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    かけはし2021年4月12日号

日本政府は沖縄を踏みにじるな


沖縄報告 4月4日


沖縄戦犠牲者をじゅうりんする新基地建設・埋め立て強行をやめよ!

沖縄 K・S



南部地区の土砂を埋め立てに使うな!という全県に広がる声


 沖縄戦の最後の戦場となり10万人をこえる県民、日米軍人、朝鮮人の犠牲者を出した沖縄南部の土砂を辺野古埋立に使うのを止めよ!という声は、ガマフヤーの具志堅さんと宗教者の会のハンストと署名活動を経て、さらに広がりを見せている。
 3月19日には、新しく副知事に就任した照屋義実さんが担当職員と共に、熊野鉱山を視察し遺骨が見つかった場所を確認した。那覇市議会と南城市議会は3月22日、南部の土砂を埋め立てに使用しないことを求める意見書を全会一致で可決した。那覇市議会の意見書は「沖縄戦では、日本軍が首里の地下司令部を放棄して南部撤退を行ない、その結果南部地区に多くの住民や日本兵が追い込まれ犠牲となった」「戦後76年が経過した今でも遺骨収集は続いている」と指摘し、@戦没者の遺骨等を含む可能性のある土砂を埋め立てに使用しないこと、A住民を巻き込んだ苛烈な地上戦があった沖縄の事情にかんがみ、さらに『戦没者の遺骨収集の推進に関する法律』の趣旨から、日本政府が主体となって遺骨収集を実施すること、を強く求めている。

 市町村議会
で意見書を可決
さらに、宜野座村、恩納村、西原町、中城村、北中城村、名護市、南風原町、八重瀬町の議会が全会一致で意見書を採択し、糸満市と与那原町では賛成多数で可決した。沖縄県議会は4月上旬、ガマフヤーの具志堅さんと熊野鉱山の業者を参考人として招き、考えを聞いたうえで、意見書の採決を行なう予定だ。
戦争犠牲者の遺骨が混じる南部の土砂を埋め立てに使うな!という声は県民の総意である。沖縄戦跡国定公園に指定されている地域であるにも関わらず、国が業者に鉱業権を与え、業者が自然公園法や農振法に違反して開発を進め、緑地帯がむき出しの土砂の無残な姿に変えられている現実に心底怒っている。魂魄の塔や東京の塔横の熊野鉱山、「ひめゆり学徒散華の地」の海岸に並行する束里鉱山、さらに八重瀬町与座の第2丸真コーラル鉱山は自然公園法や農振法に違反して採掘を進めてきたことが明らかになり、町と県から行政指導を受けた。
これら業者の不法採掘は、届け出ればそれで済むといった軽微なものではない。沖縄戦跡国定公園は県民の財産、命どぅ宝の風景であり、「沖縄に寄り添う」という言葉とは裏腹の日本政府の沖縄軽視・軍事優先の国策強行や金儲け優先の採石業者によって、壊されてはならない。
沖縄県が熊野鉱山に対し、自然公園法上の措置命令を下すタイムリミットは4月16日である。単に土砂採掘前に遺骨収集を十分やるべし、というような内容にとどまるのか、戦跡公園を守るために操業停止と原状回復を求めるという踏み込んだ内容になるのか、沖縄県の行政のあり方が問われる局面である。日本政府の各種法律による中央集権支配に屈せず、県民の価値観から県独自の自主的な行政の歩みを進めることが大事だ。翁長雄志知事が埋立承認取り消しに踏み込んでから継続する沖縄県の自主県政をきずく苦闘は、真価が問われる。県民の総力をあげて立ち向かって行こう。

辺野古、安和、塩川、海上で継続する抗議行動

 コロナの蔓延の中でオール沖縄としての集中行動が実施されない中でも、連日現場では、ヘリ基地反対協や各地の島ぐるみなどによる行動が絶えず繰り広げられている。
その中で、カヌーチームの活動を紹介しよう。海上行動のリアルをよく伝えている。

