不足だったので芭蕉の木を倒してその芯を炊いて食べたり、それがなくなると今度は根を掘り起こしてそのまま炊いて食べたりした。芭蕉の根を炊くと大根のようになる。ところが、この「芭蕉料理」を食べて死んだ人が大勢いる。芭蕉には渋があり、そのためか下痢患者が多数出て、それが死亡につながった。また、マラリアやコレラも発生し、それにかかった兵隊が多数死亡した。
私は昭和二〇年三月に37師団司令部の軍医部に転属になって師団付けになり、その後は戦闘には参加しなかった。この軍医部は37師団の管轄下にある各連隊や大隊に薬品等を配ったり、時には、普通の部隊の手伝いをして治療を行ったりしていた。
私の部隊はタイ国まで行ったが、ちょうど私が軍医部に転属になる前(昭和二〇年三月ごろ)、同年兵の備瀬知三郎さん(沖縄出身)が部隊から逃げてしまって行方不明になった。彼は私と同じ16部隊所属でしたが、私はまもなく37師団に転属になったので彼の消息がわからず、彼は戦死したものと思っていた。ところが、中隊に帰って須堂中隊長(現在、福岡女子短大教授)に会って話してみると、備瀬さんは戦死してはおらず、行方不明になったままだ、と聞かされた。
戦後、昭和四九年に慰霊祭でベトナムまで行った観光団の方々の話から、山奥に備瀬さんらしい人が生きているという情報が流れた。捜索の結果、備瀬さんが発見され、彼は昭和五〇年六月七日、無事沖縄に帰って来た。
彼は沖縄に帰って来ても言葉がわからないと言っていた。また、中隊の戦友たちが集まった宴会で酒を飲みながら「ほんとに戦争は終わったのか」と話していた。
備瀬さんに会った時は、あんな山奥で三〇年間も生活し、よくも生きて帰ったものだと思った。彼の話では、彼が逃げている時に、子供二人をつれて逃げまわっていたベトナム婦人と偶然に一緒になり、ずっと四人で生活していたそうです。


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