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    かけはし2021年2月22日号

理解が必要なのは政府の方だ


沖縄報告 2月14日

南部戦跡での土砂採取計画と無謀訓練に怒り噴出

沖縄 K・S

日本政府は沖縄にたいする国家によるパワハラを止めよ!


 沖縄は現在、県の非常事態宣言が2月末まで延長され、辺野古の現地行動がオール沖縄会議現地闘争部として監視行動を除いて中止されている。小規模な現地行動が辺野古ゲート前、琉球セメント安和桟橋、本部塩川港で諸個人の自主的な行動として継続されているが、政府防衛局はここぞとばかりに埋立強行に拍車をかけている。沖縄防衛局は先日、沖縄県に対し、辺野古側の埋め立て区域2―@(約6・5ヘクタール)のかさ上げを3月29日から始めると通知した。
 辺野古側の埋め立て地をドローンの上空写真で見ると、辺野古漁港寄りのより広い面積の埋め立て区域2に対し、長島寄りの小さい区域が2―@だ。現在の高さは海面から3・1m。これを4mの高さにかさ上げする。工期は7月末とされている。
 一度決めた国策は何があっても変更しない。この国家の硬直が、太平洋戦争と沖縄戦に突き進み沖縄と国内外に甚大な被害をもたらした一因だ。辺野古・大浦湾に、活断層と軟弱地盤が新たに判明し、埋立困難・工事強行は甚大な環境破壊ということがはっきりしている。
 米海兵隊の大部分の転出により新たな基地は不要だ。米軍が従来から辺野古の滑走路は短いので普天間の2800mの滑走路の替わりにならないと言明しているように、辺野古は普天間の代替ではない。沖縄の民意は辺野古新基地反対で不変である。ところが政府は「県民に理解を求める」と言い続けるのである。何という傲慢。理解すべきは政府の方だ。国家権力による究極のパワハラとしか言いようがない。

米軍が各地で低空飛行訓練


沖縄県議会が全会一致で抗議決議

 現在、県内で大きな問題として浮上している二つを取り上げよう。一つは、米軍による危険な軍事訓練である。
先日NHKの特別番組で、岩国基地が取り上げられていた。岩国基地は今、F35やFA18など、米海軍艦載機を中心に多数の航空機が常駐している。番組は「東アジアで最大の米軍基地」というような紹介をした。しかし、違う。誤解してはいけない。岩国が最多なのは、海兵隊基地として、艦載機をはじめ航空機の数であって、軍事基地の広さ、基地機能全般を言うのではない。番組の制作者が意図的に発した言葉ではないとしても、沖縄が米陸・海・空・海兵の4軍が駐留する軍事要塞であり続けている事実を見えにくくしたり薄めたりすることがあってはならない。
1月末から2月にかけた日米共同訓練の他にも、米軍のパラシュート降下訓練、つり下げ、嘉手納基地のF15、F16、F35戦闘機に加えて岩国からのFA18戦闘攻撃機による離着陸訓練による騒音、場周経路の逸脱と住宅地上空の飛行、普天間基地のオスプレイなどの深夜の離着陸、そして最近問題になっているのが低空飛行訓練である。
昨年来、慶良間諸島周辺、辺戸岬、金武町上空で、海兵隊のMC130特殊作戦機などの低空飛行が目立っている。目撃した人は「岬にぶつかりそうだった」と証言している。
沖縄県議会は2月10日、米軍基地関係特別委員会で、抗議決議と意見書を全会一致で可決した。ところが、菅内閣の岸防衛相は2月12日の記者会見で「飛行訓練はパイロットの技術向上を図る上で不可欠。合意を守って訓練していると米軍から回答があった」と述べた。岸は国民の安全を第一に考えない政治家の最たるものだ。
合意とは、1999年の低空飛行に関する日米合意である。国際民間航空機関(ICAO)や日本の航空法による安全高度は、@人口密集地では300m、Aそれ以外では150mとなっており、米軍機にも適用するとした。であるなら、厳格に調査し、違反した米軍に対し、罰則を設け厳しく対処するのが筋だろうが、日常的に違反が横行し、日本政府は容認している。航空特例法により米軍機に低空飛行が認められるということはあってはならない。いわゆる法治国家崩壊。現代における米軍の治外法権と日本政府の対米従属があからさまだ。

熊野鉱山の土砂採取を中止せよ!


