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書 評『査問』(川上徹著 筑摩書房 1800円+税) かけはし1998.2.2号

日本共産党「新日和見主義事件」と歴史の真実

満井 聡(日本共産党員)

 1972年、日本共産党内で「新日和見主義派」と党中央に規定された人々に対する粛清が行われるという事件があった。この事件で大衆団体と党の役職から追放され、のちに除籍処分となった一人の人物が、その粛清劇の全容を明らかにする『査問』と題する書を出版した。それは、スターリニスト党の論理をあらためて明らかにするとともに、革命をめざす組織が陥ってはならない落とし穴を逆照射している。


歴史の空白を埋める著作

 昨年12月、『査問』という奇妙な題名の著書が出された。著者は川上徹。現在は、同時代社という小出版社を経営している。全共闘世代なら、党員でなくてもこの名前を何度か聞いたことがあるはずである。民青系の再建全学連の委員長、民青の中央幹部を歴任し、トロツキストに関する著作を何冊も新日本出版社から出している。
 ところが、この第一線の活動家が、他の数十、数百人の民青中央・地方幹部、全学連幹部、党青学対幹部らとともに、1972年の5月に分派主義の名目で苛酷な査問を受け、永久的に共産党・民青の役職および系列の大衆団体指導部から追放された。これが党内で言うところの「新日和見主義事件」である。
 この事件そのものの有名さにもかかわらず、その真相は事件から25年たった今日でもほとんど明らかになっていない。これまでも数多くの分派事件が共産党内で発生しているが、いずれも、分派の当事者とされた人々は、事件の直後か、一、二年のうちに公然と自分たちの意見を発表し、それに呼応して共産党からの批判が起こるという形で、激しい応酬がなされたものだった。だが、この事件に限っては、当事者のほとんど全員が処分決定後も一貫して沈黙をかたくなに守った。党の側も、「新日和見主義」という曖昧な名称を与えたものの、誰がどこで何を主張したのかについては具体的に触れぬまま、彼らの主張とされているいくつかの意見を批判するだけであった。
 実は、地下出版物という形で当事者の手記がごく一部には出回っていたのだが、それを目にすることができたのは、党内でもほんの一握りの者でしかなかった。それがついに、当事者による全面的なドキュメントとして出版されたのである。これはまさに歴史の空白を埋める画期的な手記である。

査問とはどんなものなのか

 手記は、査問の当日の様子から始まる。少し遅刻して民青本部に出勤した川上徹氏(当時、本部勤務員で中央常任委員)は、突然、党中央に呼びだされ、党からの使者である「無言の男」とともに代々木本部の一室に通される。やがて、テープ係の男を連れた党中央幹部の下司順吉が入ってきて、おもむろに規約の書いた手帳を広げ、規律違反の疑いにもとづく調査を行なうことを告げる。査問の始まりである。
 査問を受けることを無理やり同意させられた川上氏は、それから何と13日間にも及ぶ長い長い査問を受けることになる。その間、川上氏は、家に帰ることも、身重の妻に直接連絡することも、一人になることも許されず、便所に行くのも監視の男つきであったという。査問では、数ヵ月間の氏のありとあらゆる行動が根掘り葉掘り聞かれ、その時した会話、その時いた人物、その場所、時間などがすべて念入りにチェックされた。そして、ありもしない分派の事実を認めさせられ、そして自己批判させられるのである。
 党の官僚主義に批判意見を持ちつつも基本的に党に忠実である一人の党員が、いかなる心理的過程を通して、嘘の自白をするにいたるのか、それがこの著作の一つの圧巻をなしている。
 「他愛のない会話を恐るべき『陰謀』のドラマに自ら変えていく作業。自分を悪人に仕立てていくことが党への忠誠につながるというジレンマ。自ら『罪』を求め、『罪』を発見していくやりきれない作業」(93〜94頁)。
 全国的に数百人規模で行なわれたこの追及の過程は、しばしば苛酷で非人間的な形態をとった。川上氏と並んで分派の中心人物と目されたある人物は、中央幹部から次のような恫喝を加えられている。
 「お前、オレをナメるのか! 共産党中央をナメるのか! 甘く見るんじゃないぜ」
 「オイ、全部吐けよ、吐きゃあ気も楽になるし、家にも早く帰れるのにな」
 「そうか、どうしても吐かないっていうんだな。こっちは査問をいつ打ち切ってもいいんだぜ。そのかわりナ、お前……という人間をナ、党内はもちろんのこと、社会的にも抹殺してヤル。断固、糾弾していくんだぜ」
 「お前、子どもがいるナ。民主連合政府になってナ、親父は反党反革命分子だということになったら、子どもはどうなるんだ。子どもの将来のことも考えろよ。オイ、吐けよ」(65〜66頁)。
 戦前の特高警察による取り調べを彷彿とさせるこのような苛酷な追求にもかかわらず、結局、分派活動の物的証拠は挙がらなかった。だが、それによって追及の手が止むことはけっしてなかった。
 「真に驚くべきことは、共産党という巨大なシステムは、権力発動の動機となったリアリティーを完全に喪失した状況のもとでも、その権力の機能は全く衰えることはない、という事実である。そして、喪失したリアリティーの代わりに、システムの存続それ自体がその組織体にとってのもっともありうべきリアリティーとして登場する。また、喪失したリアリティーと組織存亡のリアリティーの比重の対比が後者にかかればかかるほど、構成員たちの凝集したエネルギーは倍加し、戦闘性(残酷さや冷酷さやおよそ非人間的なるものも含めて)さえもが飛躍的に増大するのである」(150〜151頁)。
 こうして、事件に連座した人々は一人残らず、スターリン時代のモスクワ裁判の被告たちと同じく、ありもしない分派活動を自白し、党の言い分にそって自己批判したのである。モスクワ裁判と違うのは、党が国家権力ではなく、したがって、自己批判の後に続いたのが「銃殺」ではなく、大衆団体と党の役職からの「完全追放」だったことである。
 これらの人々の多くは専従活動家だったので、このことはただちに、生活の糧を失うことを意味した。懲戒免職という形式をとったので、退職金もなかった。また長い専従歴のため、一般的な会社に就職することもできなかった。彼らはみな、日雇い、肉体労働、漁師、その他あらゆることをして生活の糧を稼ぎ、家族を養わなければならなかった。しかもその間、党員としての地位を維持するために、自分の受けた不当な行為については沈黙を守らなければならなかった。

