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    かけはし2021年1月1日号

コラム「架橋」


眼からウロコ


 こんなに驚いたことは滅多にない。新型コロナの市中感染が拡大する中で巣ごもり状態になりいたずらに時が過ぎた。退屈しのぎに野球を見ながら箱の酒を飲んでいる時に口の中に何やら硬い物が転がり込んできた。
 酒の肴ではない。一瞬恐怖を感じテーブルの上に吐き出した。金属片だ。手にとって見てわかった。治療済みの奥歯の上部が全部折れてしまったのだ。
 納得である。虫歯を治療して50年近くになる。神経も抜いてあるので痛むことは無い。歯ぐきが痩せ金属製の被せ物との間に隙間ができ、虫歯菌に食われてしまいポロッと折れたというわけだ。
 冗談ではない。納得している場合ではない。大事な奥歯が1本無くなったのだ。食べにくいことこの上ない。私は虫歯で一番奥の奥歯上下を既に失っているのだ。
 治療して50年近くになるので歯ぐきに残されている歯も虫歯菌に食われてボロボロになっているのに違いない。暗たんたる思いであった。歯医者に行く気にもならなかった。ましてや新型コロナの市中感染の最中だ。歯医者も安全圏ではない。
 それから数ヵ月。意を決して歯医者に行くことにした。虫歯菌に食われるまま放置しても良いのか早期に抜歯したほうが良いのか医者の判断を聞かないと心が落ち着かなかったからだ。
 医者の眼は明らかに笑っていた。「治療方針を説明します」という。私は一瞬理解できなかった。残った歯がかなりしっかりしているので、その上に土台を作って歯を再建すると言うのだ。インプラントなのかと尋ねたが「保険内診療」だという。わずか3回の通院で治療は終わるという説明であった。そんな話は私の周辺では聞いたことがなかったがやってみる価値はありそうだと思った。
 たとえ奥歯1本であってもはるかに食べやすくなる。ただ奥歯にはかなりの圧力がかかるのでいつまで持ちこたえるかわからない。
 「何を食べるかは本人しだいであり、持ちこたえられなくなればその時に抜歯すれば良い」と医者は言ってのける。いかにも自信ありげだ。
 あっという間に3回の通院は終わった。鏡の中にピッカピカに輝く金属製の義歯が見える。早く何かを食べてみたい。私の心は期待に変わっていた。これまでよりはバラエティに富んだ食事ができるかもしれない。食事にかかる時間も少しは短くなるだろう。酒もうまくなるにちがいない。
 医療の進歩は日進月歩であり驚異的だ。この技術があれば私たちは多くの生きた歯を失っても義歯によって再建できる。万能ではないだろうが。私にとってはまさに眼からウロコである。
 何枚ものウロコが落ちる音がした。    (灘)



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