〈カヌーチームTさんの報告〉

 4月3日(土)、抗議船3隻、カヌー14艇が参加。
朝、松田ぬ浜から沖を見るとガット赤土輸送船が水平線に3隻見えた。カヌー5艇は平和丸で大浦湾開口部に向かい、8時20分、到着。大浦湾は波が約2mと高くカヌーは木の葉のように揺れる。海上保安官が「波が高いので注意してください」と形通りの注意をする。私たちは遊びでカヌーを漕いでいるわけではない。この海を守るために必死なのだ。
先頭のガット船が大浦湾に入ったと同時にK8護岸のランプウェイ台船の入れ替えが始まったので、急遽、K8護岸側への抗議&阻止行動に切り替えた。
私たちは長島の裏側を回り全力でカヌーを漕ぐ。松田ぬ浜から自走で来た5艇もオイルフェンスを越えK8護岸に向かう。赤土満載のランプウェイ台船がK8護岸に向かって来るのに辛うじて間に合った。
カヌーは10艇、これくらいいるとかなり善戦出来る。私はカヌーの横にGBを当てられ拘束されるが、別のカヌーはかなり近くまで近づくことができた。
ランプウェイ台船は当然ストップ。私たちと海保とのバトルが終了するのを待ってたと思う。たかが5分。1秒でも遅らせたい、その思いが今日は達成できたのではないか。
私たち10人は松田ぬ浜に送還された。そこで抗議船に乗り込みK9護岸に向かうのが普通のパターンである。しかし、大浦湾からK9護岸方面は無理とのことで、再びK8護岸に自走で向かう。
先ほど入れ替えが終わったランプウェイ台船は思ったよりも作業時間がかかり、約2時間以上粘ったが、赤土が1/3位残っている。このペースで入れ替えを待つのは13時以降になると判断、浜に戻ることになった。

彦山丸犠牲者を忘れないパネル討論会
元本部小学校健堅分校に30人余


4月3日午後、本部町の合同会社健堅(元本部小学校健堅分校)の体育館で、彦山丸犠牲者を忘れないパネル討論会が開かれた。主催は、健堅の遺骨を故郷に帰す会。昨年2月の共同発掘から一年を経て、帰す会の活動に終止符を打ち、今後の活動の方向性を模索する集まりだった。進行係は名桜大教官の稲垣絹代さん。
はじめに、健堅の遺骨を故郷に帰す会事務局長の南成珍さんによる開会あいさつのあと、4人のパネラーがそれぞれ発言した。
民泊受け入れ推進協力会を立ち上げた、元本部町議会議長の島袋吉徳さんは、「健堅森では小さいころから木の実を食べて遊んでいたので、一帯に日本軍壕やタコつぼなどが残っていることは知っていた。本部町のガイドの会が今度設立されるので、戦跡について伝えていきたい」と提起した。
高校教師退職後、本部町博物館の嘱託として23年間活動した友利哲夫さんは「港では疲れ切った朝鮮人が日本兵に軍靴で蹴られていた。集落には軍属(朝鮮人のことを軍属と当時言っていた)が食べ物をもらいに来ていた。日本軍がこいつらにやってはならんと言っていたが、隠れて食べ物をあげていた」と当時の様子を証言した。
本部町議で、本部町島ぐるみ会議の共同代表を務める仲宗根須磨子さんは、「平和あっての経済、福祉、そして教育」をモットーにすると述べ、「正直、健堅の遺骨発掘を通じて本部町の戦跡がたくさん残っていることを知った。学校のカリキュラムの中にも取り入れ歴史を正しく伝えていきたい」と語った。
共同発掘の際フィールドワークを担当した中山吉人さんは「共同発掘では毎晩台湾、韓国、沖縄、本土の人たちとの懇親会が開かれた。このきずなを大事にしたい。今後本部町の戦跡巡りのコースを作っていきたい」と抱負を述べた。
健堅の遺骨を故郷に帰す会共同代表の沖本富貴子さんは「たった一枚の墓標の写真から東アジアの青年たちが集まり共同発掘するに至った。彦山丸に朝鮮人の犠牲者がいたということは沖縄戦が日本のアジア侵略戦争の一環であることを示している。遺骨を故郷に帰すことを目的とした会は本日を最後の締めくくりとして解散することになるが、アカバナとムクゲの成長を見守りながら、アジアの平和のための一助になるよう願っている」と締めくくった。


ムクゲとアカバナの花壇で追悼

 パネル討論会の後、場所を発掘現場下の花壇に移し、島津八子さんの進行で、追悼と植樹の集いが行われた。はじめに全員で黙とう、ムクゲとアカバナの説明、福島のひまわりの種の話と種まき、最後に、アリランと月桃の花の合唱で幕を閉じた。
沖縄戦のさなか、1945年1月22日、米軍機の攻撃により炎上座礁した日本軍輸送船・彦山丸の犠牲者14人(日本人軍人軍属12人、朝鮮人軍属2人)の遺骨が眠る場所は数十mの単位では特定できている筈だ。しかし、昨年2月の共同発掘作業では遺骨を発掘するには至らなかった。
発掘現場の崖下の一角に造られたムクゲとアカバナの花壇は、犠牲者に対する追悼の意と記憶し続ける気持ちをあらわした生きたモニュメントだ。共同発掘の記録集『埋められた歴史・記憶を探し求めて』をご希望の方は、連絡先電話090-3794-0524(沖本)まで。

県内市町村の中国での戦争体験記を読む(49)
日本軍の戦時暴力の赤裸々な描写

 中国侵略の日本軍には、県内各地からも多くの青年たちが動員されて命を落とし、また、戦争の実態を目撃し記録した。県内各地の市町村史の戦争体験記録にはそうした証言が数多く掲載されており、日本軍による戦争の姿を赤裸々に描いている。
前号に引き続いて、これから何回かに渡って紹介するのは、冊子に採録されていない証言の数々である。今号では、最前線の機関銃中隊に所属した2人の証言をとり上げた。引用は原文通り、省略は……で示した。