右転換のスケープゴート

 この事件を指示し、直接指導したのはもちろん、宮本顕治その人である。宮本は、「被告」たちに虚偽の自白を強制したのみならず、彼らの人格を公然と侮辱した。
 「宮本顕治は講演会で、一派の者が書いた自己批判書の文章を取り上げ、『娯楽』と書くべきところを『誤楽』と書いていたと紹介し、一派の者たちの知的教養の低さを嗤った。それを『赤旗』がそっくり掲載し、その箇所で『(爆笑)』と記録していた」(183頁)。
 複数の人間に密室に隔離され、何日もわたって尋問を受け、脅迫と誘導尋問に繰り返しさらされ、おそらくは震える手で書いたであろう自己批判書の一部に誤字があったとして、何か不思議なことがあろうか。「長いスパン」と言うべきところを、何十回にもわたって「長いスタンス」と言い続けた宮本自身に彼らを嗤う資格があるのか。
 しかしそれにしても、この奇妙な事件はいったいどうして起こったのだろう。どうして、基本的に党に忠実な第一線の活動家たちが何百人も粛清されることになったのだろう。単に、宮本が分派活動の幻を見たにすぎないのか。もちろんそうではない。
 彼らは何よりも、党の右転換のためのスケープゴートだった。処分された数百人は、当時における学生運動の盛り上がりを中心で支えていた人々であり、最も熱心に街頭闘争、学内闘争に参加していた人々である。したがってまた、学内での他の党派とのゲバルト闘争に最も先頭に立っていた人々である。
 党中央は最初、大学内でのヘゲモニーを獲得するために彼らの力を必要とした。だが、自然発生的運動の持つ独自の論理は、しだいに党中央の官僚的統制の手から少しずつはみ出しつつあった。彼らは、大衆闘争よりも組織拡大と選挙に熱心な党中央にしだいに不満をつのらせていった。だが、その不満は、当時にあってはまだまったく初歩的なものであり、イデオロギー的にはまだまったくスターリニズムの枠内にあった。それにもかかわらず、自然発生的運動の急進性に対し憎悪に近い恐怖心を抱いていたスターリニスト官僚は、その程度の「自立性」「不満」にすら我慢できなかった。
 しかも、当時共産党は選挙で倍々ゲームを展開し、大衆的に受け入れられるより穏健で安全なイメージへと脱皮することを狙っていた。この目標からして、街頭や学内で急進的運動を展開するこの集団は目の上のたんこぶとなった。皮肉にも、党が「穏健」になるために、巨大な「強制力」が用いられたのである。かくして、まだ「星雲状態であった」(党幹部の茨木良和の言葉)これらの人々は、「双葉のうちに」(宮本の言葉)摘まれたのである。
 だが、この粛清は、何よりも党と民青自身にとっての大打撃となった。すでに、運動はその頃からしだいに下火に向かいつつあったのだが、最も熱心で戦闘的で献身的な数百人を一網打尽にしたこの事件は、この衰退の過程を人為的に促進し、民青内部のわずかな自立性をも奪い去ったのである。後に残ったのは、党中央の言うことならどんなことでも聞くイエスマンだけであった。党と民青はこの時に受けた打撃から、25年たった今もまだ回復していない。

