もどる

    かけはし2021年1月25日号

コロナ禍が示す農地破壊の誤り


投稿

三里塚大地共有運動と私

全国行脚の経験から

たじまよしお


 三里塚大地共有運動への私の最初の関わりというか印象は、多分1983年だったと思いますが「管制塔被告の釈放を訴え絵を背負って第四次みちのく行脚」のとき、◯◯派の活動家がゆく道々に現れゆくてを阻み、夜の集会にも現れ「この全国行脚は一坪運動にも加担しているから粉砕の対象だ!」と、随分張り切っていたのを思い出します。全国行脚を支援してくださっていた方々の機転で、私の体に手を触れるところまでは至りませんでしたが、緊張する場面が数々ありました。
 その全国行脚の後だったと思いますが「大地共有をすすめる三多摩連絡会」みたいなのが結成されたのですが、その後◯◯派によるテロによって大切な仲間が全治12カ月もの重傷をさせられ、時を置いて私の判断で「三多摩連絡会」の連絡先を私の自宅に移しました。それからは団地の一軒一軒を訪問して180軒から500円づつ集めその資金で共有者を増やしました。
 やがて田無警察がやってきて「◯◯派があなたを襲撃の標的に定めました。田無警察管内でそんな事件が起きては困りますのであなたを護衛します」とマンツーマンの護衛付きの日々が続きました。その一人が東北の出身ということで「田島先生のみちのく行脚の記録を世界革命紙で読ませてもらいましたが、東北の街並みの様子がよく描かれていて故郷の情景が心に浮かびました。先生は最近はどんな作品を手がけていますか?」と私の家の玄関で公安2人が靴を脱いで上がろうとするのを実力で押し返すということなど、なかなか刺激的な毎日でした。
 それに加えて「大地共有運動粉砕派」からの訪問も度々受け、大地共有運動を止めなければ重大な事態を招くなどの貴重な助言をいただきました。その頃は子供達がまだ幼くて私たち夫婦の留守にやってきて「お父さんもお母さんもいません」というと、家に上がり込んで隅々まで確認して帰るという、随分と念のいった活動ぶりだったということで、その後訪問を受けたとき私は激怒したのを覚えています。
 もう一つの重大なおまけは、当時私の連れ合いは武蔵小金井駅の近くの保育園勤務の保育士でしたが、その隣のマンションだかの一室の窓から千葉の習志野ナンバーの公安が、望遠鏡で保育園の中を終日覗くということがかなり長期にわたって行われていました。これは多分大地共有運動への恫喝で、私たち夫婦の間に楔を打ち込むためのデモンストレーションであったのではないかと思いますが、公安は相手を間違えていたようです。
 私たち夫婦はその後もずっと三里塚大地共有運動の協力者であり続けてきたのです。ここ10年ほど現地行動に参加することなく横着していますが、私たちの思いを法人化へと発展させてくださった皆さんに心から感謝申し上げます。

      


もどる

Back