平和市民と島ぐるみ南部が県に要請

 もうひとつの問題は、沖縄戦の最後の戦場となり、国定の戦跡公園に指定されている南部地域からの土砂採取である。現在沖縄県で審査されている、防衛局の埋立変更申請によると、糸満、八重瀬地域から3000万立方メートルの土砂が採取可能とされている(埋立土砂の総量は2100万立方メート)。周知のように、この地域は住民、日本軍、強制動員された朝鮮人など10万人以上が命を失い、遺骨収容も終わっていない土地だ。
特に、魂魄の塔のすぐ横にあり、東京の塔と隣り合わせの熊野鉱山からの土砂採取が大きな問題となっている。神聖な戦跡公園の緑の森の中、つい最近も遺骨が発掘された、すぐ隣に慰霊塔がありガマがある、米須の地下ダムに接している、などに加えて、自然公園法に基づく届け出がなかったことが明らかになった。日本政府はどうしてこんなところに鉱山開発の認可を出すのか。
平和市民連絡会は2月12日午後、島ぐるみ南部の糸満、八重瀬、南風原の各代表者と共に、沖縄県に申し入れを行った。県からは、自然保護課・森林管理課・援護課・辺野古新基地対策課の課長や担当者らが出席し、意見交換した。県の行政を県民の側に立たせ、南部地域の土砂採取を止めよう。なお、オール沖縄では、3月20日に那覇市内で、「南部戦跡からの土砂採取」に関する学習会を予定している。

糸満市・「魂魄之塔」横での土砂採取の中止を求める要請書(抜粋)

 沖縄防衛局が辺野古新基地建設事業の設計概要変更申請書を提出し、辺野古埋立のための土砂採取地を沖縄県内全域に広げることが明らかになりました。特に、南部地域(糸満市・八重瀬町)からは、県内全域の調達可能量の7割もの土砂調達が可能とされたことから、各地で新たな土砂採取の動きが始まっています。
しかし、南部地域一帯では、先の大戦で多くの県民が犠牲となり、今も多くの遺骨が残されています。県民の間には、南部地域の土砂を軍事基地建設に使うことは、戦没者への冒涜だという怒りの声が高まっています。
糸満市・「魂魄の塔」横の斜面(熊野鉱山)では、昨年、沖縄戦遺骨収集ボランティア「ガマフヤー」による遺骨収集作業が行われていましたが、突然、自然公園法、森林法、農地法に違反した開発行為が始まりました。そのため、沖縄県環境部も昨年11月、自然公園法に基づく工事の中止を指示したところです(糸満市も森林法、農地法等に基づく指導をしています)。
ところが、昨年末、業者から自然公園法に基づく開発の届出書が糸満市に提出され、糸満市は本年1月20日、届出書を県に送付しました。県は、「基本的に届出に形式上の問題がなければ受理する」と説明していると報道されています。県が届出書を受理すれば、30日後には、現地の開発行為が可能になってしまいます。
この一帯は、自然公園法に基づき、沖縄戦跡国定公園に指定されています。沖縄戦跡国定公園の趣旨は、「第2次大戦における日米両国の激戦地として知られている本島南部の戦跡を保護することにより、戦争の悲惨さ、平和の尊さを認識し、20万余りの戦没者の霊を慰める」ために制定された」とされています(沖縄県森林管理課のホームページより)。
現地は「魂魄の塔」の横で、「平和創造の森公園」の「東京の塔」の直下ですから、土砂採取が行われれば「魂魄の塔」や「平和創造の森公園」に向かう道路にダンプトラックがあふれます。また、「平和創造の森公園」の丘陵の斜面を削り取るのですから、周辺の景観が著しく破壊されてしまいます。また、「有川中将以下将兵自決の壕」は、土砂採取地から10mも離れていません。このような場所での土砂採取は、「戦跡保護」の趣旨にも逸脱します。
また、「熊野鉱山」の隣接道路(農道・里道)には、一帯の灌漑施設である米須地下ダムの止水壁が設置されており、土砂採取による影響も危惧されています。
以下、南部地域での土砂採取、特に熊野鉱山の開発問題について下記のとおり要請します。(要請文略)

