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韓国は、いま  かけはし99.10.11号より

「私たちは消え去ってもいい。ただ少し時間をくれ」

石炭産業切り捨て政策に抗議し坑内で断食篭城した労働者


地下332メートルの切り羽で

 地下332メートル。いったい、どんな所なのか。地熱が空気を温め、30メートル下がるごとに温度は一度ずつ上がっていく。湿度は80%を超える。地上の空気を供給しても酸素は希薄なほどだ。周りの石炭は二酸化炭素を噴き出す。海底のような圧力を感じる。松材の坑木は腐っている。人間の行く所であればどこにでも付いてくるネズミがここにもおり、命の尽きたものたちは、その場で朽ちていく。そして何よりも耐えがたいもの、立ちこめた炭塵が空中に漂う。ひとことで言えば黒い地獄だ。
 そこが籠城の場に変わった。全国鉱山労組連盟の代表者12人が9月13日から4日間、江原道旌善郡古汗邑にある且O炭旌岩鉱業所の坑道内の切り羽で断食籠城を展開した。海抜832メートルの地上から垂直に332メートル下がり、さらに水平に4キロメートル分け入った所だ。彼らは坑道を切り壊し、外部との接触を断った。籠城場所から50メートルほど離れた所に一台の電話を設置しただけだ。電話を受けることはせず、かけることだけができた。

極限の生存条件下での決死の断食

 切り羽は外部とはあまりにも異なる温度と湿度のため、出入りするだけでも真夏のどんよりとした空気が漂う。3日目になった日。籠城者たちは体力が落ちるにつれ激しい寒さを味わわなければならなかった。地熱はあるものの、湿度が高く、じっとしていると寒い。このようなさまざまな条件に加え、坑内の時間は外よりもはるかにゆっくり流れる。6時間でも長時間労働に属するというのが鉱夫たちの労働条件だ。その中で断食をするというのは想像するよりも厳しいことだ。
 鉱夫でなければ思いもつかないこの籠城は、9月9日に点火された。その日、「無煙炭火力発電所の売却反対および石炭産業抹殺政策粉砕のための労使・住民闘争決起大会」という長い名前の集会が旌善郡舎北邑で開かれた。
 これらの人々の5項目の要求は@無煙炭の主たる消費所である火力発電所の売却推進の撤回A11炭鉱の450万トン生産の約束の履行B年間100万トンの石炭備蓄の強制と失業問題が解決されるときまでの延長実施C炭鉱勤労者の対策費を36カ月分に現実化D石炭公社の未販売貯炭200万トンの即時備蓄などだった。要求事項の中で聞き慣れない用語のベールをはいでみると、結局、このようなスローガンとなるわけだ。「死ぬほど必死で石炭を掘った。我々の生きる道を聞いてくれ」。
 キム・テソン鉱山労連保安室長(鉱山労組は産業災害を妨ぐことが重要なだけに「保安」という独特な編制が、会社はもちろん労組にもある)は言葉のはしばしに、こう付け加えた。「無識な鉱夫らだとなじらないで…」。そうかも知れない。坑道の行き止まりの切り羽。「人生の切り羽」だと語る炭鉱に身をあずけた彼らは、腕には実にさまざまな傷痕が生じていた。地上で夢をつかめない彼らの終着駅が、まさに炭鉱だった。
 9月15日午後。舎北駅から坂道を下り、「めがね橋」を過ぎると赤い波がなびいていた。石炭労連の代議員らの削髪籠城(注、抗議の意思表示として削髪する)の場所である鞄血エ福祉会館前広場。80年の「舎北事件」(注)の現場だ。大きな穴が2つ開いていて上に鉄路が通っている陸橋は、めがね橋と呼ばれる。舎北事件当時、2つの穴は坑木でふさがれ、橋の上を通っている鉄道周辺には山のように坑木が積まれていた。それから19年。彼らは身一つ以外に残ってはいなかった。