『西原町史』第3巻資料編2
「西原の戦時記録」(1987年発行)

喜屋武高助
「最前線の機関銃中隊」

 昭和十五年、満二十歳で徴兵検査を受け、甲種合格した。同年三月一日、現役兵として大分歩兵第47連隊補充隊第3機関銃中隊に入隊し、終戦まで兵役に従事した。西原出身者で、同じ機関銃中隊に入隊したのは私を含めて四人いたが、生き残ったのは私一人である。……私たちの隊の戦歴は内地→中支→南支→台湾→比島→ジャワ→豪北と移動した。
大分歩兵連隊に入営してから、二、三か月間の厳しい訓練を受けた。初年兵の一期検閲までの訓練は想像を絶するものである。午前中の訓練を終えると、朝巻いたゲートルのままで昼食を済ませ、食器を洗う。それから屯営の自分の宿舎に帰るが、休息の暇もなく、12時45分までには、午後の訓練のために機関銃の準備をしなければならなかった。他の雑念を全然受け付けないほどに、訓練はものすごいものであった。
昭和十五年五月十三日に第一期検閲を終了し、六月には中支に向けて門司港を出発した。中支や南支でさまざまな作戦に参戦した。昭和十六年九月には、大東亜戦争の準備のため台湾に渡った。太平洋戦争勃発後の十二月二十二日、フィリピン、ルソン島のリンガエン湾に敵前上陸した。我が隊が一番乗りであった。
中支や南支の作戦では、何回も危険な目に会った。昭和十五年八月の中支、岳州地区作戦では、もう少しで戦死するところであった。敵のチャイナ―ドで100mの至近距離から攻撃された。
その時私は初年兵であった。機関銃隊員には一番から九番まで番号が付されて、一番に当たっている兵は敵情を観察し、二番の兵は弾薬を込める、というふうに、九人で一台の機関銃を操作する。軽機関銃の場合は一人で撃つが、重機関銃は二人で撃つ。二番が弾を込めて、四番が撃ち、五、六、七、八番は600発入っている弾薬箱を担いだ。その人たちは肩がすりむけるので草履のようなものを肩に当てたり、いろいろ工夫していた。
支那の夏は大陸性高気圧で沖縄の三倍ぐらい暑かった。その戦いで、大分県出身の入学曹長が戦死した。岳州地区作戦では敵の攻撃も激しく、戦死を覚悟していた。機関銃中隊ではいつも四番であった。……
戦闘の最前線はいつも機関銃隊である。敵の兵隊が現れると、すぐに「機関銃隊、前!」で、いつも第一線に立たされた。私が敵兵を見つけたら、必ず命中させた。百発百中であった。……

与那嶺清助
「中国、仏印戦線」

 私は昭和十五年十二月一日に宮崎県に駐屯していた都城23連隊に入隊し、翌年二月に北支に派遣された。その間は都城で軍事訓練を受けた。
私は機関銃中隊に配属された。機関銃中隊には重機関銃隊と歩兵砲隊があったが、私は歩兵砲隊にいた。砲門は2門あった。中隊の兵員数は120〜130人ぐらいでした。私が配属された中隊に入隊した沖縄出身者は私が最初でした。私の後から次々沖縄出身者も入隊するようになった……
大東亜戦争が始まった時は、中支から南支に向けて南下中でした。激戦地では、前線で一緒に戦った戦友たちは、一緒に夕食を食べながら、今度戦闘にでるときは生きて帰れないかもしれないと言って、お互い水盃を交わしたりした。そして、二、三時間経つと誰々戦死という悲報が入ったりした。中国戦線は実に激戦でした。
初年兵の時、約一か月続いた中原会戦に参加したが、雨が降り続き、道路がぬかるんでいる中を、大砲の車輪を担いで移動させられ、非常に辛い思いをした。移動の時は、大砲を分解して車輪と砲身を別々にし、初年兵が担いで道路や川をかがみながら移動した。……それで、終わりごろになるとあまりにもきついので、古年兵が「背を低くしないと敵にばれてしまうぞ」と言っても、弾に当たって死ぬなら死んでもいいと思い、そのまま進んだ。
ビンタは私のころまではあったけれども、後からは、私的制裁の撲滅といって、中隊全体で禁止するようになったので、上官の目の届かない所ではビンタがあったかもしれないけれど、みんなの前でのビンタはあまりなかった。
私の所属部隊は、北支から中・南支、仏領インドシナのベトナム、タイを通り、マレー半島、シンガポールとあちらこちらを転戦したが、シンガポールでイギリス軍の捕虜となり、二か年間捕虜生活を送った。……


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