県内市町村の中国での戦争体験記を読む(44)
日本軍の戦時暴力の赤裸々な描写

 中国侵略の日本軍には、県内各地からも多くの青年たちが動員されて命を落とし、また、戦争の実態を目撃し記録した。県内各地の市町村史の戦争体験記録にはそうした証言が数多く掲載されており、日本軍による戦争の姿を赤裸々に描いている。今回は東風平町史から、満州に派遣され、シベリアでの強制労働を経験した証言を採録した。満州国の崩壊とシベリアでの様子を淡々とつづっている。引用は原文通り、省略は……で示し、補足は〔 〕に入れた。

東風平町史『戦争体験記』(1999年発行)

神谷幸助「零下四十度のソ連」


歓呼の声に送られて、東風平〔こちんだ〕駅を後にしたのが昭和十六年五月だった。補充兵だったので年齢も三十才になっていた。
本村(町)から同時出征したのが、小城〔こぐすく〕の仲座明徳、神谷せいじん、志多伯〔したはく〕の神谷幸輝、宜次〔ぎし〕の嘉数幸仁がいた。その中でも、志多伯の神谷幸輝とは、ソ連抑留まで共に苦難を体験した仲である。
熊本西部24部隊に入営し、軍事教育を受け、満州へ渡った。満州では、東安省の国境の警備に当たっていた。歩哨に立つと、ソ連軍の歩哨も肉眼で見えるほど、近距離に対峙していた。東安省には開拓団もいて、度々軍に野菜を供出する婦人の姿もあった。
昭和十九年の夏頃、満州の警備隊の中から南方戦線への移動が激しくなっていた。特に七月七日、サイパンの玉砕以後、次々と沖縄と台湾に転属していった。
昭和二十年八月九日、突如ソ連の宣戦布告によって、日ソの交戦が始まった。ソ満国境で砲弾が飛び交っていた。しかし、それも束の間、日本の無条件降伏によってわが軍は南下を始めた。間もなく、ソ連軍の捕虜となった。開拓団の婦女子も兵隊も一か所に集められた。そこで男子と女子とに分けられ男子はソ連軍に連行された。船に乗ってナホトカという港に着いた。……
仕事は農業と炭坑の石炭掘りがあった。ソ連の農場は広大で地平線まで畑だった。私は農場に行った。トラクターで掘られたジャガイモ拾いだった。最初、言葉が全然分からないから、手まね、足まねで必要な事を告げていた。小便に行きたい、大便したい、など手まねして見せた。それで結構通じていた。
間もなく冬がやって来た。ソ連の冬は想像を絶する程である。北海道がマイナス十五度等と放送されるが、ソ連の冬はマイナス四十度以下が常である。北海道の比ではない。
……
ソ連では寒さもさる事ながら、食事の量が極端に少なく、何時もひもじい思いをしていた。三百グラムの黒パンとジャガイモを二、三個入れた塩味のスープ、一リットルが一日の食事の量だった。……
捕虜の私達仲間は栄養失調と寒さで次々と死んでいった。一日の仕事を終えて晩寝るとき、もう寝ようじゃないかと、一緒に横になった者が翌朝は冷たくなっていた。これをみて、自分達も生きて帰れないなーと思った程である。何名死んだか公表されないから、死んだ人数は分からないが、三分の一は死んだのではないか。
ソ連は抑留者を帰国させる気配もないから、少しずつソ連語も勉強し始めた。満州にいたとき、ソ連語を知っている者が希望者にソ連語を教えていた。その時に勉強しておけばよかったのにと後悔した。……
ナホトカから日本海を横切って京都の舞鶴へ着いたのは、昭和二十三年十月頃である。……約一か月後、玉砕した沖縄に帰って来て唖然とした。待っているであろう妻子は十一才の女の子を残して戦争の犠牲になっていた。十一才の女の子は祖母に保護されていた。帰って来て、家もなければ食べ物もない。途方に暮れるという言葉通りだった。
……
当時の苦労は筆舌で表現できない程である。若かったから生き延びたとも言えるし、幼少の頃から粗食で成長したから、ソ連の黒パンをかじっても生き延びたとも言える。


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