命を削り働いてきた者を捨てるのか

 9月9日、キム・ドンチョル石炭労連委員長ら21人が削髪し、徹夜籠城を始めた。9月13日午後に労組の代議員と幹部200余人が第2次の削髪式を行い、午後5時ごろから代表12人が坑内での断食に突入した。
 現在、年間四450万トンの生産量を2000年には350万トンへと減らそうとする政府の方針が施行されると、10人中の3人は退出しなければならない、という現実が彼らを極端な闘争へと追い立てた。退職すると出される炭鉱勤労者対策費というのは3〜4カ月分の月給分と定着費、移住費などを合わせ700万ウォン(1万ウォンは約900円)にもならない。彼らはいまや残るにせよ、出て行くにせよ、みんなに一緒に行動すべきだとの考えに至った。
 「一日に服は二着、必要だ。切り羽内はとても蒸し暑いが天井から落ちてくる石塊から身を守ろうとするなら長い服を着て作業しなければならない。その服が汗で濡れて一日に何回も絞って着る。仕事を終えて出ると長靴の中には汗が1〜2センチメートルほどたまるのが普通だ。退勤するときには予備で持ってきた服を着て出てくる」。
 このように大変な仕事ながらも、一時はアキがなくて働けなかった。80年代中半には百人の募集のところに1000人以上が押し寄せたりもした。身体検査や面接も厳格だった。髪を伸ばして出勤などするものなら態度が不良だとして脱落させるほどだった。
 だが過去の産業発展の働き手が、いまは心を痛める場所となった。89年の石炭産業合理化以後、360余鉱のうち14鉱だけが生き残った。それさえも生産量の減縮が継続して進められるにつれ、鉱夫たちは暗い切り羽を出てきても、退出の危機意識で目の前は真っ暗だ。炭鉱自体も遠からずすべて閉門されるだろうとの暗鬱な予測が、しだいに現実化している。政府は韓国電力の火力発電部門を分離し、民間に売却するものと決定した。民営化した発電所が値段の安い輸入燃料を使うのは明らかだ。
 9月16日未明には、いつにも増して濃い闇が籠城の場にたれ込めた。鞄血エ・舎北鉱業所で坑道崩壊事故が起きたのだ。坑道に閉じ込められた6人の鉱夫は11時間ぶりに、やっと救助された。45年8月15日の解放以後、坑道で命を失った炭鉱労働者だけでも六千余人。塵・珪肺症などで命を奪われた人々まで合わせれば数十万人の犠牲によって石炭産業は維持されてきた。
 「それなのにいまになって我々を弊履のごとく捨てるというのか」。
 炭鉱労働者たちの怒りは、この地点で爆発した。炭鉱がなくなっては鉱夫たちはやることがない。きつい労働をしようと思っても、じめじめとした坑内に合わせた体質は、太陽の光輝く、いわゆる「シャバ」では、うまくいかない。古汗・舎北にカジノができたとはいうものの、ずっと石炭を掘る仕事をしてきた人々に与えられる働き口はない。籠城の場で最年小のイ・テヒ氏(34)は「カジノができても労働者に回ってくるものはない。学んだわけでもないし商売をした経験もない。できる仕事といえば、せいぜい掃除ぐらいだ」と語った。
 ユン・ヨングン地域再生共同推進委事務局長(40)は「住民の80%以上が鉱山で亡くなった鉱夫の遺族や負傷した人」であり「確かに索漠として面白みのない所ではあるが、第二の故郷と考えて定着しようと努力している人々のために代替産業を誘致するなど、働き口を用意してやらなければならない」と語った。石炭産業の合理化は必要だが、事後の対策がまず優先されるべきだ、との指摘だ。
 「この人々がここにいるのが、それでも安定した生活になるのか、そうでないのか。二世の教育も考え、そうしてみると死ぬこともできず、カユの一杯もすすりながら切り羽に向かうんです。そんな人々を、そのまま放り出してよいのでしょうか」。