「赤旗」紙上の奇妙な反論

 この事件に連座して不当処分された人々は、広谷俊二氏などごく一部をのぞいて、党員としての地位を守るためにひたすら沈黙を続けた。だが、事件から20年近くたって、原水協事件との関連で除籍処分になった古在由重氏が死去したとき、川上氏は、古在氏の晩年に親しかったこともあって、葬儀委員会の事務局長を引き受けた。このささいなことが結局、事件から19年間も守り続けた党員の資格を失うきっかけとなった。事務局長を降りるよう要求する党中央の言い分を拒否して、除籍処分となったのである。
 川上氏は、党という重荷を降ろしてようやく、自分の受けた異様な経験を発表する気持ちを固めることができた。25年たって語られるこの事件の全貌は、ある程度予備知識を持っていた私にとっても十分衝撃的なものである。しかし、その語り口はあくまでも冷静であり、糾弾的な調子はまったく見られない。それはあたかも、歴史の審判に委ねるために、すべてを語る被告の最後の言葉のようである。
 この書物は出版されて一ヵ月ですでに二版を重ね、現在、第三版を準備中だそうである。共産党はかなり遅れてこの書物に対する反論を『赤旗』の「別刷り学習党活動版」の片隅に発表した(98年1月20日付け)。しかし、それは、実に奇妙なものであった。
 まず第一に、この種の「攻撃」(彼らから見て)に対して、共産党は常に『赤旗』の通常の頁か、あるいは『評論特集版』か『前衛』に大々的に反論を掲載する。だが、この書物の衝撃的な内容にもかかわらず、その扱いはきわめて小さく、目立たない。まるで、あまり広く読まれたくないかのようである(事実、私も友人から教えられるまで、この反論記事に気づかなかった)。
 第二に、その反論は、彼らが分派であったことを繰り返し強調し、また当時の彼らの主張ををねじ曲げたうえで攻撃しながらも、この書物の最も重要な点である「査問」の事実関係に関しては、一言も反論していない。
 川上氏を13日間にも渡って不法監禁したこと(まぎれもなく刑法上の犯罪である)、その他にも数十人を数日間以上監禁して、自己批判を迫ったこと、査問の過程で行なわれた数々の暴言、脅迫(これも、まぎれもなく刑法上の犯罪である)、川上氏の机およびロッカーの中の私物を同意なしに持ち出し、閲覧したこと(これも犯罪)、等々について、一言も反論がないのである。
 刑法上は、これらすべての犯罪行為にはすでに時効が成立しているだろうが、道徳的に、とりわけ革命党としての階級的倫理に照らして、自らの誤りを認め、被害者に対しきっぱりと謝罪するするべきだろう。もしそれができないとしたら、その道徳観念は厚生省以下ということになろう。

この事件から何を学ぶのか

 新日和見主義分派として摘発された人々は当時、党中央の官僚主義、議会主義に批判的意識を持ちつつも、スターリニズムに代わるトータルな理論的オルタナティヴを何ら持ち合わせていなかった。このことが、査問において全員の屈服、自己批判へとつながる一つの要因にもなっている。
 そして、査問、自己批判、処分、蟄居あるいは再教育という苛酷な経験を経たのちも、彼らは、官僚主義や議会主義にとどまらないスターリニズムの真の問題性について全面的に再検討することも、トロツキズムの革命的伝統を再発見することもなかった。おそらく、彼らが直接対峙していた「トロツキスト」(実際にはそのほとんどはトロツキストではなかったが)による暴力の鮮烈な印象が、そして、自ら「トロツキスト」に対して行使していた暴力の苦い記憶が、それを妨げたのであろう。
 本書を通読するかぎり、今日の川上氏は、当時の急進主義的伝統をより視野の広い、より首尾一貫した、より柔軟な理論的・思想的体系のうちに止揚させるよりも、田口富久治氏をはじめとする、社会民主主義的あるいは市民主義的方向性に、未来を見いだしているように見える。事実、氏は、新日和見主義分派の処分とともに遂行された党の「右転換」を、肯定している。また、新日和見主義分派として処分された一人であるジャーナリストの高野孟は、その後、92〜93年の帝国主義的政治改革に加担している。
 川上氏は今後どの政治的方向に進んでいくだろうか。それに関してわれわれは、いかなる幻想も抱くべきではない。だが、氏がなおも本書で吐露している「よりよき未来」「より人間らしい社会」への信念を真に全うするつもりならば、トロツキーと左翼反対派の理論と歴史に必ずや学ぶべきものがあるはずである。
 一方、われわれはこの事件から何を学ぶべきだろうか。この事件から単に、スターリニズムの悪辣さを1001回目に確認するだけにとどまるなら、それはあまりにも貧困な教訓である。新左翼の側も、このような不当な査問、あるいは、内部ゲバルトへと退廃していった歴史を持っている。内部ゲバルトをきっぱりと否定した第四インターナショナル日本支部ですら、女性差別事件に象徴されるように、深刻な問題を内部に抱えていた。新日和見主義事件はけっして他人ごとではない。査問した側ですら、ある意味で、革命的・戦闘的精神にのっとって、本当に分派主義と闘っているつもりで、あのような愚行を演じたのである。
 革命的・戦闘的精神と、誠実で民主主義的な組織と実践のあり方をどのように両立させるべきか、党の高度に集中され統一されたあり方と、党員の知的・実践的自立性とをいかに有機的に統一すべきか、これは理論の問題であるだけでなく、何よりも日々の実践の問題である。スターリニズムを理論的に葬り去ることは比較的簡単である。だが、それを実践的に克服することは、長く苦しい営みである。われわれは、このことの生きた教訓をこそ、この事件から学ばなければならない。1998年1月24日


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