「自分たちの運命は知っている」

 長省鉱業所のイ・ジェデ氏(37)は長省で生まれ育った。籠城7日目に妻が「面会」に来た。生まれてから2カ月になる息子ホゴニと一緒だった。「鉱夫の息子らしく泣き声の元気な息子を眺めながらイ氏は語った。「ここが、いいです。子どもらが大きくなって、ここが父ちゃんの故郷だと訪ねて来られるほどの所に作りたいんです」。
 公共勤労事業予算の1%だけ石炭産業に投資し、年間100万トンだけ生産量を増やせば、施設の投資がなくとも肉体労働者5000人に仕事場を与えられるとの主張もあり、また鉱山はひとたび廃鉱すれば水没し、再開発するのは難しいから何としてでも維持すべきだ、との主張もある。政府は効率ばかりを追い求めエネルギー安保という観点からのアプローチがない、との指摘もある。80年代の半ばには27%だったエネルギーの自立度が、いまは2%にすぎない。
 9月17日、労組代表者12人の妻たちが削髪に合流し、石炭公社労組長省支部代議員と幹部20人は坑内籠城に突入した。彼らが予定した最後の手段は全組合員が一斉に辞表を出し炭鉱を離れるという極端な行動だった。
 幸いにも、この日の午後、交渉が妥結したとの知らせが伝わった。年間生産量を昨年水準の410万トンの線を維持し、残る石炭は全量、備蓄することとした。炭鉱勤労者の対策費は積極的に現実化することとし、このために労政特別機構を作るということで合意した。火力発電所の民営化問題は国産炭を使用するように法令に明示することで解決した。
 けれども鉱夫たちは自分たちの運命を知っている。公務員の月給の3倍を受け取っていた良き時代は記憶の底にうずめなければならない。トン当たりの原価が11万ウォンになる国内産石炭の価格はトン当たり5万7710ウォンだ。しかも三級炭。一級以上と評価される輸入炭はトン当たり18ドルで買える。且O炭のある幹部は「炭鉱業はどのみち滅びる。残るのは衝撃波を可能な限りやわらげながら消え去るという道以外にない」と語った。
 「鉱夫になろうという人ももはやいないし、掘る炭道もなし、企業もやる意志はなし……どのみち炭鉱はダメだ。だからといって死ぬこともできず鉱夫の仕事をただあと何年かやるということだ」。
 ある労組員の言葉のように、結局、離れなければならない鉱山ではあるが、まだ離れる準備ができなかったというのが彼らの最後の訴えだった。
 ある労組幹部が洩らした率直な気持ちは、こうだ。「火力発電所の売却反対は事実上、最も副次的な要求事項だった。鉱夫たちが鉱山をやめるとき、いささかでも未来を保障されるという希望を与えようというものだった。3〜4年ぐらいでも一時的に援助してくれたら、後は廃鉱であれ何であれ政府の計画に従う考えだ」。
 
退路のひとつがわずかに開かれた

 学校に通っている子どももいるし、自らも再就職に時間が必要だ。鉱夫であれば、だれでも少しは塵・珪肺症を持っている。このような条件のゆえに炭鉱勤労者対策費が必要なのに、いまの規定は八九年の石炭産業合理化の当時、80年代の小規模鉱山を規準に策定されたものであって、現実性のないものだった。振り返ってみると、鉱夫たちの要求は極限の闘争手段に比べて傷ましいほどにささやかに思える。「あなた方が望むのであれば、われわれは消え去ろう。ただ、われわれに消える時間をくれ」。
 仲秋をちょうど一週間後に控えた、この時期。鉱夫らの出身地を集めると全国地図が面(注、行政単位、村に相当)単位までできあがる時節があった。名節(注、祝祭日、特に旧8月15日の秋夕)ともなると故郷に帰る人々を満載した列車であふれた舎北駅は、閑散とした簡易駅のように変わった。鉱夫たちの血と汗が炭塵にまみれた炭鉱の歴史も、いまや坑内に埋められている。地下332メートルの坑内の籠城を通じて彼らは小さな「退路」の一つを開けたにすぎない。(「ハンギョレ21」第277号、99年9月30日/10月7日付、古汗・舎北=パク・ヨンヒョン記者)
 注 江原道、東原・舎北蜂起。80年4月、全国的な一連の民主化運動の流れの中で、炭鉱労働者と家族・地域住民7千人が「賃金引き上げ」と「労組の御用幹部追放」を掲げて決起した。


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